著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.75-92, 2020-02-28

本稿は二〇一九年春号の『ランフィニ』誌第一四四号に掲載された「前衛の死:メディ・ベラージ・カセムとフィリップ・ソレルスとの対談」を翻訳しそれにコメントを付したものである。この対談でソレルスは『テル・ケル』の前衛性、他の前衛との違い、ギー・ドゥボールと『アンテルナショナル・シチュアシオニスト』との関係、『テル・ケル』から『ランフィニ』への移行などについて証言している。
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:18800912)
巻号頁・発行日
no.6, pp.75-86, 2010-02

イヴ・ボヌフォワにとってランボーの作品は本質的な参照対象であり続けている。1961 年の『ランボー自身によるランボー』から2009 年のエッセー「我々がランボーを必要としていること」にいたるまで、ボヌフォワは折に触れランボーに言及してきた。ボヌフォワはランボーのうちに希望と明晰さの弁証法的な運動を認め、それがもたらすものを自らの詩学に接合した。しかし1961 年においてボヌフォワはランボーの重要なソネット『母音』について解釈をあたえなかったが、2009 年になるとこのソネットに独自の解釈を施している。この違いはおそらくボヌフォワの70 年代におけるシュルレアリスト的オートマティスムにたいする再評価によって説明されるかもしれない。シュルレアリスト的オートマティスムはランボーの≪あらゆる感覚の錯乱≫に結びつけられ得る。またボヌフォワにとってオートマティスムは≪アナムネーシス≫のためのよい方法であることが判明したのだ。しかしブルトンはランボーを≪思春期の天才≫とのみ見做していたのだが、ボヌフォワはランボーを≪幼年期≫を証言する者とかんがえていた。この点でボヌフォワはブルトンと分かれる。ボヌフォワ自身の明晰さはボヌフォワの詩が現実の直接性から分離した文学的な幻想とならないよう警戒している。For Yves Bonnefoy, the works of Rimbaud have been essential objects of reference. From his Rimbaud par lui-même in 1961 to his latest essay Notre besoin de Rimbaud in 2009, Bonnefoy has on occasions mentioned imbaud in whom he has found the dialectic movement of hope and lucidity and he has articulated its consequence with his own poetics of presence. In 1961, he did not treat Rimbaud's crucial sonnet Voyelles, whereas in 2009 he interprets it in his original way. This difference may be explained by Bonnefoy's revaluation of the surrealistic automatism during the 70's. The surrealistic automatism can be connected with Rimbaud's ≪ derangement of all the senses ≫ and for Bonnefoy it has been revealed to be a good method for ≪ anamnesis ≫. But while André Breton considered merely Rimbaud as a ≪ genius of puberty≫, Bonnefoy regarded him as a witness of ≪ infancy ≫ that is essential to Bonnefoy's poetics. In this point, Bonnefoy differs from Breton. The lucidity of Bonnefoy himself guards his poetry from falling into a literary illusion independent of the immediacy of the reality.東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.7-19, 2015-02-28

本稿はフィリップ・ソレルスの小説『「時間」の旅人たち』における「時間」の様態について明らかにすることをめざしている。ソレルスによれば、「社会」における「時間」は瞬間的な今の連続であり、線状的に流れるものである。それは過去にも未来にも拡張しない。「社会」をあたかも神のごとく信じているひとびとは徐々に「時間」の感覚を失う。これに反してこの小説の話者は様々なテクストを読むことによって過去・現在・未来を自由に行き来する。彼はグノーシスによる「時間」の概念を受け入れ、天地創造や最後の審判に何の関係もない光の楽園の永遠の「時間」を見出す。ソレルスはこのような「時間」の様態を四次元的な「時間」と呼ぶ。彼にとってヘルダーリン、ランボーあるいはカフカといった「時間」の旅人たちは、「社会」における今ここで楽園とメシアを啓示するものたちである。過去・現在・未来を通して彼らのテクストは楽園の恍惚的な「時間」の存在を呼びかける。そして話者自身もこの四次元的な「時間」を旅している。
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
no.12, pp.48-67, 2016-02-29

本稿は二〇一三年に「ランフィニ」誌第一二二号に掲載された「《地獄の季節》:行くこと―帰還すること」と題された記事を日本語に訳したものである。ソレルスによれば一八世紀の不在とロマン主義的な社会あるいは主体はランボーにとって地獄として現れる。地獄へ行くとは同時代の社会を批判するという意味である。しかし同時にランボーは新たな理性や新たな形態の愛を発明することによって地獄から帰還しようと努める。この点でソレルスはランボーのうちにニーチェとハイデガーの先駆者を見出している。それに加えてソレルスはランボーが始源におけるグノーシス的な光によって照明されていると考えている。東京海洋大学大学院海洋科学系海洋政策文化学部門
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:18800912)
巻号頁・発行日
no.5, pp.55-61, 2009-03

『反ユダヤ・プルースト』という著作において、アレッサンドロ・ピペルノは次のように主張している。プルーストは『失われた時を求めて』のなかで、スワン、ブロック、ラシェルといったユダヤ人の登場人物を残酷に扱い、彼らの擬態を非難している、と。しかしピペルノの議論は一面的であるように思われる。何故ならプルーストはユダヤ人に対してだけでなく、貴族に対しても残酷だからである。この論文はピペルノの本の要約であるが、同時にその未熟な性急さを批判してもいる。東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.48-67, 2016-02-29

This article is a translation into Japanese of the article entitled ≪Une saison en enfer ≫: ALLER ― RETOUR, which was published in L’INFINI no.122 in 2013. According to Sollers, absence of the 18th century and the romanticist society or subjects appear to Rimbaud as Hell. To Go in Hell means to criticise the contemporary society. But at the same time, Rimbaud tries to return from Hell by inventing a new type of reason and a new form of love. In this point Sollers finds in Rimbaud a precursor of Nietzsche and Heidegger. Furthermore, he thinks that Rimbaud is enlightened by gnostic lights in origin.