著者
小山 尚之 コヤマ ナオユキ
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:18800912)
巻号頁・発行日
no.4, pp.11-25, 2008-03

1930 年にアンドレ・ブルトンとジョルジュ・バタイユの間に激しい論争があったことはよく知られている。それは、ヘーゲルの弁証法を土台にしたシュルレアリストたちの採択するマテリアリスムに対して、バタイユが、みずからの低・マテリアリスムの立場から、それはイデアリスムの一形態にすぎない、と批判したことから始まった。これに対しブルトンは、バタイユは精神的に病んでいると応じたが、これによって彼にはシュルレアリスムの法王というイメージが貼られてしまった。ブルトンとバタイユはその後和解し、ファシズムに抗してわずかの間だが共に闘った。だが、彼らの死後、テル・ケル派の首領フィリップ・ソレルスが、1960 年代末に、ブルトンとバタイユのあいだにあった敵対関係を再燃させた。ソレルスの判断ではその当時、ブルトンに比べてバタイユは閑却され、孤立し、検閲の対象となっていた。そのような状況を打破するためにソレルスはブルトンを批判し、バタイユを顕揚した。しかしソレルスはブルトン批判をその30 年後に撤回し、修正する。ブルトンとバタイユのあいだには対立や矛盾があるというより、ともに並べて思考すべきなにか共通のものがある、と訂正した。実際、ブルトンとバタイユはある共通の倫理的パトスを分かち合っていたと思われる。その倫理的パトスは、全般的転覆と自由への賭けというものに根をおろしており、シュルレアリスム運動全体に伏流している。バタイユはシュルレアリストではなかったが、シュルレアリスムの傍らにあってこのようなパトスを受け留め、それをラディカルに深化させたのである。It is well known that in 1930, Andr? Breton and Georges Bataille were emroiled in a vehement controversy triggered by Bataille's criticism, from the standpoint of low materialism, of dialectic materialism of Surrealism based on the theory of Hegel. In his criticism, Bataille regarded the materialistic vision of surrealists as a kind of idealism. In response to this criticism, Breton diagnosed that Bataille suffered from a mental abnormality. Despite this, the two men were to struggle together against Fascism five years later. After the second World War, they became reconciled to each other, admitting that their disputes in the past were rather excessive. However, at the end of 1960's, Philippe Sollers, head of the group Tel Quel, revisited the old quarrel between Breton and Bataille, and concluded that Bataille had been, in comparison with Breton at that time, isolated and neglected and that it was the works of Bataille that were more important. Then, thirty years later, Sollers withdrew his criticism and corrected his attacks on Breton, maintaining that there was no contradiction between Breton and Bataille, and that it is better to treat them together than to separate them. Indeed, Breton and Bataille seemed to share a common ethical pathos, founded on the total subversion and the bet for liberty. It is this pathos, which runs right through Surrealism and that Bataille inherited from the surrealist movement and radicalized in his own manner.
著者
小山 尚之
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.76-104, 2018-02-28

本稿は二〇一四年四月二日と三日にガリマール社内のソレルスのオフィスにおいて行われたフィリップ・ソレルスとディディエ・モランとの対談を翻訳したものである。彼らはソレルスの生まれたボルドーおよびジロンド地方のことや、ソレルスが出演している映像作品について語っている。ソレルスによれば、ジロンド地方とジロンド派は革命期の国民国家成立の過程で抑圧されたものである。なぜソレルスが親ジロンド派的であり、現在のフランスという国民国家にも批判的であるのかといえば、ジロンド地方の歴史的・政治的な背景があるからだと思われる。また彼は、J.-D.ポレ、J.-P.ファルジエ、L.ラリネック、G.K.ガラボフ、S.チャンなどとともに、いくつかの映像作品を制作している。ソレルスにとって映像の中で重要なのは、声と、テクスト、音楽、場の選択である。歴史的な背景を持つ場での口頭のパフォーマンスを映像に撮ることにより、彼は、テクスト、声の肉体性、そして歴史の肉体性を取り戻そうと試みているように思われる。This article is a translation into Japanese of the dialogue between Philippe Sollers and Didier Morin, which took place at Sollers’ office in Gallimard on the 2th and 3th April 2014. Their discussion concerns Bordeau where Sollers was born, the girondin region and films in which Sollers appeared. According to Sollers, the girondin region and Girondists have been oppressed during French Revolution by forming French Nation-State. The reason why Sollers seems to be a Girondist and critical of French Nation-State might lie in the historical and political background of the girondin region. He also makes several films with J.-D. Pollet, J.-P. Fargier, L. L’Allinec, G.K. Galabov and S. Zhang. For Sollers, the important things in films are voice, text, music and choice of place. By filming oral performances in the place having its historical past, he seems to try to refind the body of the voice and of the history.
著者
小山 尚之
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.52-60, 2022-02-28

本稿はフィリップ・ソレルスとアリオシャ・ヴァルト・ラゾースキーとの対談「夜の恐怖に直面する啓蒙の精神」の日本語への翻訳と解説である。この対談でソレルスはニヒリズムの最初の公式の宣言をゲーテの『ファウスト』の中に認めている。ソレルスはニヒリズムの特徴――生殖への医学的操作、無への意志、時間の消滅、真理を知ろうとしない意志、ポエジの貧困――に覆われた現代社会をアポカリプス的と形容する。他方、時間の旅人であるソレルスは、その音楽的、律動的なエクリチュールを通して、さまざまな世紀、さまざまな単独的存在、さまざまな言語と愛をもって交わり、われわれに束の間の晴れ間を垣間見せる。彼にとっては「ひとつの身体とひとつの魂の中に真理を所有すること」がもっとも重要な文学的実践なのである。
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.75-92, 2020-02-28

本稿は二〇一九年春号の『ランフィニ』誌第一四四号に掲載された「前衛の死:メディ・ベラージ・カセムとフィリップ・ソレルスとの対談」を翻訳しそれにコメントを付したものである。この対談でソレルスは『テル・ケル』の前衛性、他の前衛との違い、ギー・ドゥボールと『アンテルナショナル・シチュアシオニスト』との関係、『テル・ケル』から『ランフィニ』への移行などについて証言している。
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:18800912)
巻号頁・発行日
no.6, pp.75-86, 2010-02

イヴ・ボヌフォワにとってランボーの作品は本質的な参照対象であり続けている。1961 年の『ランボー自身によるランボー』から2009 年のエッセー「我々がランボーを必要としていること」にいたるまで、ボヌフォワは折に触れランボーに言及してきた。ボヌフォワはランボーのうちに希望と明晰さの弁証法的な運動を認め、それがもたらすものを自らの詩学に接合した。しかし1961 年においてボヌフォワはランボーの重要なソネット『母音』について解釈をあたえなかったが、2009 年になるとこのソネットに独自の解釈を施している。この違いはおそらくボヌフォワの70 年代におけるシュルレアリスト的オートマティスムにたいする再評価によって説明されるかもしれない。シュルレアリスト的オートマティスムはランボーの≪あらゆる感覚の錯乱≫に結びつけられ得る。またボヌフォワにとってオートマティスムは≪アナムネーシス≫のためのよい方法であることが判明したのだ。しかしブルトンはランボーを≪思春期の天才≫とのみ見做していたのだが、ボヌフォワはランボーを≪幼年期≫を証言する者とかんがえていた。この点でボヌフォワはブルトンと分かれる。ボヌフォワ自身の明晰さはボヌフォワの詩が現実の直接性から分離した文学的な幻想とならないよう警戒している。For Yves Bonnefoy, the works of Rimbaud have been essential objects of reference. From his Rimbaud par lui-même in 1961 to his latest essay Notre besoin de Rimbaud in 2009, Bonnefoy has on occasions mentioned imbaud in whom he has found the dialectic movement of hope and lucidity and he has articulated its consequence with his own poetics of presence. In 1961, he did not treat Rimbaud's crucial sonnet Voyelles, whereas in 2009 he interprets it in his original way. This difference may be explained by Bonnefoy's revaluation of the surrealistic automatism during the 70's. The surrealistic automatism can be connected with Rimbaud's ≪ derangement of all the senses ≫ and for Bonnefoy it has been revealed to be a good method for ≪ anamnesis ≫. But while André Breton considered merely Rimbaud as a ≪ genius of puberty≫, Bonnefoy regarded him as a witness of ≪ infancy ≫ that is essential to Bonnefoy's poetics. In this point, Bonnefoy differs from Breton. The lucidity of Bonnefoy himself guards his poetry from falling into a literary illusion independent of the immediacy of the reality.東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.7-19, 2015-02-28

本稿はフィリップ・ソレルスの小説『「時間」の旅人たち』における「時間」の様態について明らかにすることをめざしている。ソレルスによれば、「社会」における「時間」は瞬間的な今の連続であり、線状的に流れるものである。それは過去にも未来にも拡張しない。「社会」をあたかも神のごとく信じているひとびとは徐々に「時間」の感覚を失う。これに反してこの小説の話者は様々なテクストを読むことによって過去・現在・未来を自由に行き来する。彼はグノーシスによる「時間」の概念を受け入れ、天地創造や最後の審判に何の関係もない光の楽園の永遠の「時間」を見出す。ソレルスはこのような「時間」の様態を四次元的な「時間」と呼ぶ。彼にとってヘルダーリン、ランボーあるいはカフカといった「時間」の旅人たちは、「社会」における今ここで楽園とメシアを啓示するものたちである。過去・現在・未来を通して彼らのテクストは楽園の恍惚的な「時間」の存在を呼びかける。そして話者自身もこの四次元的な「時間」を旅している。
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
no.12, pp.48-67, 2016-02-29

本稿は二〇一三年に「ランフィニ」誌第一二二号に掲載された「《地獄の季節》:行くこと―帰還すること」と題された記事を日本語に訳したものである。ソレルスによれば一八世紀の不在とロマン主義的な社会あるいは主体はランボーにとって地獄として現れる。地獄へ行くとは同時代の社会を批判するという意味である。しかし同時にランボーは新たな理性や新たな形態の愛を発明することによって地獄から帰還しようと努める。この点でソレルスはランボーのうちにニーチェとハイデガーの先駆者を見出している。それに加えてソレルスはランボーが始源におけるグノーシス的な光によって照明されていると考えている。東京海洋大学大学院海洋科学系海洋政策文化学部門
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 (ISSN:18800912)
巻号頁・発行日
no.5, pp.55-61, 2009-03

『反ユダヤ・プルースト』という著作において、アレッサンドロ・ピペルノは次のように主張している。プルーストは『失われた時を求めて』のなかで、スワン、ブロック、ラシェルといったユダヤ人の登場人物を残酷に扱い、彼らの擬態を非難している、と。しかしピペルノの議論は一面的であるように思われる。何故ならプルーストはユダヤ人に対してだけでなく、貴族に対しても残酷だからである。この論文はピペルノの本の要約であるが、同時にその未熟な性急さを批判してもいる。東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科
著者
小山 尚之 Naoyuki Koyama
出版者
東京海洋大学
雑誌
東京海洋大学研究報告 = Journal of the Tokyo University of Marine Science and Technology (ISSN:21890951)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.48-67, 2016-02-29

This article is a translation into Japanese of the article entitled ≪Une saison en enfer ≫: ALLER ― RETOUR, which was published in L’INFINI no.122 in 2013. According to Sollers, absence of the 18th century and the romanticist society or subjects appear to Rimbaud as Hell. To Go in Hell means to criticise the contemporary society. But at the same time, Rimbaud tries to return from Hell by inventing a new type of reason and a new form of love. In this point Sollers finds in Rimbaud a precursor of Nietzsche and Heidegger. Furthermore, he thinks that Rimbaud is enlightened by gnostic lights in origin.