著者
堀江 聡 Nicolao ex Castellaniis Petro
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-22, 2006

ここに邦訳する世界初訳のテキストは,1519年にファウェンツァ出身ピエール・ニコラ・カステッラーニによってラテン語に訳された『アリストテレスの神学』全14章のうちの第十章十三節までである。この書は錯綜した素性をもつ。紀元3世紀後半,プロティノスによってギリシア語で記された『エンネアデス』の後半部分,第4 ~ 6 『エンネアス』の翻案であるが,これとは別の, 9世紀前半バグダードで成立した「流布版『アリストテレスの神学』」と呼び慣わされるアラビア語の翻案もある。後者の出自にすら定説はなく,世界的に議論が喧しい現状であるが,前者の素性はそれに輪をかけて謎に包まれている。研究が進捗しない原因として,このラテン語版の近現代語訳が一つもないことが挙げられる。さらに近現代語訳がない理由は,ラテン語版に先行し,全体の約3/4残存するいわゆるユダヤ・アラビア語(ヘブライ文字表記のアラビア語)版の校訂(プラス翻訳?)をフェントンがかなり以前に予告したにもかかわらず,未だ完了していないことによる。流布版は全10章であるのに対し,ラテン語版は14章からなるので,『アリストテレスの神学』の「長大版」(longerversion)と称されている。とはいえ,流布版から省略された箇所も多々あるので,単純な拡大版でないことは注意を要する。第一章から第八章までは,両版が一対一対応であったのに対し,長大版第九章も第十章も,相変わらず流布版第八章のパラフレーズの続きであることが判明した。 ラヴェンナのフランチェスコ・ローズィがダマスクスの図書館で発見したアラビア語写本を,キプロス出身のユダヤ人医師モーセス・ロヴァスを雇ってイタリア語,ないしは粗雑なラテン語に訳させたものを,ニコラが彫琢することによってラテン語版が成立した。それをさらに洗練されたラテン語に移したジャック・シャルパンティエの訳もある。流布版が長大版に先行するという説が優勢ではあるが,長大版から流布版に移行したという主張が消えたわけではない。長大版の研究はまだ緒に就いたばかりなのである。 底本には,Sapientissimi philosophi Aristotelis stagiritae. Theologia sive misticaphilosophia secundum Aegyptios noviter reperta et in Latinum castigatissimeredacta, ecphraste Petro Nicolao ex Castellaniis, Roma, 1519 を用い,常時 Libriquattordecim qui Aristotelis esse dicuntur, de secretiore parte divinae sapientiaesecundum Aegyptios, per Iacobum Carpentarium, Paris, 1571 を参照した⑽。底本のニコラ版は句読点が不正確で誤植も散見されるので,シャルパンティエ版を援用しつつ文脈を解釈しなければならなかった。流布版『アリストテレスの神学』に対応箇所がない部分は太字で明示した。ただし,解釈者の視点の差によって,太字部分の確定は議論の余地のないものとはなりえないことをお断りしておきたい。私の立場は,哲学的に重要で長大版に特有な思想を識別できれば,それで充分というものである。その思想の独自性をことさら強調したい箇所には下線を施してみた。[ ]内はフォリオ数である。言うまでもないが,見開きにすれば,rは右頁,vは次の紙の左頁になるのは注意を要する。{ }内は文意を明確にするための訳者による補足である。原文における名詞の複数形は,和訳でも愚直に保存するよう努めたが,意味が通じる箇所では,もちろん日本語表現の審美的観点から,そのかぎりではない。 今回訳出した長大版第十章第一節から十三節まででは,流布版のパラフレーズというよりも,ほとんどが脱線というか,新たな教説の挿入である。その意味で,長大版独自の思想を探るには絶好の箇所であると言えよう。とりわけ,形而上学的体系全体が提示されているので,その全体を素描してみることにする。 まず頂点には,「神」である「第一の創始者」が位置し,それは「第一の存在者」,「第一能動者」,「真の能動者」,「両世界の創始者」,「第一位の創始者」,「神的知性」といった,さまざまな名称によって言い換えられている。 次の階層は,長大版独自の展開として,かねてより注目してきた「神の言葉」,「神的な言葉」の階層である。神と知性の間に別の存立を仮設しない点では,流布版は『エンネアデス』から逸脱していなかったが,『エンネアデス』にも流布版にも対応箇所をもたない特有の思想として,創造主と知性の間に措定される言葉(kalimah, λόγος)の教説がボリソフ以来夙に指摘されてきた。これは,万物を命令形「在れ!」(kun)の一言で創造する神の言葉であり,神の意志,命令と関連する。事実,[52r]には,「意志」「命令」「知恵の指図」の語が現れている。「創造する言葉」「懐胎された言葉」「最も完全な言葉」という表現も見られる。「第一の形相」という言い換えからは,その形相の担い手である基体が要請されるらしい。それが[46v]では「精神」とされる。「第一位の精神」「首位の精神」のように形容される場合もある。 その次には,「能動知性」が来る。「第一位の能動知性」「第一能動知性」「第一知性」「首位の高貴な知性」「高所の知性」「純粋で絶対的な知性」,さらに「存在者そのもの」「第一の被造物」も同じものを指し示していると思われる。 次は,「可能知性」であり,「第二知性」「第二位の知性」「自然的知性」「質料的知性」などとも呼ばれるが,いわゆる「われわれの知性」「知性的魂」である。これがさらに,思考の座であり推論的探求を行う「理性的魂」と同一視されているようである。 この下に,表象し評価する能力をもつ「感覚的魂」があり,これはおそらく「前進する力」「呼吸する力」をも含む動物の魂に相当するのだろう。そして, 増殖力をもつ「植物的魂」, それから, 天の円環運動を司る「自然」,最後に「下位の自然」として,多様な運動と形態を備え生成する「複合物体」と「構成要素」が続くのである。 これら階層間の連関は,上から下へ下降するに伴い,次第に暗く弱まる「光」,「生命」,「力」の「照明・発出・流入」と「物体的粗雑さ」の増大,その裏返しである下位のものの上位のものへ還帰への希求という新プラトン主義的常套句で説明される。しかも,「産出したものを愛し完成させる」という表現から察するに,創造は一度では成就せず,少なくとも論理的には二段階の過程を経るというプロティノス流の二相性の原理が貫徹していると予想される。階層から階層へと転送されてゆく力の連鎖は,途切れることなく上から下まで連なり,「神の言葉の隠然たる影響」により,すべてが「霊的な色で塗られている」世界が現出する。とはいえ,「霊的世界」から隔たった理性的魂は,つねに「無知,過誤,忘却,不確実,逸脱,腐敗」の可能性に晒されているゆえ「学問による教科」が必要であり,その目指すべく魂の完成とは,「自己自身へと還帰し」,「ダイモーン的霊に類同化し」,「光り輝く世界」たる能動知性と「愛し愛されるように」一つの実体へと結合し,「光で沸き立ち燃え立つ」「諸真理」を観照することにあると言えよう。