- 著者
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佐野 静代
サノ シズヨ
Sano Shizuyo
- 出版者
- 同志社大学人文学会
- 雑誌
- 人文学 (ISSN:04477340)
- 巻号頁・発行日
- no.205, pp.1-53, 2020-03
近世京都の近衛家別邸「御花畑」の成立過程と、その政治史上における役割を明らかにすることを試みた。御花畑邸の敷地内を流れる禁裏御用水の流路は、寛永元年から同14年の間に付け替えられたものであり、それは中世までの「構」より外側の新しい町地の開発と連動したものであった。この邸の当初の所有者は桂宮家であり、御花畑邸はその「小山御屋敷」を前身としている可能性の高いことがわかった。この邸は、天保期には近衛基前の正室であった維学心院の隠居屋敷となっていた。維学心院は尾張藩主徳川宗睦の養女であり、その屋敷の整備には薩摩藩だけでなく尾張藩の援助のあったことが確かめられる。特に維学心院の附役であった尾崎八右衛門が、この邸の「御花畑」部分の整備を行っていたことは重要である。その後の御花畑邸は、安政の大獄時には近衛忠煕の謹慎場所となり、文久2年には薩摩藩に貸与されたことが判明した。文久期の使用は藩主の一族に限られていたが、その後は小松帯刀の宿所となり、慶応3年には鷲尾隆聚ら倒幕派公家との接触の場となっていた。同年9月に近衛家は薩摩藩による御花畑邸の使用を停止させようとしており、それは幕府制だけでなく摂関制の否定にもつながる過激な武力倒幕派への反発に起因するものだったと推定される。以下の訂正あり: ①20頁6行目「…とあり、」の後に「忠征の父・忠夤と推定される」を挿入. ②22頁6行目「…示している。」の後に、「この父の下で、同じ時期に維学心院付きであった尾崎忠征も共に整備に携わっていたことが推定される。」を挿入. ③22頁11行目「近衛忠煕と尾崎」の後に「忠征」を挿入