- 著者
-
末田 智樹
Sueta Tomoki
- 出版者
- 神奈川大学 国際常民文化研究機構
- 雑誌
- 国際常民文化研究叢書2 -日本列島周辺海域における水産史に関する総合的研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 2 -Integrated Research on the History of Marine Products in the Waters around the Japanese Archipelago-
- 巻号頁・発行日
- pp.117-131, 2013-03-01
本稿では、近世中後期の西海捕鯨業地域における平戸藩生月島の益冨組の経営展開について分析することが目的である。具体的な分析内容と結論の概略は以下の通りである。 筆者は、益冨組が本格的に文政・天保期(1818 ~ 1843)以降、平戸藩領域よりも春鯨を多く捕獲することが可能であった大村・五島両藩の捕鯨漁場へ幕末期まで藩際経営を展開した点について明らかにした。その後、筆者は、神奈川大学日本常民文化研究所に所蔵されている『漁業制度資料 筆写稿本』所収の益冨治保家文書に含まれる重要な資料を翻刻する機会を得ることができた。そのなかで、益冨組が他領国における藩際捕鯨業へ転じる以前の宝暦・安永期(1751 ~ 1780)に平戸藩領域の有数な捕鯨漁場を掌握する過程を解明した。 今回も筆写稿本所収の益冨家文書を翻刻および活用し、益冨組が平戸藩領域を越えて他領国の捕鯨漁場において藩際経営の展開を開始した時期はいつ頃であり、生月島より南に位置する大村・五島両藩の捕鯨漁場以外に出漁した領国はなかったか、という点について解明することを目的とする。第1 に、天明8(1788)年の的山大島の冬浦と翌寛政元(1789)年の平戸島津吉の春浦における益冨組の運上銀史料を翻刻し、天明・寛政期(1781 ~ 1800)の平戸藩領域における益冨組の経営展開について分析した。第2 に、文化期(1804 ~ 1817)前半の益冨組による対馬藩の廻浦への出漁に関する史料を翻刻し、対馬藩における益冨組の藩際経営について分析を行い、次のことを明らかにすることができた。 益冨組は、天明期までに平戸藩領域の有数な冬・春両浦の捕鯨漁場を、平戸藩壱岐の土肥組とともに多額の運上を支払うかわりに獲得した。しかし、それらの捕鯨漁場の地域性から春浦では冬浦に比べて不漁となることが多々あった。そのために益冨組は、寛政期後半から文化期にかけて捕鯨漁場を大村・五島両藩の春浦のみならず、対馬藩の春浦へも拡大した。これは、益冨組が近世後期の西海捕鯨業地域における最大の巨大鯨組に成長し、独自の西海捕鯨業地域を形成することに繋がることであった。