著者
末田 智樹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.13, 2010 (Released:2011-02-01)

従来、昭和戦前期までにおける百貨店と言えば、三越を筆頭に松坂屋、大丸、高島屋、白木屋、松屋などの呉服系百貨店が前面に押し出され、本報告の主題であるターミナルデパートに関して大きく論じられることはなかった。されど、百貨店の店舗立地を礎とした昭和戦前期までの都市商業空間の形成にとって、昭和初期に登場したターミナルデパートは欠かせない役割を果たしていた。 そこで、昭和戦前期における大阪を主軸とした日本のターミナルデパートの成立過程について浮き彫りにすることで、この時期までにターミナルデパートを成立させた要因とは何であったのか。そして、ターミナルデパートの出現が、現代に繋がる大阪の都市商業空間の原型を完成させていたのかなどをつまびらかにした。 小林一三による阪急百貨店は、大阪北部の梅田にターミナルデパートとして昭和4(1929)年4月15日に開店し、雑貨・実用本位の商品構成を基本として、「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」の大方針のもとに、呉服系百貨店よりも明確に営業戦略として位置づけて経営を展開した。昭和7(1932)年10月8日の新聞広告には、この営業の大方針を掲げた阪急百貨店が如何にしてそれを実践できたのかが説明されている。「経費がかゝらないから」と載せたうえで、「一 広告費が少くてすむから。一 現金売を主としてゐるから。一 外売をしないから。一 遠方配達の経費も省けるから。一 阪急電車の副業であるから。一 家賃がいらないから。」といった6つの要因をあげている。これは小林自らが考案したもので、電鉄のターミナルと併設した立地展開の利点を重視した彼の百貨店構想が、ターミナルデパートとして実現したことを述べている。開業当初の阪急百貨店は、立地条件に基づく店舗展開と商品販売に成功することで、阪急電鉄の沿線客をターゲットとする沿線の市場開拓を狙った経営戦略を強力に推進できたのである。 昭和4年4月10日から建設に着手し、昭和5年12月18日に高島屋南海店が一部開設したのと同時に、同年12月1日に株主総会の承認をへて「株式会社高島屋」に変更した。これによって高島屋はより積極的に大衆消費者向けの百貨店経営へと踏み出すことになり、新店舗の南海店がターミナルデパートであっただけに、同社にとっても明暗をわける挑戦となり、オープン当時大変な話題を呼んだ。その点から考えても、大阪北部の梅田に世界で最初の阪急百貨店によるターミナル方式のデパートが誕生して間もなく、1年半ほど経過して大阪南部の難波にもターミナルデパートが姿を現し、その後高島屋よりさらに大阪南部の地域に大鉄百貨店と大軌百貨店が営業を開始し、阪急百貨店と同じ梅田に阪神百貨店(阪神マート)が生成したことで、昭和初期において大阪の北と南の地域にターミナルデパートをセンターとする現在を想像させる大都市商業空間の原型が完成していたのであった。 このように昭和戦前期までの全国におけるターミナルデパート化の状況では、小林率いる阪急百貨店が設立されて以降、大阪・東京の私鉄会社による百貨店経営や全国の新興百貨店の勃興へ大きな刺激を与え、彼こそが革新的経営者であった。東京では京浜デパートや東横百貨店の成立へと広がり、これまでの呉服系百貨店とは異なったターミナルデパートという百貨店スタイルが大いに波及し、福岡市の岩田屋や岡山市の天満屋など地方百貨店のターミナルデパート化にも多大なる影響を与えた。小林の発想から始まる昭和戦前期までのターミナルデパートの成立が、戦後期以降今日までの日本における独特の百貨店業態発展の肝心な要となったのである。
著者
末田 智樹 Sueta Tomoki
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書2 -日本列島周辺海域における水産史に関する総合的研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 2 -Integrated Research on the History of Marine Products in the Waters around the Japanese Archipelago-
巻号頁・発行日
pp.117-131, 2013-03-01

本稿では、近世中後期の西海捕鯨業地域における平戸藩生月島の益冨組の経営展開について分析することが目的である。具体的な分析内容と結論の概略は以下の通りである。 筆者は、益冨組が本格的に文政・天保期(1818 ~ 1843)以降、平戸藩領域よりも春鯨を多く捕獲することが可能であった大村・五島両藩の捕鯨漁場へ幕末期まで藩際経営を展開した点について明らかにした。その後、筆者は、神奈川大学日本常民文化研究所に所蔵されている『漁業制度資料 筆写稿本』所収の益冨治保家文書に含まれる重要な資料を翻刻する機会を得ることができた。そのなかで、益冨組が他領国における藩際捕鯨業へ転じる以前の宝暦・安永期(1751 ~ 1780)に平戸藩領域の有数な捕鯨漁場を掌握する過程を解明した。 今回も筆写稿本所収の益冨家文書を翻刻および活用し、益冨組が平戸藩領域を越えて他領国の捕鯨漁場において藩際経営の展開を開始した時期はいつ頃であり、生月島より南に位置する大村・五島両藩の捕鯨漁場以外に出漁した領国はなかったか、という点について解明することを目的とする。第1 に、天明8(1788)年の的山大島の冬浦と翌寛政元(1789)年の平戸島津吉の春浦における益冨組の運上銀史料を翻刻し、天明・寛政期(1781 ~ 1800)の平戸藩領域における益冨組の経営展開について分析した。第2 に、文化期(1804 ~ 1817)前半の益冨組による対馬藩の廻浦への出漁に関する史料を翻刻し、対馬藩における益冨組の藩際経営について分析を行い、次のことを明らかにすることができた。 益冨組は、天明期までに平戸藩領域の有数な冬・春両浦の捕鯨漁場を、平戸藩壱岐の土肥組とともに多額の運上を支払うかわりに獲得した。しかし、それらの捕鯨漁場の地域性から春浦では冬浦に比べて不漁となることが多々あった。そのために益冨組は、寛政期後半から文化期にかけて捕鯨漁場を大村・五島両藩の春浦のみならず、対馬藩の春浦へも拡大した。これは、益冨組が近世後期の西海捕鯨業地域における最大の巨大鯨組に成長し、独自の西海捕鯨業地域を形成することに繋がることであった。