著者
鵜飼 健史 ウカイ タケフミ UKAI TAKEFUMI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.187-214, 2016-03

社会的排除は、いまや世界全体が直面する人類史的な課題である。こうした21世紀初頭の学的状況は、政治学においても知られるようになってきた。本稿は、そのなかでも腰の重さを自認する政治理論研究の観点から、社会的排除を問題化したい――時間がかかったからこそ見えるものがあるかもしれない。とりわけ、社会的排除に対して、代表制民主主義がどのような対策を準備できるかを理論的に明確化する。このテーマに取り組むために、本稿では、排除と対比される包摂の位置づけを批判的に分析しながら、両者を区別する境界線に注目する。本稿の目的は、境界線の分析を通じて、排除と包摂の二元論を超えるものとして、代表制民主主義の理論的な再構成を行うことにある。社会的排除とは何かについて、本稿に関する事柄のみを確認してその導入としたい。この言葉自体は、グローバル化と脱工業化が進展するヨーロッパを中心として、1970 年代ごろから長期失業者や生活困窮者を示すために顕著に使用されてきた(バーン2010: 104, 中村 2007: 64-65)。その内容は、たんなる経済的な貧困だけにとどまらず、人間関係や共同性からの切断および存在価値の剥奪も含意している。社会的排除は、社会生活を営む上で主流と考えられる関係性からの排除を意味する。具体的な事例については枚挙に暇がないが、現代日本社会の病理として数えられるような孤独死、ネットカフェ難民、ワーキングプア、無縁社会、不安定就労などのすべてはこれに妥当する。そのため、ルース・リスターが適切に指摘するように、社会的排除は明確な基準によって特定化された実証可能な状態というよりも、それ自体はあくまで概念――とりわけ「政策的含意をもった政治的言説」――として理解されるべきであろう(Lister 2004: 98=145, 福原2007: 21)。先行研究が製錬してきた社会的排除概念は、諸問題・不利の組合わせであり、動態的で複雑な多次元的な過程であり、政治・経済・社会・文化などの各次元における参加への障壁や困難にある( 岩田 2006: 23-26,福原 2007: 14-17, 圷 2012: 140, Pierson 2013: 73)。社会的排除は非物質的な関係や機会の不足を問題化し、個人の社会関係資本の枯渇化と並行して生じる、さまざまな次元における連鎖的な締め出しの過程である。阿部彩は、社会的排除概念が、たんに人間関係の欠乏を論点として加えただけではなく、排除する側の存在に光を当てて社会のあり方を問題化した意義を指摘する( 阿部 2011: 124-26, Cf. 岩田 2008: 50-51)。本稿は、こうした社会的排除の概念的な性質を前提として、それに抗する政治理論を考察する。次節では、社会的排除における政治的な次元を議論するとともに、政治的・政策的な応答を整理し、政治理論に固有な課題を明確化する。その際、排除と包摂をめぐる境界線の存在が民主主義理論に投げかける課題に論及したい。第3節では、持続的な社会的排除に対応した現代民主主義理論を参照しつつ、境界線に対する処置を批判的に考察する。具体的には、ナンシー・フレイザーの正義としての代表論を中心的に取り上げ、境界線に対する現代政治理論研究の貢献を明らかにする。最後に、脱領域的な民主主義理論の再構成を模索すると同時に、多次元的な主体化の過程として政治的代表を理解することの意義に言及したい。