著者
鵜飼 健史 ウカイ タケフミ UKAI TAKEFUMI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.187-214, 2016-03

社会的排除は、いまや世界全体が直面する人類史的な課題である。こうした21世紀初頭の学的状況は、政治学においても知られるようになってきた。本稿は、そのなかでも腰の重さを自認する政治理論研究の観点から、社会的排除を問題化したい――時間がかかったからこそ見えるものがあるかもしれない。とりわけ、社会的排除に対して、代表制民主主義がどのような対策を準備できるかを理論的に明確化する。このテーマに取り組むために、本稿では、排除と対比される包摂の位置づけを批判的に分析しながら、両者を区別する境界線に注目する。本稿の目的は、境界線の分析を通じて、排除と包摂の二元論を超えるものとして、代表制民主主義の理論的な再構成を行うことにある。社会的排除とは何かについて、本稿に関する事柄のみを確認してその導入としたい。この言葉自体は、グローバル化と脱工業化が進展するヨーロッパを中心として、1970 年代ごろから長期失業者や生活困窮者を示すために顕著に使用されてきた(バーン2010: 104, 中村 2007: 64-65)。その内容は、たんなる経済的な貧困だけにとどまらず、人間関係や共同性からの切断および存在価値の剥奪も含意している。社会的排除は、社会生活を営む上で主流と考えられる関係性からの排除を意味する。具体的な事例については枚挙に暇がないが、現代日本社会の病理として数えられるような孤独死、ネットカフェ難民、ワーキングプア、無縁社会、不安定就労などのすべてはこれに妥当する。そのため、ルース・リスターが適切に指摘するように、社会的排除は明確な基準によって特定化された実証可能な状態というよりも、それ自体はあくまで概念――とりわけ「政策的含意をもった政治的言説」――として理解されるべきであろう(Lister 2004: 98=145, 福原2007: 21)。先行研究が製錬してきた社会的排除概念は、諸問題・不利の組合わせであり、動態的で複雑な多次元的な過程であり、政治・経済・社会・文化などの各次元における参加への障壁や困難にある( 岩田 2006: 23-26,福原 2007: 14-17, 圷 2012: 140, Pierson 2013: 73)。社会的排除は非物質的な関係や機会の不足を問題化し、個人の社会関係資本の枯渇化と並行して生じる、さまざまな次元における連鎖的な締め出しの過程である。阿部彩は、社会的排除概念が、たんに人間関係の欠乏を論点として加えただけではなく、排除する側の存在に光を当てて社会のあり方を問題化した意義を指摘する( 阿部 2011: 124-26, Cf. 岩田 2008: 50-51)。本稿は、こうした社会的排除の概念的な性質を前提として、それに抗する政治理論を考察する。次節では、社会的排除における政治的な次元を議論するとともに、政治的・政策的な応答を整理し、政治理論に固有な課題を明確化する。その際、排除と包摂をめぐる境界線の存在が民主主義理論に投げかける課題に論及したい。第3節では、持続的な社会的排除に対応した現代民主主義理論を参照しつつ、境界線に対する処置を批判的に考察する。具体的には、ナンシー・フレイザーの正義としての代表論を中心的に取り上げ、境界線に対する現代政治理論研究の貢献を明らかにする。最後に、脱領域的な民主主義理論の再構成を模索すると同時に、多次元的な主体化の過程として政治的代表を理解することの意義に言及したい。
著者
松見 俊 マツミ タカシ Takashi MATSUMI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.109-198, 2011-03

わたし自身,元来組織神学を専門分野として研究し,西南学院大学神学部では実践神学を教える者であり,歴史的研究は門外漢ではあるが,2010年度前期にプラハに在外研究を許された者として,プラハとチェコの歴史にとって避けることのできない重要な人物としてのヤン・フスから彼の神学思想を聞きたいと考えた。この論文では,1.フスの生涯を当時の社会的,哲学的,教会史文脈で考え,2.彼の主著といわれている『教会論』をまとめて提示し,3.彼の生涯と『教会論』を中心とした著作群から見えてくる神学思想の特徴を考察・整理しようと試みるものである。プロテスタント宗教改革は,マルティン・ルターが1517年10月31日,ヴィッテンベルクの教会の扉に「95箇条の提題」を貼り出した時から始まったとみなされがちである。むろん,バプテストの場合は,それ以前のバルタザール・フプマイヤーやアナバプテストの歴史などにも光を当ててきたのである。もっとも,「宗教改革」そのものを無視して,聖書時代に遡ってしまう極端な立場も存在してきた。そのような極端な歴史理解は別にして,ルターの宗教改革は「始まりというより,むしろ,その時点に先立つ二世紀続いた運動の結果」であったと考えるのが適切であると思える。ヤン・フスの教会改革運動も,彼自身,かなり意固地で個性的な性格であったように見受けられるが,ある才能ある個人の孤立した運動というより,この時期の教会改革運動の流れの一部分として理解されるべきであろう。ボヘミアの哲学者・神学者であり,「宗教改革以前の宗教改革者」と呼ばれるヤン・フス(Jan Hus 英John Huss,独Johannes Huss)は,今日でもその評価が分かれている。異端として断罪され,火刑に処せられたフスは,本当に異端思想の持ち主であったのだろうか,あるいは,今日,聖者として名誉回復がなされるべきなのであろうか。そして,いずれにもせよ,今日に生きるわれわれに,フスが死をかけてまで問い掛けようとしたメッセージは何であったのだろうか。われわれキリスト者は,歴史の中から「危険な記憶」としてのイエスの物語と共に,いかなる「記憶」を心に刻み,また,伝承すべきであろうか。これがこの論文の基本的テーマである。
著者
齊藤 芳浩 サイトウ ヨシヒロ SAITO YOSHIHIRO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.37-98, 2016-03

「人権」(les droits de l'homme ; human rights)という言葉は、「人間」(homme ; human)と「権利」(droit ; right)という二つの概念の組み合わせである。この「人間」という概念と「権利」という概念は、日常的な世界でも一般的な概念であるが、法学の世界においても基本的かつ基礎的な概念であることは言うまでもないであろう。ところで、もし基礎的な概念の把握が曖昧であるとするならば、その上に立つ法解釈や法理論も結局のところ、軟弱な地盤の上に建物を建てるのと同じく、脆弱なものになるであろう。それでは、この「人権」概念に関してはどうか。わが国の代表的概説書では、一般的に、人権とは、人間が人間であることから当然にもっている権利と捉えられている。しかし、人間が人間であるという理由でなぜ必然的に権利をもつのか、またその権利の性質・内容とはいかなるものなのか、という問いに対して、実に様々な見解があり、これといった共通見解があるわけではない。つまり、表面的なレベルでは比較的一致があっても、一段掘り下げると見解は各人各様な状態にあるということである。もちろん、人権という哲学的であり、価値判断を含む概念について、大多数が一致するような見解が成立することは、もともと無理であるし、かえって不健全であるという見方もできよう。ただ、そうだからといって、教科書的な人権概念把握で済ませ、そこから先を検討しようとしないという惰性的な在り方が良いとは思えない。もし、その各人の研究者の「人権」概念把握が何らかの確固とした理論に裏付けられたものであるというのなら、他の理論との優劣は別としてもその研究者の法理論自体は堅固なものであると評価できるだろう。しかし、もしそうでないのならば、その「人権」概念把握は実のところ曖昧なものであり、その基礎概念の上に構築している各人の法学の体系も脆弱性をもつものであるかもしれないということになる。ところで、それではどうしたら、確固とした人権概念の把握が可能になるのだろうか。そのためには、少なくとも、「人権」概念の構成要素である「人間」と「権利」という概念について、ある程度掘り下げた検討をする必要があるのではないだろうか。そうすると、この人権とは如何なるものであるのか、という問題の解を見つけるためには、法学においても、極端な法実証主義のような立場をとらないならば、まず、「人間」であるということはいったいどういうことであるのか、という問いに答える努力をする必要がある。つまり、人間の本質・本性を考究し、それを踏まえて議論を展開していく必要がある。そのときに、現代の多様な思想に加えて、この問題に関して多くの蓄積があり、古代からの長い歴史をもつ自然法論を少なくとも参照する必要はあるだろう。さらに、「人権」に含まれている「権利」という概念をどのように理解するべきか、という問いがある。そもそも「権利」という概念はいつ誰が考え出したものなのだろうか。この「権利」という概念は、現代の法学に馴染んだ者にとっては、存在して当たり前の概念のように思われ、そもそもそのような問いすら無意味なようにも思われるだろう。ところが、中世ヨーロッパの清貧論争を契機に、ウィリアム・オッカム(William of Ockham 一二八五頃‐一三四七または一三四九年)がこの「権利」概念を新たに創出したのであり、彼が従来「権利」という意味を含んでいなかったラテン語のjus(正・法)という語に「権利」の意味を付け加えるという「革新」をしたのではないか、という指摘がある。もしそうだとするならば、それは大変興味深いものである。なぜなら、現代人が当たり前で普遍的な存在であると考えていた「権利」が、実はある時代以前には存在していなかったのだとするなら、「権利」概念は普遍的なものでも必然的に必要なものでもないということになり、「権利」概念を相対化して考えることができるようになるからである。そして、そのような相対化によって、「権利」の性質・射程・限界等が明確化され、それが人権論を改めて考える際に役立つのではないかと思われる。 本稿の目的は、「人権」の要素の中の「権利」概念について、オッカムの議論を通じ、考察するということである。そこで、本稿では、まず、中世の清貧論争とはどのようなものであり、その論争の中でどのようなことが議論されたのかを確認し(第一章)、次に、オッカムが清貧論争を通じて、どのような所有権論、権利論を論じたかを見てゆく(第二章)。そして、以上を踏まえて、オッカムの所有権論、権利論の意義について簡潔に考察することとする(第三章)。それでは、清貧論争の経緯から論じて行こう。
著者
片山 隆裕 カタヤマ タカヒロ KATAYAMA TAKAHIRO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.1-13, 2017-02

2013年7月に,訪日し短期滞在(15日以内)するタイ人とマレーシア人への観光ビザ取得が免除される措置がとられた。新成長戦略の柱の1つとして「観光立国」を掲げる日本政府は,経済成長を続けるアジア圏の中でも,特に近年,中間層の所得が急速に増加し,成長を続けるタイとマレーシアからの観光客に増やしたいという狙いがあっての措置とされる。タイ人の訪日観光客数を他のアジア主要国からの観光客数と比較してみると,2012年時点では年間約26万人と,韓国(約157万人),台湾(約133万人)など比べると,決して多いとは言えなかった。韓国,台湾からの観光客数はさらに増加傾向にあるが,他方,中国からの観光客数は尖閣諸島領有権問題などの影響を受け,減少傾向にある。しかしながら,2013年以降のタイからの観光客が大きく増加し,ビザの免除措置がとられてからは,45万人(2013年),65.8万人(2014年),77.7万人(2015年)と,年々着実に急増している。このほかにも,訪日タイ人観光客急増の理由としては,もともと親日国である上に,バンコクを中心としてタイ国内にさまざまな日本文化があふれていること,日本関係のイベントが頻繁に開催されていること,日本・タイの航空便の増便など,様々な理由が考えられる。中でも「一生行くことがないであろう県全国1位」(マイナビフレッシャーズ)の佐賀県へのタイ人観光客の急増ぶりは,全国平均の増加率をはるかにしのいでおり,300人(2013年),1480人(2014年),5180人(2015年)と急増している。では,なぜ今,「はなわさんの歌以外に思いつくものがない」(男性23歳),「アクセスが悪いので,旅行先として選びにくい」(女性26歳),「九州地方に行くとしたら,他の県が優先になる」(男性35歳)などと評される佐賀県にタイ人観光客が急増しているのだろうか?本稿では,そうした訪日タイ人の増加を,ミクロな視点から九州の佐賀県に絞って考察し,佐賀を訪れるタイ人観光客が急増した理由として,タイ映画・ドラマというコンテンツの広告効果について検討することを目的としている。まず初めに,近年におけるコンテンツツーリズムとフィルムツーリズムの概況を述べる。次に,日本とタイの交流史について触れ,現代の日タイ関係と映画『クーカム』とその中でタイ人人気俳優が演じる日本兵コボリのタイ人への影響を述べる。その上で,近年公開された幾つかのタイ映画・ドラマを取り上げ,その宣伝・広告効果と訪日タイ人観光客の観光行動との関係についての考察を行うものとする。
著者
井口 正俊 Masatoshi IGUCHI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.1-37, 2006-05

「隠喩」(metaphora)は,非本来的な意味へと適応される語の転用である。たとえば,類から種への,種から類への,ある種から他の種への,あるいはまた,類比に即して〈kata to analogon〉の転用である」(アリストテレス『詩学』1457b 21)「わたしは口を開いて譬を語り,いにしえからの謎を語ろう」(旧約聖書『詩篇』78)「隠喩的なものは,形而上学の内部にのみ存する」(ハイデガー『根拠律』)「隠喩はしたがって,いつもその死を自分自身のうちに宿している。そしてその死はまた,疑いなく哲学の死でもある」(J・デリダ『哲学の余白』-白けた神話-)「エスのあったところで,自我は生成しなければならない」(フロイト『続・精神分析入門講義』第31講義-精神的人格の解体-)
著者
福永 俊輔 フクナガ シュンスケ FUKUNAGA SHUNSUKE
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.1-41, 2015-10

二一世紀に入った二〇〇一年以降、刑法典の改正は実に十五回を数え、ほぼ毎年のように改正が行われている現状にある。かつて「ピラミッドのように沈黙」していると評され、遅々として進まなかった刑事立法は、その様相を一変し、現在は、まさに「立法の時代」にあるといえよう。二〇〇一年以降の一連の刑法典改正の中心に据えられているのが自動車運転に係る死傷事犯対策であることは、その改正内容が如実に物語る。すなわち、二〇〇一年改正において、悪質・危険な運転行為による重大な死傷事犯に対応するとして危険運転致死傷罪(刑法二〇八条の二)が新設されるとともに、軽微な自動車運転による業務上過失致傷事犯の刑の裁量的免除の規定(刑法二一一条二項)が新設された。二〇〇四年改正において、危険運転致傷罪の法定刑が引き上げられた。二〇〇六年改正において、業務上過失致死傷罪の罰金刑の上限が引き上げられた。二〇〇七年改正において、危険運転に該当しない悪質・重大な死傷事犯に対応するとして自動車運転過失致死傷罪(刑法二一一条二項)を新設し、加えて、従来「四輪以上の自動車」に限っていた危険運転致死傷罪の対象を、四輪以上の自動車と二輪の自動車とでは運転に伴う危険性に差がないとして「自動車」へと改め、自動二輪車や原動機付自転車にまで拡大した。さらに、二〇一三年には、刑法典に規定された危険運転致死傷罪および自動車運転過失致死傷罪が、刑法の特別法として、「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」(以下、単に「自動車運転死傷行為処罰法」ということもある)に移された。この改正により、危険運転致死傷罪は、その対象となる行為が追加されるとともに(自動車運転死傷行為処罰法二条)いわゆる準危険運転致死傷罪を新たに規定し(自動車運転死傷行為処罰法三条)、自動車運転過失致死傷罪は過失運転致死傷罪へと名称が改められた(自動車運転死傷行為処罰法五条)。その他、過失運転致死傷アルコール等発覚免脱罪(自動車運転死傷行為処罰法四条)、無免許運転時の事故に対する加重処罰規定(自動車運転死傷行為処罰法六条)が新設された。このように、二〇〇一年以降、一貫して自動車運転に係る死傷事犯に関わる規定の立法が行われているのである。二〇〇一年以前においては、自動車運転に係る死傷事犯は、それが故意によるものでない限り、自動車運転を業務であるととらえ、業務上過失致死傷罪で対応してきた。しかし、右の一連の改正の結果、二〇〇一年以前に業務上過失致死傷事犯とされていたものは、現在では、①自動車運転に係る死傷事犯の一部態様を故意犯として重罰化した(準)危険運転致死傷事犯、②①を除いた自動車運転に係る死傷事犯を(業務上)過失致死傷罪の特別類型として重罰化した過失運転致死傷(旧自動車運転過失致死傷)事犯、③自動車運転過失による死傷事犯以外の従前の業務上過失致死傷事犯に三分されることとなった。また、これにより、自動車運転に係る死傷事犯に関しては、全体として法定刑の底上げがもたらされ、重罰化が果たされるに至った。このように、自動車運転に係る死傷事犯をめぐる状況は、ここ一〇年余りの間で大きく様変わりしたのである。
著者
清田 正喜
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学文理論集 (ISSN:02863316)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.125-143, 1972-10
著者
塩野 和夫 シオノ カズオ SHIONO KAZUO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.15-20, 2016-02

舘野泉は現在「左手のピアニスト」と呼ばれている。脳溢血(脳出血)のため2002(平成14)年に右半身不随となったが,04年には演奏活動を再開する。09年以降は海外各地でも精力的に活動を続けている。舘野泉ファンクラブ九州が主催する「舘野泉氏を囲む親睦会」(2014年9月20日,ホテルオークラ福岡)では,午前11時15分より「《演奏曲目》秘密です」のピアノ演奏を堪能した。会食の後に持たれた懇親会で,各テーブルから舘野泉先生に「フィンランドの空気の色」,「お正月の過ごし方」,「奥様のマリアさんはいつ日本に来られるのか」などと質問が寄せられる。質問内容が多様であっただけに際立ったのは,ほぼ全員が「今日の演奏は素晴らしかった」と異口同音にスピーチを始められたことである。しかも,聞いたばかりの演奏に対する感動を込めて「素晴らしかった」と語るスピーカーの顔は,いずれも紅潮しているように見えた。聴衆の心をとらえてやまなかったピアノ演奏の素晴らしさとは何なのか。いくつかの視点から考えてみたい。
著者
土方 久 Hisashi HIJIKATA
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
商学論集 (ISSN:02863324)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.137-171, 2004-07

「16世紀における複式簿記の風景」を見事に描写する木版画がある。1585年に製作された木版画。標題は『商業の寓話』(" Allegorie des Handels" )。彫刻はAmman, Jost,図案はNeudörfer, Johann によって製作された木版画である。画1を参照。すでに,筆者がこの木版画の断片に出会ったのは,ほぼ40年も前。ドイツ簿記の歴史を克明に跡付ける古典ということで,1913年にPenndorf, Balduin によって出版される著書『簿記の歴史』(" Geschichte der Buchhaltung" ,Leipzig.)の復刻版を入手してからである。ただの好奇心から入手したにすぎなかったためか,それとも,14世紀,15世紀の商人の帳簿の原文と16世紀の教科書の原文を織り混ぜた難解な文章に,筆者が恐れをなしたためか,この文章を本格的に読むことはなかったが,表紙の標題ばかりか,各章の見出しに飾られる挿し絵の商業活動には,大いに興味を覚えたものである。この挿し絵には,画像から憶測するに,「帳簿に記録する事務員」,「金貨,銀貨の金銭を確認して,櫃に収納するか,文書に記録する商人と使用人」,「帳簿に記録する事務員」,「金貨,銀貨の金銭を確認して,袋に詰め込む商人と使用人」が木版画に組込まれる韻文と共に描写される。しかし,あくまで挿し絵,これが木版画の断片であるとは思いもしなかったものである。ところが,筆者がこの木版画に再び出会ったのは,偶然というか,10年ほど前。筆者は19世紀のドイツ簿記に取組み始めたのだが,いつしか「ドイツ簿記の16世紀」にはまってしまい,ことあるごとに参考にしたのが,さらに,16世紀に出版される印刷本の資料を整理して,年表を作成しようと参考にしたのが,1975年に「英国勅許会計士協会」(Institute of Chartered Accounts inEngland and Wales)によって編纂される目録『会計資料の歴史目録』("Historical Accounting Literature",London.)。表紙の裏側,見開き両面の淡い黄色地に装飾として,これまで挿し絵としか思っていなかった画面が印刷される。この画面には,筆者が興味を覚えた挿し絵の商業活動がパノラマのように描写されるではないか。画面の群像から憶測するに,商人の館に働く商人,事務員,使用人,作業員,飛脚,異国から商業取引に訪れる商人まで,まさに「商人の館」での活況が描写される。機会あるごとに幾度となく,この目録は参考にしたというのに,筆者の注意力が散漫であったためか,これに全く気付かなかったことは不思議といえば不思議である。このスケールの大きい木版画に出会って,筆者は改めて興味を覚えたものである。しかし,表紙の裏側,見開き両面の装飾でしかないためか,木版画の上部の画面,左端と右端の画面は切断,削除される。それだけに,この木版画の全貌を見てみたい,この木版画に組込まれる「韻文」を読んでみたいとの想いに駆られたものである。商人の館の活況に加えて,木版画に組込まれる韻文には,商業取引の信条ばかりか,帳簿の記帳技法が示唆されるので,16世紀の商業の風景,はては複式簿記の風景を想像しうる,またとない木版画のようであるからである。そのために,「ドイツ簿記の16世紀」に取組んでいる筆者としては,まずは,木版画が,何時,誰によって製作されたか,どこに所蔵されるか,どうしても知りたいとの想いを馳せようというものである。しかし,筆者の日本の研究仲間はもちろん,筆者のドイツの研究仲間,ドイツの大学図書館に問い合わせるなど,八方手は尽くしてみたが,期待するような回答はない。諦めかけたところで,1989年にYamey, Basil S. によって出版された著書『芸術と会計』("ART & ACCOUNTING", New Haven & London.)に収録される旨,日本でも入手可能である旨,教示された。まさに燈台もと暗しである。早速に取り寄せて見るに,また,Yamey の解説文を読むに,1585年に,彫刻はAmman,図案はNeudörfer によって製作された木版画。ドイツはニュルンベルクで製作されたというのに,収録されたのがイギリスの著書であるためか,それとも,「大英博物館」に所蔵される木版画を参考にしたためか,英文の標題の『商業の寓話』("Allegory of Commerce")である。しかも,この解説文を読んで,さらに,木版画の原画まで捜し求めると,Yameyによって紹介される木版画も,まだ,木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面が切断,削除される。実際には,切断,削除される木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面を見るに,さらに,文章が画面の縁取りとして組込まれる。画1と画3を参照。このようにして,ほぼ40年の間,筆者が捜し求めた木版画にやっと出会ったわけであるが,「商人の館」での活況が描写された画面は,わずか,木版画の下段,3分の1の画面にすぎない。切断,削除された木版画の上部の画面,左端と右端の画面を見るに,さらに,切断,削除される木版画の上部と下部の画面,左端と右端の画面を見るに,どうしてどうして,予想したよりも,実にスケールの大きい木版画の全貌に驚顎を覚えたものである。そこで,筆者なりに憶測しながら,この木版画の全貌を俯瞰することにする。木版画の上段,3分の1の画面。画面の中央に,商業と商人の守護神,ギリシァ神話の「ヘルメース」(Hermes)ないしローマ神話の「メルクリウス」(Merker)が描写される。両側はヨーロッパの商業都市の紋章を付された盾で飾られる。守護神の左手に持つのは,2匹の蛇がからまる杖,右手に持つのは,秤となる天秤棒の挺子である。天秤棒は,「貸借平均原理」を示唆する「天秤の両皿が比較されて,均衡する帳簿締切では,間違いはない」(Die Wag sich sein vergleichen thut /Im Bschlusz einer Bilanza gut)の標記で飾られる。さらに,天秤棒の左側,秤の皿が繋がれる3本の索ないし鎖に架かるのは,「借方(彼は支払うべし=私に借りている)」(DEBET,DEBET NOBIS,DEBET MIHI)の標記を付される巻軸。この巻軸に繋がれる秤の皿には,1冊の帳簿が載せられる。これに対して,天秤棒の右側,秤の皿が繋がれる3本の索ないし鎖に架かるのは,「貸方(彼は持つべし=私に貸している)」(DEBEO EGO,DEBEMVS NOS,DEBET HABERE)の標記を付される巻軸。この巻軸に繋がれる秤の皿にも,1冊の帳簿が載せられる。両者の皿に繋がれる1本の索ないし鎖が架かるのは,「情況」(CIRCVM STANTLE)の標記が付される標注,噴水の水盤の中心にそそり立つ標柱が支える1冊の帳簿。この帳簿は「仕訳帳」(ZORNAL)の標記を付される。秤の左側の皿に繋がれる索または鎖には,「債務者(借主)」(DEBITOR)の標記を付される巻軸が架かる。これに対して,右側の皿に繋がれる索または鎖には,「債権者(貸主)」(CREDITOR)の標記を付される巻軸が架かる。したがって,秤の両側の皿に載せられる2冊の帳簿は,仕訳帳から転記される「元帳」,木版画に組込まれる韻文から憶測するに,「金銭帳」(Schuldbuch)と「商品帳」(Capus)ではなかろうか。画4を参照。したがって,木版画の上段,3分の1に描写されるは,帳簿の種類,記録技法から,まさに複式簿記の原理,原則を想像させる画面である。木版画の中段,3分の1の画面。画面の上方に,港湾に浮かぶ数隻の船舶,この間を往来する数隻の艀,船団を組んで,海路,商業取引に乗り出す光景が描写される。これに対して,画面の下方には,商品を荷樽に詰め込んだり梱包して,荷駄を準備して,馬車に積載する作業員,隊商を組んで,陸路,商業取引に乗り出す光景が描写される。さらに,これを背景に,中央には噴水の水盤。噴水の水盤の側面は,財産の種類,まずは,「現金」(PRESENS PECVIA)に始まり,「債権」(DEBITORES),「羊毛と紡錘毛」(LANE ET VELLERA),「毛織物と絹織物」(PANNI ETSERICA),「果実」(ETALLA),「香辛料」(AROMATA),「銀器」(ARGENTEAVASA),「計量器」(CLINODIA),「小麦」(RES FRVMENTAR),最後に「家財」(MOBILA BONA)の標記を付される。噴水の水盤の縁は,「資本の投下・回収」を示唆する「この噴水から流れ出るのは,この商業の結果(損益)と元金(資本金)」(Aus diesen Brunnen fliessen thut / Dess Handels Bedchlusz und Haubtgut)の標記で飾られる。画5を参照。したがって,木版画の中段,3分の1に描写されるは,海路,陸路の商業取引に乗り出す光景と,この商業取引に投下される資本と回収される資本から,まさに複式簿記の背景を想像させる画面である。木版画の下段,3分の1の画面。画面の左側には,画像から憶測するに,「商品の目方を計りながら,値踏みする商人」(3人),「帳簿を前に商談する商人」(3人),さらに,「荷樽を製作する作業員」(1人),「荷樽に詰め込まれた商品を取出す商人と使用人」(2人),「商品を背に運び出す使用人」(1人),「帳簿に記録する事務員」(1人),「文書を作成する事務員」(1人),計12人の商業活動が描写される。さらに,画面の左端には,商業を守護する女神が描写される。女神の足元は帳簿と「貸借関係」(OBLIGATIO)の標記で飾られる。画6を参照。画面の中央には,まずは,画面の上方に描写される,「秘密の帳簿」(SECRETORVMLIBER)の標記を付される収納庫に,「財産目録」(INVENTATIUM)の標記を付される帳簿が保管される。さらに,画像から憶測するに,「商業書簡か手形書簡を事務員に手渡す飛脚」(1人),「財産目録を背に商業書簡か手形書簡を受取る商人」(1人),「文書に記録する事務員」(1人),「商業書簡か手形書簡を持参する飛脚」(1人),「商業書簡か手形書簡を使用人に手渡す飛脚」(1人),「飛脚を出迎える使用人」(1人),さらに,「異国から商業取引に訪れる商人」(1人,2人,2人),計11人の商業活動が描写される。異国から商業取引に訪れる商人の脇腹,足元は,商業取引の信条なのか,「誠実」(INTEGRITAS),「語学力」(LINGVARVM PERITIA),「慎重」(TACITVRNITAS),の標記で飾られる。画面の下方に描写される,足元は財宝に囲まれて王冠を戴く女神は「商業の繁盛」を象徴する。画7を参照。画面の右側には,これまた,画像から憶測するに,「金貨,銀貨の金銭を確認して,櫃に収納するか,文書に記録する商人と使用人」(5人),「宝石,貴石の財宝を前に帳簿に記録する商人と使用人」(2人),さらに,「帳簿に記録する事務員」(1人),「金貨,銀貨の金銭を確認して,袋に詰め込む商人と使用人」(2人),「荷樽に押印する作業員」(1人),「荷造りのために梱包する作業員」(3人),計14人の商業活動が描写される。さらに,画面の左側の左端と対照的に,画面の右端には,これまた,商業を守護する女神が描写される。女神の足元は帳簿と「自由」(LIBERTAS)の標記で飾られる。画8を参照。したがって,木版画の下段,3分の1に描写されるは,「商人の館」で働く計37人もの商人,事務員,使用人,作業員,飛脚,異国から商業取引に訪れる商人まで,まさに商人の館での商業活動から,まさに複式簿記の現場を想像させる画面である。このように,木版画の全貌を俯瞰するに,16世紀における商業の風景,はては複式簿記の風景を想像するのに,またとない木版画である。商人の館での商業活動を想像させるだけではなく,複式簿記の原理,原則,複式簿記の背景,さらに,複式簿記の現場を想像させる画面,まさに16世紀における複式簿記の風景を見事に描写する木版画である。そこで,筆者が取組んでいる「ドイツ簿記の16世紀」をヨリ馴染み易いものにするために,「16世紀における複式簿記の風景」として,まずは,Yamey の解説文,「木版画の解説文」を紹介することにしたい。さらに,木版画の下段,3分の1の画面,商人の館に組込まれる韻文,「木版画に組込まれる韻文」だけでも紹介することにしたい。
著者
古田 雅憲 フルタ マサノリ FURUTA MASANORI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学人間科学論集 (ISSN:18803830)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.1-10, 2016-03

「仙厓さん」こと仙厓義梵は美濃の人。臨済禅の僧侶として江戸時代後半に生きた(1750-1837)。その前半生を諸国行脚に多く費やしたが,数えて39歳の春,招かれて博多を訪れ,翌年(1789),今も博多区御供所町にある聖福寺の第123世住持となった。以後,亡くなるまでの約50年の間,常に博多の町衆とともにあった。61歳でいったん住職を退いてからは特に好んで筆を執り,たくさんの絵を描いては以て自身の修養の種とし,あるいは周庶の教化の縁とした。時に求められるままに描きもした数多くの絵の,その筆さばきの軽妙洒脱,天真爛漫なこと――今日の博多っ子も親しみを込めて「仙厓さん」と呼ぶ。仙厓絵のコレクションは出光美術館のそれが有名だが,福岡市美術館にもまとまったものがある――「石村コレクション」と言う。博多銘菓「鶴乃子」でおなじみの石村萬盛堂のご先代・石村善右翁が蒐集されたもので,仙 さんの書画ほか96点が収蔵されている。そのなかに「寒山拾得」を描いた一葉がある――その含意について些かなりとも思いを巡らしてみたい,それが小稿の趣意である。
著者
武末 祐子 タケマツ ユウコ TAKEMATSU YUKO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学フランス語フランス文学論集 (ISSN:02862409)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-46, 2014-02

古代ローマのネロ皇帝の黄金宮に描かれていた装飾が、ルネサンスイタリアで発見されるやラファエロによってヴァチカン宮殿のロッジアに応用され(図1 )、そのロッジアがエカテリーナ2 世の望みでロシアのエルミタージュ宮殿に再現され(図2 )、19世紀のヨーロッパでは新古典主義建築様式に広く適用されるという歴史をたどるグロテスク装飾は、鉱物、植物、動物、人物が混じりあった形態の美しさ(あるいは奇異さ)を特徴とする。建物の壁や天井、窓枠などに描かれた(あるいは埋め尽くされたhorror vacui)模様である。このハイブリッドな幻想的世界を生み出す装飾に魅かれた18世紀イタリアの建築家・版画家がジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージ(1720─1778)である。ルネサンスやクラシックという言葉が、過去に対して新しい目が向けられたときに誕生するように、グロテスクという言葉も、古代ギリシア・ローマからヨーロッパ中世へ何らかの形で伝えられている伝統的装飾を、別の目で発見し認識したときに現れた言葉である。古代ローマの帝政時代に発展した壁画装飾を、ルネサンスイタリアの芸術家たちが偶然に地下宮殿から発見し新しい目で観察し、15、16世紀の芸術に導入していったことは、周知のとおりである。グロテスク模様は建築や庭園、あるいはタペストリーなどに活用され、フィリップ・モレル1 が研究するようにヴァチカン宮殿、フィレンチェのウフィツィ宮殿、マントバのテ宮殿、ローマ郊外のティボリのエステ荘などイタリアでは、ルネサンスからマニエリスム時代にかけて隆盛を極める。バロック・ロココ時代にはより洗練されていく。グロテスク模様が、18世紀終わり頃から19世紀にかけて一般名称としてのアラベスク模様に包含され吸収されていくまで、グロテスク模様という言葉は使われ続ける。このような時代と環境に馴染みながらピラネージは、建築と装飾、そして版画制作に独創的な才能を発揮する芸術家である。ピラネージは、ローマの古代建築物や近代建築物を題材にした多くの版画を出版するが、アヴェンティーノの丘にたつプリオラート教会建築に携わる一方、廃墟を中心とした都市風景に関心を持ち、古代ローマの遺構に関する研究と分析を行い版画制作をした。したがって建築事業、遺跡の測量的(考古学的)考察、廃墟の風景版画出版までその活動範囲は広い。特に版画制作はピラネージが選んだ彼の才能に最も適した表現方法であった。グロテスク装飾とピラネージの関係は、あまり語られてこなかった。グロテスク模様の歴史を起源前1 世紀の古代ローマ帝政時代から始め、中世の写本装飾enlumineurs に言及し、19世紀のロートレックまでを射程にいれたアレッサンドラ・ザンペリーニの『グロテスク装飾』の中では、晩年のピラネージの暖炉装飾が新古典主義様式として取り上げられている。「ジョヴァンニ=バティスタ・ピラネージの美学論の重要性と特に根本的な貢献を過小評価することはできない。『グロッテスキ』とタイトルがつけられた彼のエッチング作品で、廃墟の偉大さの感情が優っているとしても、彼の後の作品、特に建築論と暖炉装飾芸術論Diverse Maniere d'adornare icamini は創作の独立性、開かれたシンタックスと複数の考古学的スタイルの混交の重要性を主張している。」3我々に興味深いと思えるのは、ピラネージの初期の作品に『グロッテスキ』と題された4 枚の版画作品があり、それと晩年の暖炉装飾作品では大きな違いがあることである。「ヴェネチアの建築家」と自称するピラネージはグロテスク装飾をどのように解釈したのであろうか。ネロ皇帝のドムス・アウレアで発見されたグロテスク模様が各国の宮殿建築に適用され洗練されていくのと並行し、再び古代ローマの廃墟から出発し、独自の表現を見出し、19世紀に橋渡したピラネージのグロテスク装飾解釈を検討したい。18世紀ローマの建築と廃墟の風景は、グランドツアーでローマへ旅行するイギリス人たち、アカデミーの芸術コンクールで優秀な成績を収めてやってくるフランス人の芸術家たち、フランドル、オランダ、ドイツなどからやってくる貴族や芸術家たちに広く好まれる。ピラネージはそのようなイタリアブームのただなかにいた。ピラネージと関係を持った、あるいは影響を受けた芸術家、批評家、文筆家は数多い。フランス人画家ユベール・ロベール、クレリッソー、フラゴナールを始め、シャール、ド・マシー、ドラフォース、ルジェなど1976年に刊行された『ピラネージとフランス人たち』4 には多くの18世紀芸術家たちとピラネージとの関係が研究されている。また、18世紀の古代ギリシア・ローマ建築様式論争においては、『建築試論』(1753)のマルク・アントワーヌ・ロージエ、『ギリシア美術模倣論』(1755)のヴィンケルマン、『ギリシア最美の古代建築の廃墟』(1758)のジュリアン・ダヴィド・ルロワなどのギリシア建築擁護派に対して、ローマ建築の熱烈な擁護者としてピラネージは論争の渦中にいたこともよく知られている。イギリスにおいてピラネージは、最も影響力をもった。1757年、37歳の頃、ロンドン王立古物研究家協会(のちの考古学協会)の名誉会員になる。ジョン・フラックスマン、ホラス・ウォルポール、ウィリアム・チェンバーズ、ロバート・ミルン、ジョージ・ダンス、ロバート・アダム、ジョン・ソーンなど直接的間接的に影響を受けた人は数知れない。ピラネージ作品の集大成ともいえる『古代ローマのカンプス・マルティウス』(1762)はイギリスの建築家ロバート・アダムに献呈されている。ピラネージは、建築、庭園、風景画、廃墟画、版画、装飾の分野で知られ、後にはフランスロマン主義文学作家たちにおいてもジョルジュ・プーレやリュツィウス・ケラーによってその影響が研究される。作家マルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』は20世紀においてもピラネージへの関心の高さを示す。ピラネージの作品のいったい何が時代を超え、分野を超えて共鳴を呼ぶのであろうか。ヴェネチア生まれのピラネージは故郷に戻らず、ローマで生涯を送ることになるが、彼を引きつけたものは、その作品からも明らかなように、古代ローマの廃墟である。この廃墟をモチーフにして、ピラネージがグロテスク模様をどのように捉えたのかを、まず彼の作品『グロッテスキ』に探り、彼が舞台芸術から学んだこと、彼が追求した美的効果について、そして暖炉のグロテスク装飾の4 つの視点から考察していきたい。
著者
津田 謙治 ツダ ケンジ TSUDA KENJI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.165-182, 2015-07

「あなたは,神が場所の中に包まれるのであってはならないと言っている。〔しかし〕今やこの神が〔エデンの〕園の中を歩き回ると言うのであろうか」―― 有限な場所であるエデンの園を神が歩んだとする創世記の記述に関して,二世紀の非キリスト教徒アウトリュコスが物語上で問い掛けたこの疑問は,この時代のキリスト教の神概念と教理における幾つかの重要な問題を浮彫にしている。神は有限な場所(限られた空間)の中に限定される(閉じ込められる)ほど小さな存在なのか。(包み込まれる)神が(包み込む)場所よりも小さな存在だとすれば,場所や世界を構成する質料の方が神よりも大きな存在とならないだろうか。このような場所の問題によって,神があらゆるものの唯一の支配者であるとする単一支配(モナルキア)は維持できなくなるのではないだろうか。また,神は人間と同じ場所に立ち,人間に知覚される存在なのか。すなわち,神は感覚で捉えられる存在なのだろうか。冒頭の問い掛けに応答したアンティオキアの司教テオフィロス(169頃活躍)は,ロゴス概念を用いてこの問題を解こうと試みている。彼は,神自身は有限な世界に閉じ込められず(包み込まれることなく),むしろ世界を包括する偉大な存在であり,世界を造り出し,支配する唯一の存在であって,また神は人間の感覚では捉えられないとする。したがって,エデンの園に顕れた神は,神自身ではなく,神のロゴスであって,このロゴスを最初の人間であるアダムは捉えたのだと彼は説明している。このようなテオフィロスの創世記解釈は,神自身とロゴスを区別することによって,超越者が世界に内在する問題を解決しようとするものである。しかし,一見すると,この解釈は一神教を放棄することで成り立っているような印象を受ける。ロゴスも神であるとすれば,二神論になるのではないだろうか。また,神でもあるロゴスが人間に知覚されるのであれば,神を超越者とする,この時代の神的概念にそぐわないのではないだろうか。本論では,「場所」概念を手掛かりとして,上述のテオフィロスのロゴス概念を分析し,彼の説く一神教概念や否定神学的文脈との整合性を吟味する。それによって,彼を含む二世紀の護教家教父たちが説いたロゴス概念が,後の時代の三位一体論などで展開されるキリスト論の教理史上で,どのようなかたちで位置付けられるかを考察してみたい。
著者
青野 太潮 Tashio AONO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.19-62, 2010-03

以下の論考は、2008年11月15-16日に御殿場の東山荘において開催された「学生YMCA 創立120周年記念フォーラム」において「いま、聖書から私たちは何を聴くか――『十字架の神学』と贖罪論――」と題して私が語った主題講演に大幅な加筆・訂正を施したものである。この講演のテープ起こしは、すでに2009年11月30日発行のこのフォーラムの報告書『いま、世界の中で、われらの信の根を問う』(YMCAスタディシリーズ23)、日本YMCA同盟、19-49頁、に掲載されているが、あまりにも舌足らずの部分が多いので、またその報告書を入手するのが困難な方も多いのではないかと思われるので、その改訂版をここに掲載させていただくことにした。しかし改訂したとは言え大幅な重複があるのは事実なので、それについては読者のご寛恕を乞う次第である。
著者
青野 太潮 アオノ タシオ Tashio AONO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.37-76, 2005-03

本稿は、2004年3月23日に西南学院大学において開催された「卒業生のための神学部シンポジウム」における私の発題を拡大したものである。このシンポジウムは、教授会における片山寛教授の提案を受けるかたちで、神学部主催で開催された。片山氏は、氏が西南学院大学神学部の学生だったころに、とくに寺園喜基氏と私青野との間でなされた「論争」によって大いに刺激を受けたとのことであるが、そのような「論争」は神学の学びにとって基本的・本質的なものなので、ぜひ今の学生にも、とくに卒業を目前にしている学生たちにも聞かせたい、と提案された。私自身は、もはや寺園氏や私などが出る時代ではなく、他ならぬ片山氏たちの世代の人たちこそが「論争」を展開したらよいではないか、と辞退したのだが、どうしても、ということで、発題を引き受けざるをえなかった。シンポジウムのテーマとしては、寺園氏が「障害者イエス」という論文を『ひびきあういのち』に発表しておられたので、それを取上げて議論しよう、ということと、神学部を卒業していく神学生の一人、水野英尚氏が、氏の長女で重度の障害を与えられているひかりさんのバプテスマの問題との関連で貴重な提案をしており、かつその問題を彼の卒論においても展開したということがあったので、彼をもパネリストに加えて、重症心身障害者にとってのバプテスマの問題を視野に入れながら、「障害」の問題について話し合おう、ということが決められた。そして寺園氏には、上述の「障害者イエス」における内容をさらに展開する形で話していただく、ということになった。私にはもう寺園氏と「論争」することへの意欲はあまりなく、これまでの「論争」を振り返ってみても、自らの若気の至りと思われる部分が多くあるので、その誤りは再び犯すまいと思ってはいたのだが、結局以下の文章が示しているように、やはりかなり激しい内容になってしまった。とくに教義学的思考に安らぎを覚えておられる向きには、不快に思われるところが多いだろうとは思うが、どうもこのスタイルから私は抜け出すことができないようである。しかし、上述したように、まさにそのスタイルを貫くようにとの要請を片山氏などから受けたという事情もあったので、読者のご寛恕を乞う次第である。以下に記す寺園氏の論文の頁の指示は、他の指示がない限り、すべて上掲の「障害者イエス」のそれを指している。
著者
福永 俊輔 フクナガ シュンスケ FUKUNAGA SHUNSUKE
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.206-161, 2015-06

わが国が近代刑事再審制度を採用したのは、1880年制定にかかる治罪法においてである。治罪法は、フランス法に倣い、利益再審のみを認めた。その後、1890年制定にかかる旧々刑事訴訟法(明治刑事訴訟法)も治罪法とほぼ同様の規定を置いたが、1922年制定にかかる旧刑事訴訟法(大正刑事訴訟法)は、ドイツ法を継受し、利益再審のみならず不利益再審をも認めるに至った。しかし、戦後、日本国憲法が第39条において一事不再理を規定したことに伴い、まず応急措置法20条が「被告人に不利益な再審は、これを認めない」として不利益再審規定を廃止し、その後、1948年に制定された現行刑事訴訟法も、不利益再審を廃し、再審を利益再審に限って認めている。こうして、現行のわが国の再審制度は、「再びフランス型に戻った」と評される。わが国の再審制度の起源であるフランスに目を向けると、近時、刑事再審制度をめぐって、大きな動きがあった。昨年、「刑事確定有罪判決の再審および再審査の手続の改正に関する2014年6月20日の法律」(LOI n°2014-640 du 20 juin 2014 relative à la réforme des procédures de révision et de réexamen d'une condamnation pénale définitive。以下、フランス2014年法ということもある)の公布・施行に伴い、フランス刑事訴訟法における再審規定の改正が行われたのである。わが国の治罪法制定に当たり基礎とした1808年ナポレオン刑事訴訟法典は、わが国の刑事再審制度にとどまらず、近代的な再審制度の立法化の起源であるとされる。もっとも、すでに指摘されているように3)、そこで規定された再審規定は、極めて厳格なものであった。しかしながら、以後のフランス刑事再審制度は、個別の誤判事件とそれに対する世論を背景として改正を繰り返しながらその厳格性を改め、リベラルな性格を持つ再審制度として結実した。2014年のフランス刑事訴訟法の再審規定の改正は、こうした再審制度につき、全面的な改正を行ったものである。ところで、近時、わが国においては、刑事再審をめぐる動きが活発化している。昨年、袴田事件第二次再審請求審に対して、静岡地裁は、再審の開始と拘置の執行停止という判断を行った。2000年以降に目を広げても、布川事件、氷見事件、足利事件、東電OL事件で再審無罪の判断が下されている。しかし、その一方で、名張事件、福井女子中学生殺人事件では再審開始決定後に取り消しがなされ、その他北陵クリニック事件、飯塚事件、恵庭OL事件、大崎事件などでは再審請求が棄却されている。こうした再審に関する動きの中で、研究者やこれら再審事件に直接かかわっている実務家から、再審請求審における判断構造、証拠開示の問題、再審開始決定に伴う刑の執行停止の問題やいわゆる「再審格差」の問題などが指摘されている。フランス刑事再審制度は、わが国が現在抱えているこれら再審の問題を考察するうえで参考となる点が多く、きわめて示唆に富むように思われる。そこで、本稿は、フランス2014年法により新たに改正されるに至ったフランス刑事再審制度につき、従来のフランス再審制度との比較を通じてこれを紹介し、フランス刑事再審制度の近時の動向を確認することをその目的とするものである。