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「里見九代記」 https://t.co/Kcdn5VSvED 分限の巻 里見九代の分限は、義実公一代は安房国に西上総少々、東上総は正木一家残らず味方となり、二代目より義豊公・実堯公までは社家様より両国の大将を賜はり、社家様滅亡以後、義堯公椎津の城を攻め落し、両国は申すに及ばず下総三浦まで御手に附き給ふ。
「里見九代記」 https://t.co/Kcdn5VBsCD 一、天文十三年、上総小田喜の城主朝信、八月七日、刈原にて打負け自殺す。
「里見九代記」 https://t.co/Kcdn5VBsCD 一、天正八年庚辰七月四日、義頼公長狭郡へ発向し、悉く放火。金山の城を取詰め、程なく落城す。
「里見九代記」 https://t.co/Kcdn5VBsCD 天文六年丁酉、将軍政氏公の御息子義明公、四月二日発向、上総国真里谷信隆を討たる。同七年十月七日、国府台にて氏綱大弓を張りて御所義明公父子、及び御舎弟元頼公三人を射取る。
「里見九代記」 https://t.co/Kcdn5VBsCD 一、永正十三年丙子七月晦、長狭郡の山の城主正木大膳討死す。法名正範と號す。
「里見九代記」 https://t.co/jHLI08tVP4 一、永享九年、鎌倉持氏逆心を企て給ふと雖も、上杉憲実強く諫む。持氏立腹して密に憲直・直兼をして憲実を討たしむ。事現れて騒動す。持氏過に憲実に謝し、漸く和睦せり。同十年八月、又管領持氏謀反を起して、先づ執事上杉憲実を殺さんとす。
「里見九代記」 里見系図の巻 (上総国峰下天神山里見正次郎より求む) 社家様の系図 https://t.co/NyAba5ntPm
「国府台戦記」 https://t.co/SUUWwjIhVr 大御所さまは、北条を御目に掛け、其の隙を見給ふに、たけ七尺に及びたる男、黒皮縅の腹巻に半月打つたる武者一人、五尺三寸抜き持ちて、大音揚げて呼ばはるやう、「北条殿の御内に、安藤と申す者は、恐れにて候へども、御所さまの御相手に参り候はん」
「房総里見軍記」 https://t.co/dTLGAa8UNl 爰に上総国の住人武射四郎五郎といふもの、大将左兵衛督義明公の陣へ引つ返して、注進申上げけるは、「味方の勢過半は討死仕り、御曹子にも既に討たれさせ給ひ候ひぬ。まづ此處を引き取り給ひ、重ねて本意を遂げさせ給へ」と、ひたすら諫言申しけれども、
「房総里見軍記」 https://t.co/WrERClRxXD 正木大膳は、先に立つて、「いつ迄矢軍に時刻移すべきや。急ぎて敵船に乗り移れ」と、急太鼓を打つて下知すれば、待ちかねたる房州勢、鬨の聲を上げて、漕ぎつれ漕ぎつれ乗り返す。中にも(里見)義弘卿旗本の先手、東條六郎、木曽又五郎は無双の剛力、
「房総里見軍記」 https://t.co/p8JgNXLiNO 総州の住人世田八十郎とてありけるが、只今(里見)義豊卿の切り抜け給ふを見て、後より来りて丁と突く。浅手なれども急所なれば、馬より下へ落ち給ふ。八十郎喜び、御首を取らんと馳せ寄るを、
房総叢書に収録されている中でも最も好きだったのが「総州久留里軍記」。第2巻・軍記の64コマ目から。https://t.co/j2SPs1rVDH 幕末・戊辰記の「雨城の夢」は第5卷 史傳其三に所収。 https://t.co/uxIe70Fm6G コレに触発されて書いたのが拙文「雨城興廢記」。 https://t.co/eFOjiLObwM
https://t.co/0AVBf2YyIz 房総叢書 : 紀元二千六百年記念 第2卷 軍記 図書 (紀元二千六百年記念房総叢書刊行会 1944) 目次:關八州古戰録抄 かっこよくたたかう部分のみ収録

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