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ペリー提督が率いるアメリカ艦隊が、浦賀に2度目の来航をしたのは、嘉永7年でした。
翌年の安政元年に、幕府は長州藩に対して、鎌倉から浦賀にいたる相模国の沿岸一帯を警護するように命じます。
警護の担当区域は、三浦半島の半分以上といえるほどの広範囲であり、長州藩の江戸藩邸にいる者だけでは人手不足で、本国の萩からも人員が召集されました。
その人数は、藩士が約600人と、藩士の従卒(従者)が約60 ...
伊藤博文の出生名は、林利助といいます。
父親は林十蔵で、長州藩領の周防国熊毛郡束荷村の農民でした。
束荷村では庄屋に次ぐ畔頭(くろがしら)という家柄で、田畑の他に山も所有していた自作農なので、裕福ではないにしろ貧乏農家ではなかったのです。
ところが利助が幼少時に、十蔵は膨大な負債をかかえてしまい、屋敷と土地を売り払って弁済したために、農業で食べていけなくなりました。
十蔵は仕事を求め、 ...
まず質問者さんの疑問に回答します。
「博文」の諱(いみな)を使い始めたのは
明治元年の9月からです。
「利助」の通称が親から付けられたのは間違いないと思います。
「俊輔」が吉田松陰に名付けられたというのは誤解で
これを名乗ったのは 文久元(1861)年から翌年までになり
松陰の死後2年が経過しています。
伊藤博文の没後に業績を顕彰するために発足した
春畝公追頌会から発行され ...
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