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投稿一覧(最新100件)
安政の大獄で江戸に移送された吉田松陰が、伝馬町の牢屋敷から親族に送った書簡に出てくる句です。
書簡の全文は『吉田松陰全集』に収録されています。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048679/257
なお元ネタというのではありませんが、紀貫之の『土佐日記』にちょっと似たような和歌があります。
「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひな ...
玉木文之進の事績を記録した正式な伝記は、吉田松陰全集に収録されている『玉木正韞先生傳』が唯一のものになります。
筆者は吉田庫三といい、吉田松陰の甥(姉の息子)であり、松陰の死後に吉田家を相続した人です。
なおこの庫三も、少年期には玉木文之進から初等教育を授けられています。
こちらは国立公文書館デジタルコレクションで公開されています。
大した分量はありませんので、もし興味があれば原文に目を通してみ ...
明治時代は現代とは違って、まだ写真週刊誌やテレビのワイドショーなどありませんから、普通の新聞でも著名人のゴシップ記事を扱っていました。
ただし、当時は別に有名人でもない夏目金之助なる一介の文学者が、留学先のイギリスで精神病になったらしいという程度の噂話など、一般大衆の興味をそそるネタではなかったみたいで、それを報じた新聞は一紙も見当たりません。
明治33年、文部省からイギリス留学を命じられた夏目 ...
そういった話が『平家物語』や『源平盛衰記』に出ていますね。
清盛の息子とは、五男の平重衡(たいら の しげひら)のことです。
有名な『平家物語』では、巻第十の「戒文」という章が該当部になります。
興味があれば原文をご覧ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1026842/110
ざっくりと要約すると…
源平合戦における一ノ谷の戦い ...
一般に「大仏造立の詔」と呼ばれることが多いみたいですが、存在します。
原典は『続日本紀』巻十五の天平15年10月の記事です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092/130
(右ページの最後から2行目の「◯冬十月辛巳」以下が該当部です)
こちらの書き下し文とちょっとした解説が東大寺のHPに出ていましたので、ご覧になってみてください。
...
ペリー提督が率いるアメリカ艦隊が、浦賀に2度目の来航をしたのは、嘉永7年でした。
翌年の安政元年に、幕府は長州藩に対して、鎌倉から浦賀にいたる相模国の沿岸一帯を警護するように命じます。
警護の担当区域は、三浦半島の半分以上といえるほどの広範囲であり、長州藩の江戸藩邸にいる者だけでは人手不足で、本国の萩からも人員が召集されました。
その人数は、藩士が約600人と、藩士の従卒(従者)が約60 ...
この言葉の原典は、吉田松陰が安政2年に野山獄で書き上げて藩に上程した『福堂策』にある一文ですね。
【原文】
且つ人賢愚ありと雖も、各〻一二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048648/157
(右から5行目より)
松陰が最初に野山獄に投じられたのは安政元年で、このとき高須久はすで ...
①
そうです。
②
藤原時平を描いたものです。
元ネタは『大鏡』という平安時代の歴史物語にある「時平伝」になります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020550/50
(右ページが該当部です)
③
史実としてはおかしいですね。
ただ『北野天神縁起絵巻』はあくまで創作であって、制作期も鎌倉時代初期の承久年間(1219〜1221年)で ...
このエピソードの出典は『信長公記』という、織田信長の一代記ですね。
著者は信長に仕えていた太田牛一なる侍で、同時代の記録として史料的な価値は高いとされています。
『信長公記』 巻之十五 / 明智日向守逆心之事
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/185
(左ページ・最後から5行目より)
ざっくりと訳してみます。
5月27日に ...
どれも江戸時代中期から明治初期にかけて書かれた、逸話集に出てくる話ですな。
●切腹しなかったのは
『常山紀談』(左ページ)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918159/7
捕縛された石田三成が本多正純に尋問され、自害しなかった理由について「切腹して敵に身柄を渡さないのは、葉武者(=雑兵)のやること。かつて絶体絶命の危機に臨んだ源頼朝は、最 ...
どれも江戸時代中期から明治初期にかけて書かれた、逸話集に出てくる話ですな。
●切腹しなかったのは
『常山紀談』(左ページ)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918159/7
捕縛された石田三成が本多正純に尋問され、自害しなかった理由について「切腹して敵に身柄を渡さないのは、葉武者(=雑兵)のやること。かつて絶体絶命の危機に臨んだ源頼朝は、最 ...
どれも江戸時代中期から明治初期にかけて書かれた、逸話集に出てくる話ですな。
●切腹しなかったのは
『常山紀談』(左ページ)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918159/7
捕縛された石田三成が本多正純に尋問され、自害しなかった理由について「切腹して敵に身柄を渡さないのは、葉武者(=雑兵)のやること。かつて絶体絶命の危機に臨んだ源頼朝は、最 ...
慶長の役ではなく、文禄の役での晋州城の攻略戦で、加藤清正と黒田長政の軍で用いられたという、亀甲車(きっこうしゃ)のことでしょうか?
黒田官兵衛が設計したと言う人もいますが、自分はその根拠となる文献を知りません。
加藤家伝『清正公行状奇』によれば、清正が家臣の飯田覚兵衛に教えて作らせた…とあります。
亀甲車がどういったものかは、加藤清正に関する戦記の『清正記』に書かれています。
...
源実朝が暗殺されたのは、建保7年(1219年)1月27日です。
鎌倉幕府の事跡を記した史書の『吾妻鏡』で、暗殺当日の記録を見れば、この和歌が出てきます。
国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111595/18
(左ページの3行目です)
そのときの状況として、鶴岡八幡宮へ出発する間際に、実朝が「庭の梅 ...
鳥羽上皇が崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいたという話は、実は同時代の記録には全く存在しません。
文献に初めて登場するのは、鎌倉時代に書かれた説話集の『古事談』です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920299/27
(左ページの3行目からが該当部になります)
【原文】
待賢門院ハ白川院御猶子之儀ニテ令入内給、其間法皇令密通給、人皆知之歟、崇 ...
自分が確認した限りですが『当代記』で家康の淋病に関する記述は3ヶ所ありますね。
●巻三・慶長十年の正月九日「淋病氣故駿府に暫有滞留」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/49
(左ページの下段、右から2行目です)
●巻四・慶長十二年の正月十一日「大御所少々淋病御煩」
●巻四・慶長十二年の正月十五日「大御所淋病氣御惱也」
http ...
自分が確認した限りですが『当代記』で家康の淋病に関する記述は3ヶ所ありますね。
●巻三・慶長十年の正月九日「淋病氣故駿府に暫有滞留」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/49
(左ページの下段、右から2行目です)
●巻四・慶長十二年の正月十一日「大御所少々淋病御煩」
●巻四・慶長十二年の正月十五日「大御所淋病氣御惱也」
http ...
アメリカへの渡航費用であれば、野口英世は北里柴三郎にも拠出を依頼していますが、即座に断られたようです。
野口英世の伝記はいくつもありますが、奥村鶴吉という東京歯科大学の学長を務めた医師が、昭和8年に発表したものが最も優れているとされます。
この奥村は、野口の生涯の大恩人といえる血脇守之助の弟子で、本郷の下宿で野口と一緒に暮らしたことがあり、同時期にアメリカに滞在して現地でも交際を続けていた ...
明治時代に司法省によって編纂された『徳川禁令考』という江戸幕府の法令集があります。
こちらに収められている「殿中禁令條目」によれば、慶長10年(1605)を最初のものとして、江戸城内における禁止事項を定めた法度が、何度か出されているようです。
『徳川禁令考』62巻後聚40巻 第二帙
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877034/122
上記サ ...
墓を建てたのは、来島恒喜が所属していた政治団体の玄洋社ですね。
来島の墓は玄洋社墓地にあり、総帥だった頭山満の墓の横に並んでいます。
福岡教育連盟「~崇福寺・玄洋社墓地~」
https://www.fenet.or.jp/history/id/33
大隈重信が来島を称賛していたのは事実で、自身の著書の中で「若者らしい元気や行動力があってよろしい」といったことを書いていま ...
最初に申し上げておきますが、質問者様が求めているような回答は書けそうにありません。
なぜなら自分も以前に質問者様と同じ疑問を持って、手当たり次第に吉田松陰関連の史料や文献を読み漁ったのですが、ついに見つけることができなかったからです。
ただ非常に簡潔な言葉で、玉木文之進が幼少期の松陰に厳しすぎる教育を施した…といった意味のものはありました。
明治41年に77歳でまだ健在だった、松陰 ...
根拠とされる文献は『紫式部集』という自撰の和歌集ですね。
杜鵑 こゑまつほどは かたおかの 杜のしづくに たちやぬれまし
上記の歌の詞書(ことばがき=和歌の前書き)に「賀茂にまうでたるに、子規なかむという明ぼのに、かた岡の梢をおかしうみえけり」とあります。
自撰の和歌集に本人がそう書いているのですから、賀茂神社に参詣して片岡社にも立ち寄ったことは、きっと事実なんでしょう。
...
北条政子の夢買いのエピソードは、鎌倉時代の後期以降に成立した『曽我物語』という創作性の高い軍記物語にしか登場しません。
だから歴史的な事実だとは認められていませんので、古典文学に関する話になりますね。
…ここまで余談です。
この『曽我物語』のうち、夢買いは「時政が女(むすめ)の事」と「橘の由来の事」の章が該当部です。
それほど難しくありませんから、原文を読んでみてください。
...
明治時代になると、旧大名とその嫡男は、華族という地位を与えられました。
国家の最上流階級である華族が、西欧の先進文化を吸収して国際的な見識を広げることで、日本の近代化において国民の模範になると期待されたため、明治政府は天皇の勅諭(天皇みずからの訓示)という形式で、華族への海外留学を積極的に勧奨しています。
「華族に海外留学周遊を奨励し給へる勅諭」
http://dl.ndl.go.jp/ ...
質問者様のお知りになりたい事柄のうち、せいぜい20%程度の情報でしょうが、何もないよりマシかと思いますので、とりあえず回答いたします。
参考文献は、鹿児島市教育会が刊行した『薩藩の文化』のうち、第六章の「洋式紡績所の建設と英人技師の招聘」です。
こちらは国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/123347 ...
作品名は『安愚楽鍋』(あぐらなべ)で
作者は仮名垣魯文(かながき ろぶん)ですね。
国立国会図書館デジタルコレクションで、全文を読むことができますよ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882305/47
伊藤博文の出生名は、林利助といいます。
父親は林十蔵で、長州藩領の周防国熊毛郡束荷村の農民でした。
束荷村では庄屋に次ぐ畔頭(くろがしら)という家柄で、田畑の他に山も所有していた自作農なので、裕福ではないにしろ貧乏農家ではなかったのです。
ところが利助が幼少時に、十蔵は膨大な負債をかかえてしまい、屋敷と土地を売り払って弁済したために、農業で食べていけなくなりました。
十蔵は仕事を求め、 ...
豊臣秀頼の大坂城外への巡視行は、複数の文献史料に見える話なのかも知れませんが、自分が実際に読んだうちでパッと出てくるのは、秀頼の伝記である『豊内記』です。
この『豊内記』は、記述内容から豊臣方の人間によって書かれたものと考えられていて、全体的に豊臣びいきの潤色が加えられているため、史料として一級の価値があるとは言えないまでも、とりあえず「秀頼が合戦予定地を見て回った」という事実関係くらいは信用し ...
川崎大師こと平間寺があるのは、かつての地名で武蔵国の橘樹郡(たちばなぐん)川中島村です。
江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』という地誌に、平間寺なる名称の由来が二つ記されています。
原文を下記URLからご覧ください。(左ページ「弘法大師堂」が該当部です)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763985/49
二つの説を簡単に要約してみます ...
「よろしく まず いちじより いちじつより はじむべし」
吉田松陰の名言というか、松陰が『孟子』に関する注釈と見解をまとめた『講孟剳記』 の中にある一文ですね。
下記URLから原文をどうぞ。(右から2行目より)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116793/39
長沢長九郎なる人物の名は、文献史料のたぐいには全く見当たりません。
後藤又兵衛に関連するのであれば、おそらく『長澤聞書』を遺した長澤九郎兵衛のことだと思いますので、そのつもりで書きます。
以下は『長澤聞書』からの抜粋です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920319/25
①「又兵衛を始、某(それがし=長澤九郎兵衛)父七右衛門、兄十太夫 ...
関ヶ原から凱旋した黒田長政に対し、父親の黒田官兵衛が暗に「なぜ空いている左手で家康を刺さなかった?」の意味をこめた言葉で皮肉った…という逸話ですね。
このエピソードの出典は、ウィキペディアには『古郷物語』とあり、多くの歴史関係の雑誌や書籍にもそのように記されています。
しかし、自分は『古郷物語』を隅から隅まで読んだものの、そういった記述は一切ありませんでした。
(だから自分はウィキペディ ...
関ヶ原から凱旋した黒田長政に対し、父親の黒田官兵衛が暗に「なぜ空いている左手で家康を刺さなかった?」の意味をこめた言葉で皮肉った…という逸話ですね。
このエピソードの出典は、ウィキペディアには『古郷物語』とあり、多くの歴史関係の雑誌や書籍にもそのように記されています。
しかし、自分は『古郷物語』を隅から隅まで読んだものの、そういった記述は一切ありませんでした。
(だから自分はウィキペディ ...
ご承知のように、石田三成が関ヶ原の戦いで敗れたのち、石田一族は滅ぼされ、本拠の佐和山城は廃城となりました。
また三成の主家であった豊臣氏も、大坂の陣で滅亡し、大坂城も焼失しています。
そういった理由で、石田氏および三成に関する正規の記録は、ほとんどが江戸時代の初頭までに失われてしまいました。
現代でも三成の学術研究には、明治時代に書かれた渡辺世祐(わたなべよすけ)という歴史学者の『稿本石 ...
細川家の家譜として編まれた『緜考輯録』(めんこうしゅうろく)に記されています。
国立国会図書館のデジタル化資料で公開されていますので、下記URLからどうぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568423/15
右ページの1行目が「散りぬべき…」の歌です。
正確には、太閤秀吉が近臣に向かって冗談で「自分が死んだ後、天下を手中に収めるのは誰か?」と問いかけたところ、誰もが五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)のうちから名を挙げたものの、秀吉は「かの跛足(ちんば)である」と黒田官兵衛を名指しした…という逸話ですね。
これは館林藩の岡谷繁実なる侍が、幕末から明治初年にかけて書いた『名将言行録』という人物エピソード集が出典になります。 ...
藤原道兼は、大納言の官職にあった正暦元年(990年)に、粟田山に別荘を造営しました。
このことは『栄花物語』にも記されています。
国立国会図書館のサイトで原文を読むことができますので、よろしければご覧ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1080697/45
(左ページの7行目からです)
〈書き出し〉
斯様の事につけても、大納言殿 ...
江戸末期、萩藩士の木梨恒充によって、萩城下町の様子を描いた「八江萩名所図画」(やえはぎめいしょずえ)という地誌が編まれました。
こちらに明倫館の鳥瞰図が載っています。
国立国会図書館のサイトで公開されていますので、下記URLから御覧ください。
(フルスクリーン表示にすると見やすくなります)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851870/50
...
漢詩バージョンというのは存在しないと思います。(たぶん)
ただ『万葉集』が編まれた奈良時代には、まだ平仮名なる文字がありませんので、万葉仮名(まんようがな)という漢字の音を用いて書かれています。
だからオール漢字の表記です。
ご質問の「海行かば」は、大友家持の長歌の一部を切り取ったものになります。
その部分の原文は以下の通りです。
海行者 美都久屍
山行者 草牟須屍
...
実際、後藤又兵衛の生年には定説がありません。
亡くなったのは慶長20(1615)年ですが、享年についても文献や史料によって年齢が様々です。
43歳没=『姓氏家系大辞典』
46歳没=『真書太閤記』
53歳没= 菩提寺(祝融山多聞寺)の位牌
56歳没=『後藤又兵衛尉政次伝』『大日本史』
60歳没=『長澤聞書』
一般には没年齢は56歳の説が主流なようで、これを逆算すれば生年は永禄3 ...
井上馨には『世外井上公伝』という公式な伝記があります。
その第三巻から「第四節 明治十四年の政變」の記述を元に回答しますね。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875132/123
1.
218ページ「而して兵庫・姫路を経て厳島に著いたのは七月二十二日で、滞在は五週間の予定である」と見えます。
到着が7月22日なのは確かですが、具体的に宿を引 ...
木戸孝允は明治10年に没しました。
晩年の数年間の日記には、懊悩煩悶しているような記述が散見されます。
全て挙げるのは無理ですので、極めつけなのを一つだけ紹介します。
『木戸孝允日記』明治八年九月五日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075415/119
向かって左ページの「政府中情實不至」から数行をザックリと訳しておきます。
「政府内 ...
木戸孝允は明治10年に没しました。
晩年の数年間の日記には、懊悩煩悶しているような記述が散見されます。
全て挙げるのは無理ですので、極めつけなのを一つだけ紹介します。
『木戸孝允日記』明治八年九月五日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075415/119
向かって左ページの「政府中情實不至」から数行をザックリと訳しておきます。
「政府内 ...
木戸孝允は明治10年に没しました。
晩年の数年間の日記には、懊悩煩悶しているような記述が散見されます。
全て挙げるのは無理ですので、極めつけなのを一つだけ紹介します。
『木戸孝允日記』明治八年九月五日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075415/119
向かって左ページの「政府中情實不至」から数行をザックリと訳しておきます。
「政府内 ...
勝海舟の日記のなかに、新選組について書かれた一文があります。
こちらは国立国会図書館のサイトで閲覧できます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/45
(71ページの上段中央。フルスクリーン表示にすると読みやすいです)
「京地、會津に服せざる甚し。會の壬ぶ浪士を用ゆる、彼探索を名とし財寶を私すること甚敷、下民是が爲に、災を蒙むる尤多 ...
手に入りやすいのは、このあたりかと思います。
『織田家の人びと』小和田哲男 著/河出書房新社
『織田軍・全合戦記』和巻耿介 著/光文社文庫
『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』横山住雄 著/教育出版文化協会
著作権の切れた古い書籍ですが、国立国会図書館のサイトでいつくか公開されています。
『愛知県城主伝』古渡城主・織田信秀
http://dl.ndl.go.jp/ ...
手に入りやすいのは、このあたりかと思います。
『織田家の人びと』小和田哲男 著/河出書房新社
『織田軍・全合戦記』和巻耿介 著/光文社文庫
『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』横山住雄 著/教育出版文化協会
著作権の切れた古い書籍ですが、国立国会図書館のサイトでいつくか公開されています。
『愛知県城主伝』古渡城主・織田信秀
http://dl.ndl.go.jp/ ...
手に入りやすいのは、このあたりかと思います。
『織田家の人びと』小和田哲男 著/河出書房新社
『織田軍・全合戦記』和巻耿介 著/光文社文庫
『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』横山住雄 著/教育出版文化協会
著作権の切れた古い書籍ですが、国立国会図書館のサイトでいつくか公開されています。
『愛知県城主伝』古渡城主・織田信秀
http://dl.ndl.go.jp/ ...
講談社学術文庫から『講孟箚記』の上下巻が刊行されていて、これが最も廉価本になるかと思います。
Amazonなどで古本を探せば、各刊1000円以下で手に入るはずです。
すでに著作権の切れた昭和初期の書籍であれば、国立国会図書館のサイトで公開されているものが閲読できますよ。
『講孟箚記』上
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116786/1
『講孟箚 ...
講談社学術文庫から『講孟箚記』の上下巻が刊行されていて、これが最も廉価本になるかと思います。
Amazonなどで古本を探せば、各刊1000円以下で手に入るはずです。
すでに著作権の切れた昭和初期の書籍であれば、国立国会図書館のサイトで公開されているものが閲読できますよ。
『講孟箚記』上
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116786/1
『講孟箚 ...
薩長同盟について、西郷と交渉したのは桂(このときの名前は木戸準一郎)ですが、京都には一人で出向いたわけではありません。
慶応元年(1868)年の11月中旬、まず薩摩藩の黒田了介(のちの黒田清隆)と土佐浪士の池内蔵太(海援隊メンバー)が、桂を迎えに長州に行きました。
そして12月28日、長州藩領の三田尻港から京都に向けて出発しています。
桂の他の顔ぶれは、品川弥二郎(長州)、三好軍太郎 ...
薩長同盟について、西郷と交渉したのは桂(このときの名前は木戸準一郎)ですが、京都には一人で出向いたわけではありません。
慶応元年(1868)年の11月中旬、まず薩摩藩の黒田了介(のちの黒田清隆)と土佐浪士の池内蔵太(海援隊メンバー)が、桂を迎えに長州に行きました。
そして12月28日、長州藩領の三田尻港から京都に向けて出発しています。
桂の他の顔ぶれは、品川弥二郎(長州)、三好軍太郎 ...
おそらく、久坂が自分の志を箇条書きにした『自警六則』のうち、第一条がそれでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755198/67?viewMode=
〈原文〉
明見苟偸之可愧 審見節義之可貴 而苟温偸飽日且一日 竟老死席蓐上 莫有寸義尺節 是座粘滞乏勇断耳
〈書き下し〉
明かに苟偸の愧づべきを見、審に節義の尊ぶべきを見よ。而して苟温 ...
自分も幕末期の芸州藩の動向に興味があります。
そこで国立国会図書館のサイトで公開されている『広島市史』を調べようと思いつつも、大正時代に編纂された史料だけあって実に読みづらく、根気が続かず遅々として進んでいません…。
質問者様はすでにご存じの書籍かも知れませんが、一応ご紹介をしておきます。
以下が「幕末時代」の章です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/ ...
自分も幕末期の芸州藩の動向に興味があります。
そこで国立国会図書館のサイトで公開されている『広島市史』を調べようと思いつつも、大正時代に編纂された史料だけあって実に読みづらく、根気が続かず遅々として進んでいません…。
質問者様はすでにご存じの書籍かも知れませんが、一応ご紹介をしておきます。
以下が「幕末時代」の章です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/ ...
明治13年、片山平三郎なる翻訳者が『鵞瓈皤兒回島記』(ガリバルスしまめぐり)の邦題で発表したのが、日本に初めて紹介されたものとなるようです。
ただし、ご承知のように『ガリバー旅行記』はたいへんな長編で、このときは第一篇の「リリパット国渡航記」のみの翻訳にとどまっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/896776/1
作品全てが翻訳された ...
明治13年、片山平三郎なる翻訳者が『鵞瓈皤兒回島記』(ガリバルスしまめぐり)の邦題で発表したのが、日本に初めて紹介されたものとなるようです。
ただし、ご承知のように『ガリバー旅行記』はたいへんな長編で、このときは第一篇の「リリパット国渡航記」のみの翻訳にとどまっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/896776/1
作品全てが翻訳された ...
第二帙の神別の項にあるんですよ。
ただし「忌部」ではなく、同音異字の「斎部」となっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879557/89
(右ページの上段、3行目です)
これは『新撰姓氏録』が編纂される以前に、氏族の名が忌部から斎部に改められていたからだそうです。
国立国会図書館のデジタルコレクションで『警視庁史編纂資料. 警察官及消防官ノ服制徽章 他』という刊行物が公開されています。
こちらに、邏卒に官給された制服についての記述があります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1440768/13
「次」のボタンをクリックしてページを進めると、図解が出てきます。
(フルスクリーンにすると読みやすくなりますよ ...
明治に政府によって編纂された、古代から江戸時代までの制度や文物および社会全般の事項を集めた『古事類苑』という官撰百科事典の「姓名部」をご覧ください。
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/seim_1/seim_1_0300.pdf
これによれば、鎮西九党(ちんぜいきゅうとう)と呼ばれた、九州における9つの有力武士団の名称が『書言字考節用集』 ...
どもども、始めてリクエストなるものを頂戴しました。
以前に紹介した、国立国会図書館のデジタルライブラリーで公開中の『史籍雑纂. 苐五』に、コマ番号222の「海西雑記」に続いて、コマ番号227から「行行筆記」も掲載されてますよ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913017/227
明治30年前後に、巌本善治という人物が勝海舟に何度も取材し、聞き語りをまとめたのが『海舟座談』です。
そのなかの明治31年11月10日の項に、天璋院の話があります。
こちらは岩波書店から文庫本が出ています。
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-331001-2
旧仮名使いになりますが、国立国会図書館のデジタル ...
残念ながら、現在は萩の松陰神社のすぐ側に、生家跡を示す石碑が建っているだけです。
http://hagishi.com/search/detail.php?d=100008
吉田稔麿の吉田家は、妹のフサが婿や養子を取って家名を存続させ、昭和50年代まで子孫にあたる方が上記の場所に住んでいたそうです。
昭和13年に刊行された『松陰先生と吉田稔麿』という本に、建物の写真が載っていますので、ご ...
中岡慎太郎の日記は、西海雑記ではなく、海西雑記(かいせいざっき )ですね。
この他にも、行行筆記(ぎょうぎょうひっき)なる日記もあります。
海西雑記および行行筆記の原文であれば、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトで公開されています。
下記URLからどうぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913017/222
①吉田松陰の没後に松下村塾生を同志的に結束させた
②長州藩の尊皇攘夷思想の支柱となる理論を構築した
③藩の枠組みを超えて志士グループの糾合を図った
①
松下村塾四天王とは、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一ですが、この4人が揃って塾で顔を合わせたことはありません。
そもそも入門の時期がバラバラで、例えば入江が塾生になったとき、久坂は江戸に学問修行に出ていました。
正規藩士の子で ...
明治7年に刊行された『義烈回天百首』(ぎれつかいてんひゃくしゅ)という、維新の志士たちの和歌集に載っている挿し絵です。
絵師は吉田稔麿を知っていたわけではなく、空想で描いたものでしょう。
国立国会図書館の近現代デジタルライブラリーで、原本が公開されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873158/40
残念な結論から先に申し上げますと、どうも不明なようです。
ネット上では、根拠や出典が示されていない話が散見されますが、全く信じられませんので、明治という元号制定の経緯が記された『岩倉公実記』の「年號明治ト改元ノ事」を調べてみました。
以下のURLで原文を読むことができます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781064/285
「是に於 ...
吉田松陰という人物は、学者らしくなんでも事細かに記録をつけており、膨大な量の直筆文章が残っています。
野山獄に関連したものも複数あって、最も有名なのが『野山獄囚名録』でしょう。
こちらは国立国会図書館の近現代デジタルライブラリーで、原文を読むことができます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754748/231
返り点が打ってありますので、 ...
この逸話の出典は、いずれも江戸時代の中期以降に書かれた『明良洪範』や『茗話記』ですね。
史料価値としてはせいぜい三級品なので、歴史小説のネタには使われても、まじめに研究している人はいませんから、どこまで事実なのかよく分かりません。
しかし実際の話であってもなくても、石田三成の人物像を端的に表すものとして、含蓄のあるエピソードだと個人的には思っています。
ただ、質問者様の異説については ...
質問者様がおっしっゃているのは、空襲で焼失したのち再建して公開されている、現在の子規庵…なんて話じゃないんですよね?
http://www.shikian.or.jp/
正岡子規が病床から見ていた庭の光景を、当時の図面や写真、子規が書いた日記や書簡などを元に、図上で再現するという試みであれば、東京農業大学の先生方が行なっています。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110 ...
吉川家は、周防国玖珂郡および大島郡の一部で6万石を領有し、岩国の地に城を構えていました。
しかし大名の体裁は整っているのに、明治維新まで毛利家の家臣として扱われたのです。
吉川広家が関ヶ原の合戦時に徳川方に内通したことで、本家である毛利家から怨みを買ったため、正式な大名になれなかった…などと歴史小説には書かれていますが、実際のところはよく分かりません。
広家の子の広正が家督を継いだ時 ...
zuntaroboさんと同じく、東百官(あずまひゃっかん)とか武家百官という、官名を真似た通称だと思います。
左馬之介なんてのは武士のありふれた名前ですが、これも馬寮(めりょう)の次官である「左馬助」の官名を元にしたものです。
ご承知のように、古田織部の古田家は取りつぶされて断絶となっていて、正確な家系や家紋すら分からないほど記録も失われています。
古田織部の官歴について「天正13年(1 ...
他の方もおっしゃっているように、本人が称していたのは「しょうざん」です。
雅号とはペンネームのようなもので、これは漢音で読むのが当たり前だったようです。
象は、漢音では「しょう」、呉音では「ぞう」となります。
山は、漢音では「さん」、呉音では「せん」となります。
象山を「ぞうざん」と読むのは、呉音+漢音のミックスであり、いかにも不自然ですよね。
長野市松代町にある佐久間象山の生家 ...