2 0 0 0 OA 大日本史

著者
源光圀 編
出版者
徳川総子
巻号頁・発行日
vol.第140,141 巻287・289 志, 1907

言及状況

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1735年五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy 大日本史 https://t.co/Qkde0PeMPm に史実性はあるのかな? 桓武天皇行宮近くで長屋王宅も近く標高は室池と同じ。氷が本当に取れていたら便利な地理ではあるけど https://t.co/SLYS4EdsPt 。椿井文書が五畿内志をネタに氷室郷としたがもし史実でも、後発で。 https://t.co/SaLn6O4Xck
1735年『五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy 』や『大日本史 https://t.co/Qkde0PeMPm 』でなぜか氷室と書かれた傍示村尊延寺村杉村を結んだら真ん中に穂谷村が来るのは、地理がそうだからで穂谷村が意図して真ん中に来たわけじゃなく https://t.co/Ua2qfXWO1I 。 でも椿井文書論文は穂谷村の意図と。 https://t.co/kQ9vq6yrOd
そもそも氷室云々と書いた 1735年『五畿内志』 https://t.co/ffMC9vsLot や水戸藩の『大日本史』 https://t.co/bRH5tKBAHd ではなく、穂谷村住民が椿井政隆(1770-1837)へ椿井文書で氷室郷と書かせたと責めるって、 学者達の仕事の責任をそれを信じた村人に負わせる奇妙な論文よね。 大日本史は? https://t.co/dhIscaFurE
穂谷村他の氷室は 1735『五畿内志』 https://t.co/VwyZLQBBJy 1697-1906『大日本史』 https://t.co/Qkde0PeMPm にも書いてあるから穂谷村がそれをヤターと思っても彼等のせいじゃないのでは? 書かれたのは椿井文書の椿井政隆(1770-1837)が産まれる前だし。 https://t.co/Jy2w9YGqbU
光圀公の大日本史・巻之二百八十八には「有氷室、天長仲、置氷室三宇於本國、即此、日本紀略○址在傍示杉尊延寺三村 https://t.co/Qkde0PeMPm 」ともあるけど、 椿井文書の椿井政隆は大日本史を真似しただけ?それとも逆? https://t.co/dWNnI691uE
光圀公の大日本史・巻之二百八十八 https://t.co/Qkde0PeMPm では、王昶 (曹魏)の末裔・山田連は交野郡か。 山田敬直の血筋の山田直竹議員の先祖が天正7年(1579年)以前に交野郡舟橋で交野神社神職と京都府議会歴代議員録685頁にあるけど、 中世の古地図では船橋に交野神社や牛頭天王社が大きく描かれ

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