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1955年「即ち考古學上この土地を王仁墳と推定すべき資料の一をも、こゝに見出していないのはまことに残念である。」片山長三「王仁塚」『懐徳』第26号、懐徳堂堂友會、1955年、 73-79頁 https://t.co/BDhs6OtLGS (片山は王仁墓近くの旧長尾村へ旧星田村から婿養子にはいってる) 椿井文書メモ
並河誠所が和田寺の記録を見て云々という記録が無いと述べていたのは馬部さんで、 この話の元ネタは内藤湖南博士達が村長から聴いたお話し。 椿井文書では片山の1955年論文には触れられていない。 https://t.co/6erGOWeQ57 https://t.co/eT4NcXgHOl
@japacomix 『発進!! タイムマシンひらかた号』の伝博士王仁墓の部分で出てくるのは 古事記 https://t.co/BKAxwda6GD 貝原好古「 八幡宮本紀」 https://t.co/so8AxqqKHF 河内志 https://t.co/ffMC9vsLot 片山長三「王仁塚」懐徳(26),1955 https://t.co/6erGOWeQ57 で、 #椿井文書
片山長三は1955年『懐徳』で『王仁墳廟来朝記』を並河が見て五畿内志を書いた説を出典無く書く。 結論は王仁塚が王仁の墓というエビデンスは無しだった https://t.co/otDlXziHyw 。 もし可能性ありと書いていたら王仁塚は荒れ放題にはならなかったのかも。 #椿井文書 https://t.co/S1YnTSacdL
並河誠所は和田寺道俊の「王仁墳廟来朝紀」を見て藤阪の於爾(オニ)墓を王仁の墓と比定したと片山長三は書いたけど #椿井文書 https://t.co/otDlXz16GY 、

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