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OA
真木和泉守遺文
著者
真木保臣先生顕彰会 編
出版者
伯爵有馬家修史所
巻号頁・発行日
1913
言及状況
変動(ピーク前後)
変動(月別)
分布
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@bunkajin_kobe https://t.co/hpMsUYQZ9t 大正2年のものですが『真木和泉守遺文』が見つかりました。こちらは真木が綴った建白書や日記、生前の著作が中心ですが、巻末には数十ページにわたって詩・歌集が載せられています。
@ho7na 小河一敏の『王政復古義挙録』によれば「淵上丹次」は真木らとともに薩摩藩邸入りしており、そこから角照三郎と長州に向かったようです。一緒に亡命したが袂を分かったと吉田玄蕃宛の真木が述べているのはそのためでしょう。 https://t.co/EHCpThI6zK
@ho7na 勉強しましょう。渕上家の動向は真木の南僊日録で分かります。訥庵の門下に入った時期も特定出来るほどです。やはり真木の一番弟子ですから真木の書いたものにあたるのが早い。山梔窩に父、妻、兄、弟が祀られています。 https://t.co/SRJyTfCwon
@busyo3 佐々木さんが上げた典拠は推測出来ます。徳川慶喜公伝二巻からでしょう。しかしその原典は不明です。 https://t.co/vs8Vqwo8Ub 金剛山に関しては所謂「義挙三策」の中にそのような記述が見られますが、これは文久元年のものです。 https://t.co/SlysZKlOwQ
これは確かにそうで、真木和泉は文久の改革に始まる「公武御一和」に同調しているんですよね。久光らの朝廷への政治参与こそが公武合体だと。また同時に一橋慶喜、松平春嶽の将軍後見職、政事総裁職への就任を高く評価しています。これが文久三年三月のことです。 https://t.co/HFZl2voxrK
真木日記の七月七日には、秋月悌次郎が出てきています。ここで佐忠の解説が入ります。「前日保臣の寓に来たり、会公の東下を止めん事を論ぜし者なり」とありますが、日記を見返しても前日秋月が来た様子はありません。これは佐忠の推測なのではないかとも思えます。 https://t.co/E33BJfPeRn
『真木和泉守遺文』所収の「文久癸亥日記」には真木和泉の息子真木佐忠による補注があります。こちらもバイアスがかかったものですが、真木が朝命に言及し、こうもころころ変わるのは嘆かわしい、会津を追うのは容易いが、それには薩摩の協力がいる云々と言ったとあります。 https://t.co/e962ZbO5j2
2 2 https://t.co/iZsKR7mr33
1 1 https://t.co/9sgOS7PCAU
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