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国立国会図書館が削除した https://t.co/5oYMgjWXMl 1792年『淡海木間攫』(近江史料シリーズ 7)も世継村南の朝妻村東に星川稚宮王の墳ありと書く。 そこには、息長川も書かれている。 椿井文書メモ https://t.co/wQSrdpH1oH
『淡海木間攫(1792)』には息長川が出てくる https://t.co/wSFfTqMz20 し 1587年以前の古文書も無い 馬部隆弘「世継神社縁起之事……椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており、「息長川」の名称も登場することから、椿井文書とみて間違いない」P.185,椿井文書,中公新書 https://t.co/zpj4TwERO3
淡海温故録(1684-88頃)には、蛭子神社や世継神社は出て来ない https://t.co/b9nWMSijz6 。 淡海木間攫(1792)では世継村に蛭子大明神と書かれてるから、御祭神は蛭子大明神か https://t.co/5oYMgkezaV 椿井文書メモ https://t.co/KKXXkLREoH
4.『淡海木間攫』(1792)は「朝妻村の東・星川稚宮王墳」と書いている https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ
もよ 淡海木間攫(※1792) 「朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長之墳、この南に有と云。又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云。」P.27 https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/lqSuucnpkc
この墳と1913年坂田郡志がいうかつて別の場所にあった吾嬬石 https://t.co/ic03jCHn9W が世継神社? 「淡海木間攫(※1792) 朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長之墳、この南に有と云。又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云。」P.27 https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/JS5cbL8UYB
でも『淡海木間攫(1792)』に息長川は出てくるわけで,P.4近江史料シリーズ7 https://t.co/wSFfTqMz20 馬部隆弘「世継神社縁起之事……椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており、「息長川」の名称も登場することから、椿井文書とみて間違いない」P.185,椿井文書,中公新書 https://t.co/WaT2sEflzu
『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl は「朝妻村の東・星川稚宮王墳」と書くけど、 『坂田郡志』(の蛭子神社から東南2町の塚間路の七夕石 https://t.co/ic03jCHn9W と星川稚宮王墳は天野川越しで対面してたのかな? 椿井文書メモ https://t.co/kyNBy8MVJL
『世継神社縁起之事』は蛭子神社ご祭神は興福寺仁秀が追善した 星河稚宮皇子と死後に産まれたはずの姪の朝嬬皇女と書いていて、七夕石については書いてない。 『淡海木間攫』(1792)は「朝妻村の東・星川稚宮王墳」と書いている https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/1YKTV2tOnn
世継(蛭子)神社は『近江輿地志略(1733)』によれば祭神不明 https://t.co/8JpvLGfD5X 、 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl では蛭子大明神。 椿井文書メモ https://t.co/PoG76MjCjP
『世継神社縁起之叓』はあくまで蛭子(世継)神社のご祭神の縁起を書いてるだけで 『坂田郡志』 https://t.co/JAp9Csg92n や 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl の (朝妻村の東)星川稚宮王墳や吾妻(俗に七夕石)については全然書いてないのに、 混同してるのは訂正すべき 椿井文書メモ
「世継神社縁起之叓」に出てくる星河稚宮皇子は 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl にて朝妻村の東・星川稚宮王墳という記載がある。 坂田郡志では朝妻神社星川墓の対象か?と考察されている。 https://t.co/JAp9Csg92n 椿井文書の椿井政隆は1770年生まれ。 https://t.co/Os2zuCrMcz
『世継神社縁起之事』にて蛭子(世継)神社ご祭神と書かれた 星河稚宮皇子の名前は 『淡海木間攫』(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl にて、朝妻村東に墳があるとして登場するけど、 天野川対岸の世継村蛭子神社の御祭神とは書かれていない。 椿井文書メモ
淮南子の牽牛は彦星=河鼓でなく牛宿 https://t.co/gSUPSwmgPv で磯村磯崎神社日本武尊、 淡海木間攫(1792) https://t.co/5oYMgjWXMl の朝妻村の東・星川稚宮王墳と 坂田郡志https://t.co/JAp9Csg92n の朝妻神社2塔=河鼓三星 天ノ川対岸世継蛭子神社吾妻石(七夕石)が弟橘媛? https://t.co/BjuZS6CIEi
淡海木間攫(1792年) https://t.co/5oYMgjWXMl の 朝妻村の東・星川稚宮王の墳や 朝妻の南の息長墳等には言及していない。 七夕の際に男女村人が恋愛願いをかける行事があるという点は『世継神社縁起之事』も『坂田郡志(1913)』も書いているけど 興福寺僧侶がそう思ったとしか書いてない 椿井文書メモ
淡海木間攫 https://t.co/5oYMgjWXMl (1792 https://t.co/LX1KjqBTYf ) に 朝妻村の東・星川稚宮王の墳は出てくる。 馬部先生は滋賀県米原市蛭子神社「世継神社縁起之事」を椿井文書と鑑定したけど、そこに出てくる星川稚宮皇子は古記録にもあるということになるね。
朝妻神社は朝妻筑摩郷。筑摩御厨。 坂田郡志の星川墓 https://t.co/JAp9Csg92n は御膳司の星川建日子(大雀臣 https://t.co/ItxlbIrGKj )で、 淡海木間攫の朝妻村の東・星川稚宮王の墳 https://t.co/5oYMgjWXMl は星川違い? 椿井文書メモ
延久二年(1070年)廃止とはいえ、筑摩御厨があった地名の筑摩村の方が枝郷って、なんでなんだろう? 淡海木間攫「中島村 当村は朝妻の枝郷なり…… 筑摩村 当村も朝妻の枝郷なり」P.27,近江史料シリーズ. 7 https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/mJSmyThXsc
淡海木間攫(AD1792年)「朝妻村 枝郷 筑摩村・中島村」P.26,近江史料シリーズ. 7 https://t.co/5oYMgjWXMl 椿井文書メモ https://t.co/QH9oNGqClY
淡海木間攫(1792年) https://t.co/5oYMgjWXMl に「蛭子大明神」 https://t.co/siqBX2bXwX とあるので、御祭神不詳は変だよね 「それ以前の古文書で神社は祭神不詳とされ、七夕に関する記述がないことも証拠とする。」 https://t.co/DySlGjhgPY 椿井文書メモ
1792年淡海木間攫に「朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長墳、この南に有と云、又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云」近江史料シリーズ 7,滋賀県地方史研究家連絡会,滋賀県立図書館,1990 https://t.co/wSFfTqMz20 と書かれているので、椿井文書かどうか不明のようです。 https://t.co/RKRYiz53oK
1792年「朝妻川、又息長川とも云よし。今は天の川と云。又、息長墳、この南に有と云、又、星川稚宮王の墳は古朝妻村の東にありしと云」"淡海国木間攫巻八"近江史料シリーズ 7,滋賀県地方史研究家連絡会,滋賀県立図書館,1990 https://t.co/5oYMgjWXMl とあるね。 https://t.co/In21Gw7PO4 椿井文書メモ https://t.co/jlFiUhwIiK
P.25-30,"淡海国木間攫巻八"近江史料シリーズ 7,滋賀県地方史研究家連絡会 編,滋賀県立図書館,1990 https://t.co/5oYMgjWXMl 息長墳は明治七年村居田古墳だと比定されてるけどあってるのかな? https://t.co/2AmqqfL0Mf 朝妻神社の宝篋印塔が淡海木間攫の星川稚宮王の墳? 椿井文書メモ

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