著者
弓倉 弘年
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Maritime History of Kumano : A Comprehensive Study of Koyama Family Papers
巻号頁・発行日
vol.29, pp.105-114, 2021-03-26

中世、熊野水軍は海を舞台に活発に活動したが、その範囲は国内に留まらず、中国大陸にまで及んだことで知られている。このような熊野水軍=紀南の水軍領主が、南北朝から戦国期にかけて、室町幕府や守護とどのような関係を結び、どのように活動していたのかを検討した。 南北朝の初め、紀南の水軍領主の多くは、南朝に与して活動していた。これは、南北朝動乱の初期に、太平洋の交通路を南朝方が掌握していたからと見られる。室町幕府が各地の南朝勢力を追討するとともに、紀南の水軍領主も幕府方につく者が多くなっていく。ただし、一部は南北朝の動乱が終わっても、室町幕府に従わなかった。そのような中で、安宅氏・周参見氏は幕府直属の国人となったが、小山氏は守護被官の国人となった。これは、室町幕府に帰参した時期が左右していると見られる。 十五世紀になると、紀南の水軍領主は幕府・守護体制下で自由な活動は見られなくなる。十五世紀半ば以降、守護畠山氏の家督紛争が激化すると、小山氏・安宅氏等紀南の水軍領主は、正守護の下で活動することが多かった。しかし、明応の政変で将軍権力が分裂すると、それぞれの立場で活動するようになったが、幕府・守護体制の枠組みから外れるものではなかった。 十六世紀後半になると、守護関係の文書が「小山家文書」でほとんど見られなくなった。これは室町幕府が中絶することが影響していると見られる。この頃から熊野水軍の自由な活動が見られるようになり、一部は関東の後北条氏の家臣となっている。紀南の水軍領主は、南北朝期からの水軍としての本質を保ちながら、戦国期を迎えたのであった。

言及状況

外部データベース (ISBN)

Twitter (1 users, 1 posts, 6 favorites)

弓倉弘年「紀伊守護と紀南の水軍領主」https://t.co/iExBnh9cfe 畠山尚順の改名時期に関連して。三好一族となった淡路安宅氏が著名ですが、こちらではその本家・熊野水軍の安宅氏や小山氏が、南北朝期から戦国期にかけて国人領主化し、紀伊守護・畠山氏に取り込まれるに至った経緯が説明されています。

収集済み URL リスト