k-holy (@holy_sengoku)

投稿一覧(最新100件)

この辺りの話は、川上新一郎「斯道文庫蔵『古今和歌集〔長享三年講釈〕』(零本) 解題と翻刻」に拠ります。波々伯部盛郷はこの長享3年の古今和歌集講釈に関わったとされ、その略歴も紹介されています。 https://t.co/Nb3AidYaLe

59 3 0 0 OA 雑史集

大坂冬の陣での振る舞いで悪評を残してしまった本家の南条元忠に対して、小鴨元清は他家に転出してからも勇将として名を残している点が推薦ポイントです! 『老人雑話』にも、加藤清正の宇土城攻めの逸話に「南条玄沢」として登場しています。 https://t.co/Eq4vVhMcEx

9 1 0 0 IR 自牧宗湛(上)

RT @holy_sengoku: 浦上則宗が有馬温泉での湯治中に鼓ヶ滝で叫んだ話、『蔭涼軒日録』文正元年閏二月八日条からのようです。こちらの論文『自牧宗湛(上)』史料85にて該当箇所が読めました。「俗曰鼓瀑高声叫。即瀑水急落云。仍浦上美作守往于瀑而再三叫。人皆笑之。」休暇中の…

19 1 0 0 OA 日本伝説叢書

Webで確認できる典拠としては、大正8年『日本伝説叢書』下総の巻「早器居士の墓(海上郡本銚子町飯沼)」という記事を、NDLデジタルコレクションで読む事ができました。当時から「滝川様」と呼ばれていたものの、三好長慶の墓という説もあったようです。 https://t.co/X0vXusj3tp
赤松政則と浦上則宗の関係は、水野恭一郎『赤松被官浦上氏についての一考察―浦上則宗を中心に―』で存分に語られています。40年前に発表されたものですが、守護代とはなんぞや、その「下剋上」に興味ある方には読んでいただきたい論文。(なお、則宗は守護代ではありません) https://t.co/8gP2x4rJSg

7 0 0 0 OA 嗚呼古英雄

池元半之助『嗚呼古英雄』(明治32年9月)は、戦前の人物評価を測る上で参考になります。山中鹿介幸盛を評して曰く「彼れは将にあらず、勇敢なる兵器なり。尼子晴久が部下四万人中、勇士を選みて十人を得たり。幸盛は実に、其が筆頭なりしなり。」勇敢なる兵器なり!!これ好きhttps://t.co/PDrjJkZ30w
『奉行人奉書にみる細川京兆家の政治姿勢』は何度も読み返している好きな論文ですが、"幕府の裁定が覆りそうになって初めて受益者が京兆家に追認を求めている"と、まさにそういう内容です。 https://t.co/iFJxbePJft
たぶん右京大夫政元さんからも解説されていたかと思いますが、左衛門佐は元々足利一門のみに許された官途だったそうで、赤松則実がその経緯と感激を書き残した史料が、こちらの藤岡琢也『「赤松家風条々事」の再検討』で紹介されていました。 https://t.co/rqgxnhxvF6
馬部隆弘『江口合戦への道程』河原林オタ(?)必読の内容でした!三好長慶が離反した理由の一つに挙げられる、牢人であった瓦林対馬守春信が細川晴元に起用された件が採り上げられ、天文の乱以前まで遡って一連の動向を追いつつ、対馬守正頼からの系譜も検討されています。 https://t.co/Ny5CkA5eHx

5 0 0 0 OA 続群書類従

ちなみに伊勢貞助は永禄の変の際、足利将軍家重代の鎧・御小袖の唐櫃を将軍御所から禁中に運び出した人です。右京亮→加賀守を名乗った伊勢貞遠や伊勢貞満の後継者に当たり、伊勢一門の中では結構なベテランで、『伊勢貞助雑記』の著者。ここで読めます。 https://t.co/3qo7ucEEF3
安藤 弥『戦国期本願寺「教団」の形成(研究ノート)』蓮如から実如期にかけての本願寺の動向について、入門となりそうな内容。 https://t.co/ZeG9NUMGIN

4 0 0 0 OA 国訳禅宗叢書

管領といえば、そろそろ大河ドラマ化も噂されている、細川高国! ぜひ読んでいただきたいのが、『見桃録』に収録されている「三友院殿前右京桓松岳桓公大居士賛」です。あのキュートな肖像画の後ろに書いてあるやつですね。こちらに読み下し文あり。 #室町幕府管領総選挙 https://t.co/54UHGY7pXA
RT @washou3956: CiNii 論文 -  戦国期における鷹狩 : 足利将軍家・細川京兆家・公家を中心として https://t.co/k67VPQuzFT #CiNii
木下聡先生の『室町幕府外様衆の基礎的研究』、外様衆の山名氏は全然咀嚼できてなかった…。因幡気多郡の鹿野氏(志加奴氏)は山名一族の可能性が高いのかな。史料に見えるのは「山名右京亮政久」までで、山名政泰、山名材泰は系図の記載のみのようだけど。 https://t.co/A4Bgh55Rof
RT @SquareDeerHorn: @meiou1493 ありがとうございます! その線で論文見返した所、木下聡先生の論文に「山名民部少輔材氏」という人物がいました 「材」が義稙(義材)の偏諱と考えらえる点や、同じ外様衆の宍道秀藤が同列にある点から見ても合点が行きます 室…
『下つふさ集』から窺える伊勢貞仍の動きについては、川岡勉先生の『戦国期但馬の守護と領主』が詳しいです。貞仍が義尹の命で山陰地域の守護所を訪ねて但馬に立ち寄った件と、当時の山名氏に起きていた内乱について解説されています。 https://t.co/6flgddM4S5

4 0 0 0 OA 国訳禅宗叢書

奈良元吉は、鄧林宗棟の元で出家して「宗繁」と名乗った半僧半俗の武士でしたが、大永5年夏には大休宗休の元で剃髪し「栄仲」の道号を授かったようです。 https://t.co/JfwymCkdnu

4 0 0 0 OA 国訳禅宗叢書

『見桃録』(円満本光国師見桃録)は永正13年に妙心寺に入ったという大休宗休の語録で、NDLで公開されている『国訳禅宗叢書 第10巻』にその読み下し文が収録されていました。これが、なかなか興味深い内容でして。 https://t.co/XaSsdWnXJF
なお、この性説とは『南方御退治条々』に「為神璽出現計略、小寺藤兵衛入道性説、和州罷下、小河中務少輔相共、種々廻計略」とある、神璽奪還作戦の中心となった人物です。参考論文はこちら、水野恭一郎『赤松被官浦上氏についての一考察ーー浦上則宗を中心にーー』 https://t.co/8gP2x4rJSg
こちらの論文でも指摘されていますが、『宇喜多能家画像賛』がこの件について「永正十五年、紀村宗、以事入三石塁、群下有聴氷、不快一焉、能家寧為牛後卒、不作他方臣、誓帰乎村宗、細川今京兆高国、投書感忠議至誠矣」と、高国の間接的介入を記していることも重要でしょう。 https://t.co/iRrL8WsPTW
前掲の論文でも触れられている、湯川敏治『史料紹介 『守光公記』に見る播磨国の禁裏料所について―赤松政則後室、洞松院尼発給の印判状も絡めて―』も、先行研究の概要を知る上で、参考になります。 https://t.co/yujje9WYOl
洞松院に関する論文、野田泰三『戦国期播磨における大名家妻室について― 赤松政則後室洞松院を中心に―』には印判状8点を掲載。洞松院が義村の裁許に従わなかった事例として、得平氏の所領を押領していた件を挙げつつも、その執政は「義村成人までの中継ぎ」と慎重な評価。 https://t.co/M083xV5tXB
なんか中村一氏と蛸で盛り上がってる(?)みたいなので、蛸地蔵伝承の成立過程を考察された論文を紹介しておきますね。(なおこちらの伝承では岸和田城主は「松浦肥前守」になっています) https://t.co/0umYTNitun
なお、毛利次郎の乱における山名七郎を豊久に比定する説はこちらの論文、片岡秀樹『文明・明応期の但馬の争乱についてー山名政豊父子と垣屋氏ー』に書かれているようです。(戎光祥出版『シリーズ・中世西国武士の研究5 山陰山名氏』に収録) https://t.co/4AY8sJHzsT
なお論文としてはズバリ、家永遵嗣先生の『細川政元の生母桂昌了久』がありました。多分、Web検索から推測できる程度の内容はこちらでも網羅されているとは思いますが…Webでは読めません。 https://t.co/M13uQpE0v3
ふと「松田豊前守」で本文検索してみたら、少々古いですが面白そうな論文がありました。治安悪化に伴い大炊御門家や転法輪三条家、中御門家といった公卿が移住していたという「橘辻子」にて、永正3年7月、侍所開闔・松田豊前守頼亮による焼討未遂事件(?)があったそうで。 https://t.co/Ynuo0krhHU
あと、湯川敏治先生の論文はCiNiiでいくつか読めますが、細川氏一族と近衛家の交流について触れられているものとして、鶴崎裕雄先生と共著のこちらの論文があります。第二節「細川氏支配下の摂津」にて。 https://t.co/mPj5cK5FSD
新見氏の在京活動についてはズバリの論文、吉永隆記『国人領主の在京活動―備中国新見氏と御蔵職―』がありました。『備中国新見庄をめぐる「国人」―多治部氏と新見氏―』で新見氏部分を執筆されている方ですね。 https://t.co/dl5kYx2OTN
こちらの論文の引用史料、文正元年9月の「新見次郎三郎賢直謹言上」で新見氏が幕府に訴えている地頭職への復帰、その中で挙げられている「普広院殿様御感之御書」永享11年閏正月23日付で細川持賢に宛てられた将軍義教御内書案は、まさにその状況を示しているようですね。 https://t.co/QhrbBEaS3v
こちらの論文によると、延徳年間に比定されている書状案(動画でも引用されていたものですね)に、備中在国の京兆家被官として「新見与次郎」が見えることや、新見国経が明応10年に新見庄領家方の代官に就任したのも、政元の後援を受けてのことと推測されていますね。 https://t.co/QhrbBEaS3v
RT @pc18_: 近衛さんちのおうちについて調べてたら、永禄の変後の義輝様正室について書いてあってしんみりしてしまった… https://t.co/MNNKKhxM5i (p17 (E)稙家女にあたる御霊殿)
上記論文で参照されていた、中西裕樹先生の論文。延徳年間というと、小畠七郎貞明が丹波国人一揆で討死して以後の動向ということになるのでしょうか。新九郎光明に至るまでの系譜の手掛かりが得られそう?Webでは非公開ですが、気になります。 https://t.co/xHGGwlfmnW
RT @washou3956: PDF公開。石原比伊呂「足利義稙にとっての笙と義満先例:将軍権威再建への試行錯誤」(『聖心女子大学論叢』136、2020年12月)足利将軍家の故実のひとつ「笙」(雅楽)と足利義稙との関係から、義稙の政治姿勢の変化を読み取ろうとする論文。https…
細川持賢が京兆家を主導した頃、嘉吉の乱後の幕府-地域権力間交渉って、若狭・安芸武田氏の動向を調べる中で、すごく気になったところなので、論文を読んだ方がいいかな。掲載誌の『ヒストリア』266号はバックナンバーがあるみたいだし。 https://t.co/U5Tj4Pj74Y
@SquareDeerHorn この件の経緯については、斎藤夏来『画像賛の語る宇喜多能家と戦国政治史』が参考になりました。義興は在国の身でありながら、争いを調停する姿勢を示しているとのこと。ただ、具体的に何かしたという話では無さそうですが。 https://t.co/EG8f0hP4lR
@shima_126 浦上祐宗については、水野恭一郎先生のこちらの論文以来、安富元家の子息という解釈で確定的な状況だと思います。『弘法寺文書』の古系図と『蔭凉軒日録』の記述内容の一致が決め手となっているようです。 https://t.co/8gP2x4rJSg
鶴崎裕雄『寛正四年三月廿七日賦何船連歌と管領細川勝元』自分は和歌の鑑賞力ゼロですが、鶴崎先生の「細川千句」関連論文は京兆家を学ぶ上で参考になることが多いです。 https://t.co/rzufSozUeY
真言宗ですが、将軍家と醍醐寺三宝院の関係でも、こちらの論文に興味深い話がありました。明応の政で義材実弟の門主周台が京都から脱出するに及び、「門主不在となった三宝院には九条家出身で細川政元の猶子の入室が決定されたが実現せず」とのこと。これ後の澄之ですよね。 https://t.co/stFcnM0Yhh
こちらの論文には、延徳4年正月、室町殿に近侍する「御前給仕」の補任に際して、蔭凉軒主から披露された書立を見た将軍義材が、天龍寺御前給仕の喝食が細川被官の一族で占められることに不信感を抱いたとあります。義材は近江に在陣中、政元は畠山基家と接近していた時期。 https://t.co/zLKRe2XKMl
これは、相国寺をはじめとする禅院に一族や内衆から喝食を多く輩出していたことと併せて考察したいところです。こちらの論文では、梅雲承意が師僧として「相国寺の意を体し、横川などの助言を得ながら、政元の意に叶うべく、艶詞を製して喝食を厚遇した」と推測されています。 https://t.co/31slbVaoEg
京兆家当主が「管領」の職に依ることなく幕政に多大な影響を及ぼしたことは、その形骸化と裏表の関係と考えますが、京兆家側の変化の経緯については、馬部隆弘先生の『奉行人奉書にみる細川京兆家の政治姿勢 : 勝元期から政元期にかけてを中心に』が参考になります。 https://t.co/iFJxbePJft
でも、この論文に出会えたので無駄じゃなかった。石田出『十五~十六世紀前半における室町幕府祈祷体制―醍醐寺三宝院の動向を中心に―』は、周台の三宝院門主への就任の経緯や明応の政変での影響について詳しく書かれています。註では『五八代記』が伝える周台の経歴も紹介。 https://t.co/stFcnM0Yhh
なお、こちらの論文では葦洲等縁はじめ、細川政元と相国寺の関係について述べられているのですが、游初軒には葦洲等縁の弟子・東叔等元が在籍しており、この人は何と「細川政元息」とのこと。政元を史上初の魔法使いを目指した童貞と妄想していた自分としては衝撃ですが…。 https://t.co/31slbVaoEg
ズバリの論文はWebで読めないだけでした。(まさかの論文名でヒット。全文検索しか確認していませんでした…)小池辰典『明応年間における足利義澄「政権」の構造に関する一考察 : 山内就綱の六角惣領拝命・近江入部から』ですが、読めない!掲載誌も在庫なしとのこと。 https://t.co/wF2Qu0O5Gz
舘鼻誠『石塔から読み解く理窓院と安芸宍戸家』理想院に残る石塔群の推定年代から、惣領家の駿河守系宍戸家に関わるものと考察、文献史料と合わせて宍戸家の歴史を読み解く内容です。宍戸元家による惣領家簒奪の実態、ここにも大内と細川の代理戦争が展開されてたんですね…。 https://t.co/qNzCBt55jN
嘉吉の乱から応仁・文明の乱終結に至るまでの幕府からの軍勢催促状については、吉田賢司先生の論文にリストがあります。年月日と宛所だけでなく、宛所の地位、動員地域、攻撃対象(発向地域)、特記指示事項(副状の内容)、難渋しているかどうかと、分類項目も興味深いです。 https://t.co/asBaNDYrKs
ちなみに山内就綱の動向、義尚期の六角討伐から将軍家分裂期まで尾を引いた六角氏と幕府の微妙な関係、それを一代で大きく変えた六角定頼の功績を理解する上で、重要に感じています。スバリの論文は見つかりませんが、伊庭の乱を扱ったこちらの論文で背景を掴めます。 https://t.co/EHBMwSUQQv
伊勢に所領を持つ奉公衆に朝倉賢茂という人がいるらしく、これも漠然と細川典厩家からの偏諱として挙げられています。Webで検索してこの論文がヒットしたけど、いつの時代の人かもよく分からない…。 https://t.co/sy0L6z62er
@yada_gaito ただ、個人的な憶測ですけれども、赤松家の元にいた亀王丸の上洛に飯川国資が大きな役割を果たしたのでは?という疑問から、国資と高国の関係はとても気になるところです。こちらの論文によれば、両者は明応9年時点で将軍義高の元で同席していたようです。 https://t.co/DnnQBc8ehj
こちらの論文によると、杉原下総守盛平は明応4年時点では足利義材により所領の備後国木梨荘を闕所にされているものの、西国下向に供奉した四番衆の連署状に加判しており、後に再び合流したと推測されています。それが、先の奉書「杉原下総守為御敵同意」に繋がるわけですね。 https://t.co/r5r9wnvmdp
@yada_gaito こちらの論文では「国資(国弘と改名カ)は享禄三年頃出家し「以福」と名乗り、天文初年頃に没したと推測される」とありますね。まさに、大永8年5月22日条に「飯川山城国弘」とあることがその根拠のようです。 https://t.co/cFb62Z58BC
こちらも「飯川山城守国資」で検索して見つけた論文。CiNiiはリンクが誤っていたのでURLは大学のリポジトリの方で。20年以上前の論文ですが、明応9年2月10日、将軍義澄(当時は義高)とその側近たちの北野社での歌詠の記録について書かれています。 https://t.co/DnnQBc8ehj
@mallioend 博士論文の要旨でしたらWebでも読めますので、そちらで概要をつかめます。素人的には概要だけでも十分お腹一杯になれる感じです。 https://t.co/tCjKgGErtC
下の要旨より「近衛尚通は、京都と近衛家を守るために慶寿院を桑実寺にいる将軍義晴に嫁がせ、義晴に早期京都帰還を促そうと考えた。」「この絵巻は、京都を守ろうとした義晴・慶寿院夫妻のスタートなのである。」 https://t.co/cFb62Z58BC
「飯川山城守国資」で検索していて、小谷量子先生の慶寿院周辺についての新しい論文が公開されていたことに気付きました。上下二部になってますが、こちら上の第一節「桑実寺縁起絵巻』制作時の政治状況」では、大永6年からの情勢が分かりやすくまとめられていました。 https://t.co/Akv98PIQ8E

15 0 0 0 OA 故実叢書

RT @Gohshi77: 先日、国会図書館デジタルコレクションで https://t.co/uKAWMdFazx 尊卑分脈の備中伊勢氏の系図を眺めていたところ、 備中守盛定の子の盛時の仮名が”八郎”になっていたので 「ん?誤記かな?」と思っていたんですが、、、 https:/…
細川高国が犬追物の再興に熱心だった件、政元期から京兆家が犬追物を盛んに興行していたこともありますが、個人的には、高国が師匠・小笠原尚清の日記と共に小笠原氏の秘伝を継承しており、幼少の稙盛を後見する立場だったことも大きな要因と考えます。こちらの論文を参照。 https://t.co/VH4IZ1MzBl
また、小笠原元宗の子息と思われる刑部少輔(八郎)光清は、永正12年12月23日付の大友義長条々に「大内高広、小笠原光清、不慮ニ在国候、外聞実儀候之間、別而可為丁寧之事」とあり、大内高広(義興の兄弟)と共に大友氏の客将となっていたようです。こちらの論文を参照。 https://t.co/JVgjsqYkyW
小笠原刑部少輔家と大友氏の関係については、こちらの論文に詳しいです。小笠原元宗は永正4年4月にも、大友氏が催した犬追物で検見を務めていたようで。なお、小笠原刑部少輔家は、義澄期の文亀2年3月に嫡流・備前守家の小笠原尚清が急死した後、代わって台頭した庶流家です。 https://t.co/bMhrxu4wKE
完全に乗り遅れてますが、朝倉氏が「名門」なのかどうかという話。まず、室町幕府創設期以来の大名の家格ではないのは周知の通りですが、英林孝景の下剋上で越前一国を支配する守護大名(戦国大名?)になったという認識も、たぶん誤り。こちらの論文が参考になります。 https://t.co/sy7kxDjxmy

12 0 0 0 OA 耳比磨利帖

RT @shima_126: 今日ぼけーっとしてたらたぶんこれまでの三好氏研究では触れられたことがない(戦国遺文でも自治体史でもたぶん未収)文書を見つけたんですけど、これですhttps://t.co/MPXIBjpRIw
堺北荘代官としての香西之長に言及した論文がありました。北荘内に設置された率分関の警固役として、領主の香西之長が補任されたとのこと。本所は万里小路家、代官職は勝元の母・阿茶子女で、得分は両者で折半されたが、警固役はそれぞれから5分の1を得る契約だったとか。 https://t.co/riP2NHOctA
細川駿河守家の系譜については、こちらの木下聡先生の論文で少し解説されています。尹賢の後、駿河守家は弟が継いだとのこと。この弟が、義稙期や義晴期の御供衆に見える「細川駿河守」、大永から享禄頃の「細川駿河入道宗寅」に当たるようです。 https://t.co/u0aCtGcZlK
かつて香西元長は堺北荘の代官職を得ていましたので、晴元期の香西元成がその後を継いでいた可能性があります。また、こちらの論文によると、天文5年11月には本願寺が「堺香西」およびその配下の「堺北荘政所」西山氏と音信しているとのこと。かなり早い時期ですね。 https://t.co/ecDH3KAnOm
将軍義稙贔屓な僕としては、細川澄賢といえば、永正18年4月3日に藤林氏に宛てた軍勢催促状が熱いです。淡路出奔中の将軍義稙が聡明殿(晴元)の供奉で近いうちに上洛するぞって内容で、当時の澄賢の地位が窺えるもの。こちらの論文史料9に、画像と翻刻が掲載されています。 https://t.co/LOLcBIzP6N
『麒麟がくる』で近衛前久に興味を持った方、ぜひその勢いでこちらの論文もどうぞ。前久が著した鷹書で歌書としても流布した『鷹百首』の鷹詞に関する注記において、最も多く引用されているのが、将軍義晴の管領を務めた細川高国による武家故実書『諸木抄』だそうです。 https://t.co/VH4IZ1MzBl
有馬元家の参考論文です。 https://t.co/prF87JfDsf

2 0 0 0 OA 淡路常盤草

なお『淡路常磐草』は仲野安雄という人が書き、明治20年に出版されたもののようですが、NDLで閲覧可能でした。こちらが該当箇所です。 https://t.co/J8ax5xVNIG
細川高国と小笠原稙盛の関係のソースはこちらの論文。高国が小笠原流弓馬故実および鷹狩の伝承に果たした役割の大きさがよく分かる内容です。 https://t.co/VH4IZ1MzBl
論文はこちらを紙に印刷して再読中です。やっぱり印刷して枕元に置かないと、頭に入ってきませんよね。(スマホがあればそうでもないのかな?) https://t.co/cEPkruBPB3
出奔した前将軍義稙と大内義興の連携を見出すとともに、永正13年とされてきた島津氏による三宅国秀の殺害事件を義稙vs義晴の構図で捉え、義稙政権が崩壊した永正18年から、大内義隆と義晴政権の和睦が成立する享禄3年までの間に起きた事件と推測されている方もいます。 https://t.co/iRrL8WsPTW
RT @truetrueno111: 堺の解説にあった「大内氏の滅亡により、遣明船貿易が断絶する」 大内氏と遣明船…こんな研究が。勘合の意味が良くわかります。遣明船と言えば一条氏も。 CiNii 論文 -  「堺渡唐船」と戦国期の遣明船派遣 https://t.co/5ebu…
こちらも義稙関連情報を含む論文。飛鳥井家からの『和歌条々』と『蹴鞠条々』の武家への伝授者リスト、飛鳥井雅俊から永正8年2月の義稙に次いで、永正12年2月には畠山順光に『和歌条々』が伝授されているのが個人的ポイント。 https://t.co/BCm3Mfn62p
最近、こんな論文が公開されているのに気付きました。義晴期の内談衆などはよく知られてますが、その前提となる義稙期の幕府の法と訴訟制度を考察されています。素人には難解な内容ですが、義稙前期と後期、そして義晴期の審理手続きの違いにも注目されていて、興味深いです。 https://t.co/JQcbHkeCuT
TLでも何度か話題に上っていた論文ですが、室町期から戦国期にかけての家格意識を考える上で必読の内容でした。戦国期に至ってもなお足利一門と非足利一門間の格差が認識されていた事実を提示されています。それが、将軍自身の実力者優遇によって結果的に壊されたという流れ。 https://t.co/a4rDexOnrd
『日本史のまめまめしい知識 第1巻』木下聡先生の「室町幕府において将軍直臣に対して将軍以外が名前の一字を与えること」を読んで気になっていた、伊勢氏から「貞」字を授与されている奉公衆や在国被官に関して、興味深い論文。先行研究を辿る道標としても参考になりそう。 https://t.co/zCnHtHSvR8
この一件は、水野恭一郎先生の『赤松被官浦上氏についての一考察―浦上則宗を中心に―』でも、守護を凌ぐ守護代層の武将たちの実力を示す事象の一つとして引用されていますね。(「依貧乏不可叶」でWeb検索してヒット。確かに印象的なフレーズです。笑) https://t.co/8gP2x4rJSg
というわけで、読み忘れていたこれを読んでいるところです。前提となる『戦国期細川権力の研究』はWebで公開済みの論文を除いてほぼ未読なので、あれですけど……。 https://t.co/Gkf8XiOkH2

5 0 0 0 OA 続群書類従

続群書類従武家部を読んでいて偶然にも、伊勢下総守貞久が著したという『道照愚草』に、永正17年5月2日に三好之長が澄元の代理として将軍義稙の元へ出仕した際の記録を見つけました。澄元方の上洛を赤松義村が仲介し、義村の使者が伊勢貞陸に証文を渡したことも書かれてます。 https://t.co/RExMIVYhMd

5 0 0 0 OA 続群書類従

「むらさきしりかい」(紫尻繋?)に関する覚書で、大永元年3月5日の犬追物の際、細川高国へ「公方様よりならの御ひたゝれとむらさきのそめわけの御しりかいを拝領候て」云々とあるけど、改元前なので大永ではなく永正18年、そしてこの日付は義稙出奔の2日前。事実かな? https://t.co/X99CmGGA2h

5 0 0 0 OA 続群書類従

Twitter検索で、続群書類従武家部に収められている『伊勢貞助雑記』がNDLで読めることを知りました。「大唐の勘合はかり大内義興再興被申。其勘合ハ大内家に被預置訖。是は各別之儀候。」とか書いてる。礼法といっても、結構その時々の細々とした事を書き残してるんですね。 https://t.co/w1oBSbsIBn
赤松関係を検索していて見つけた論文。赤松氏が始めた松囃子が武家による手猿楽を定着させた流れが解説されています。京兆家評定衆の秋庭元重が伊勢貞頼も認める手猿楽の名手だったとか、天文21年の将軍帰洛時の御能では三好内衆も出演したとか、個人的に興味深い話が色々と。 https://t.co/Lur4XKto6N
RT @washou3956: メモ。阿部匡伯「十河一存の畿内活動と三好権力」(『龍谷大学大学院文学研究科紀要』41、2019年)※「十河一存」の読みは「そごうかずまさ」。なお、同誌はいずれ龍谷大学の機関リポジトリで公開する。https://t.co/sTVl4y2jeQ #こ…

3 0 0 0 OA 春霞集

『春霞集』は国立国会図書館デジタルコレクションでも読めます。里村紹巴の評はこちらのページに。 https://t.co/29YDOMabLM
RT @shima_126: @raisoku_123 どうも先日からイチャモンおじさんみたいになってて恐縮ですが、元常と藤孝に養子関係はない、ということですね。学術論文になってしまいますけど、山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』730)をお読みいただければ納得いた…
ただ、六角討伐の初頭で山内政綱を騙し討ちに近いやり方で殺した件や、石原比伊呂先生のこちらの論文を読んで、更に見る目が変わったんですが。あ、天然で煽っちゃうだけじゃないんだって。(←失礼) https://t.co/K3o4bl0vtD
RT @merontomikan: 戦国期土岐・後斎藤氏の美濃支配 : 用水相論を事例にThe Domination of Mino Province by the Toki Clan and the Go-Saitoh Clan in the Sengoku Period :…
RT @merontomikan: なんかバズっている!300いいねを超えそう!Twitter始めて以来初めて
馬部先生によると、長洲庄の関連史料に頻出する藤岡秀友(藤岡後藤次)という人物は、薬師寺長盛の右筆を務めていたとのこと。藤岡氏は京兆家から配属された寄子であり、淀城の城主でもあった。多分これが『後法興院記』永正元年9月6日にある「与一在淀藤岡城」の件。 https://t.co/iFJxbePJft
もう一方の京都小笠原氏庶流、政清弟・元清から始まる刑部少輔家も義澄の近江落行に従ったらしく、永正8年5月(船岡山合戦の直前)に元清の子・元宗が義澄の使者として豊後大友氏の元を訪れたようです。元宗は永正4年4月に大友氏が催した犬追物で検見を務めているそうで。 https://t.co/bMhrxu4wKE
犬追物の実際は、こちらの論文に詳しく解説されていました。数日に渡る催行には河原者が多数動員され、犬の調達も大変だったようですが、桟敷を設けて見物料を徴収し、経費を回収できたそうで。最終日には参加者が蔭凉軒に集まって、余った犬を食べたという話も興味深いです。 https://t.co/gK0DtYeaic
近衛前久は織田信長と鷹狩を通じて交流したことで有名ですが、こちらの論文によると、前久が著した鷹書でたびたび引用されている『諸木抄』は、細川高国が著した武家故実書だそうです。高国は幼少の頃より将軍の弓馬師範を務めていた小笠原政清・尚清父子に師事。 https://t.co/VH4IZ1MzBl
伊勢貞仍の歌集『下つふさ集』は義尹(義稙)の動向を知る上でも重要とのこと。こちらの川岡勉先生の『戦国期但馬の守護と領主』では、貞仍が義尹の命で山陰地域の守護所を訪ねて但馬に立ち寄った件と、当時の山名氏に起きていた内乱について解説されています。 https://t.co/6flgde3FJD
これらの傍証も、永正17年以降の義稙と高国は対立を深めていったとする通説に従うなら、別の解釈になりそうではありますが。こちらの『画像賛の語る宇喜多能家と戦国政治史』でも、義村-義稙&澄元(&義興) vs 村宗-義晴&高国 という対立構図を前提とされていますね。 https://t.co/EG8f0hP4lR
なお、赤松則実と伊勢貞陸や大内義興のやり取りの件は、こちらの『画像賛の語る宇喜多能家と戦国政治史』でも触れられていました。義興は在国の身でありながら、争いを調停する姿勢を示しているとのことで、事実であれば義興は義稙を見捨てて去った説は妥当ではないことに!? https://t.co/EG8f0hP4lR
足利義輝の鎧姿とくれば、まず連想するのは、足利将軍家重代の鎧「御小袖」のこと。『江陽屋形年譜』が永禄の変における義輝の御小袖着用を伝えているそうですが、同時代史料によると、御小袖の唐櫃は伊勢貞助に警固されて禁中に預けられ、その後は三好家が管理したようです。 https://t.co/mzilAMvfCI
現代では松永久秀の最期といえば爆死で有名になってますが、早田玄洞『臨終壮快譚 死生超脱』(明治35年)には、宿痾の中風が発症して無様な姿を晒してはいけないと、百会(頭の天辺のツボ)に点灸しつつ自刃したという美談が取り上げられています。爆死はその発展型かな? https://t.co/3BwXnsqaR6
CiNiiではこちらの『史学雑誌』の論文紹介で少し触れられていたものがヒットしましたが、「新出の笠袋・鞍覆免許に関する畠山順光書状三点」とのことで、なんと大永元年に出奔中の義稙から実如側近の頼慶に対して出されたもののようです。めっちゃ気になる…。 https://t.co/PGZ9T6I03d
@gutter_ballet_ こちらの論文によると細川政誠は、明応の政変後も文亀3年まで毎年のように近衛家へ年末年始の挨拶に訪れているそうで、註によると子息の誠久は明応2年2月1日に弥五郎、文亀3年7月23日に治部少輔、永正元年12月27日に伊豆守を名乗っていたとあります。が、これも…。 https://t.co/mPj5cK5FSD
@gutter_ballet_ であれば、こちらの論文の史料に一色七郎、本郷与三郎と共に近衛家を訪れて遊興したという細川治部少輔も、政誠ではなさそう。一色式部少輔、本郷宮内少輔ら奉公衆の同僚のようで、これが永正年間に比定されている益田治部少輔(宗兼)宛書状の細川治部少輔誠久でしょうか。 https://t.co/B0kIvEqbkz

お気に入り一覧(最新100件)

PDFあり。 ⇒佐藤亜莉華 「醍醐寺僧と根来寺僧の交流とその変容」 『日本女子大学大学院文学研究科紀要』27(2021) https://t.co/2a3b6hBxsT
大橋 直義 - 天性寺蔵『蛸地蔵縁起絵巻』(天性寺聖地蔵尊縁起)についての覚書 https://t.co/h38EjwaUys
PDFも解禁されたみたいですね 馬部隆弘「江口合戦への道程―三好長慶と細川晴元の思惑―」(『大阪大谷大学歴史文化研究』21号 2021年) https://t.co/0ij919GrAK
CiNii 論文 -  戦国期における鷹狩 : 足利将軍家・細川京兆家・公家を中心として https://t.co/k67VPQuzFT #CiNii
@meiou1493 ありがとうございます! その線で論文見返した所、木下聡先生の論文に「山名民部少輔材氏」という人物がいました 「材」が義稙(義材)の偏諱と考えらえる点や、同じ外様衆の宍道秀藤が同列にある点から見ても合点が行きます 室町幕府外様衆の基礎的研究 https://t.co/N89VCzLcdJ #CiNii
近衛さんちのおうちについて調べてたら、永禄の変後の義輝様正室について書いてあってしんみりしてしまった… https://t.co/MNNKKhxM5i (p17 (E)稙家女にあたる御霊殿)
CiNii 論文 -  南北朝・室町期における五山派禅院の修造財源: 将軍権力と関連して https://t.co/ytcaOl6dWy #CiNii
今日TLの一部で話題になっていた綿田氏の聚光院論文の注で宝鏡寺理源の三好義継との結婚を否定されていた話。私もこの件に関しては詳しく調べてはいないので、話半分に聞いてほしいが、私見としては注に述べられている内容は誤読だと思っているhttps://t.co/rgrQlJgUda
PDF公開。石原比伊呂「足利義稙にとっての笙と義満先例:将軍権威再建への試行錯誤」(『聖心女子大学論叢』136、2020年12月)足利将軍家の故実のひとつ「笙」(雅楽)と足利義稙との関係から、義稙の政治姿勢の変化を読み取ろうとする論文。https://t.co/7h97UTnRV9 #こんな論文がありました

15 0 0 0 OA 故実叢書

先日、国会図書館デジタルコレクションで https://t.co/uKAWMdFazx 尊卑分脈の備中伊勢氏の系図を眺めていたところ、 備中守盛定の子の盛時の仮名が”八郎”になっていたので 「ん?誤記かな?」と思っていたんですが、、、 https://t.co/eXKWBe2Mgd

12 0 0 0 OA 耳比磨利帖

今日ぼけーっとしてたらたぶんこれまでの三好氏研究では触れられたことがない(戦国遺文でも自治体史でもたぶん未収)文書を見つけたんですけど、これですhttps://t.co/MPXIBjpRIw
CiNii 論文 -  戦国大名分国における領主層の編成原理をめぐって https://t.co/m75Bz14B69 秀親の与力の話がある
詳しくはこちらの科研の報告書「越前朝倉氏」の項目で論じましたので、最寄りの図書館等でご覧になってください▼ https://t.co/VxjLBehLNg
メモ。阿部匡伯「十河一存の畿内活動と三好権力」(『龍谷大学大学院文学研究科紀要』41、2019年)※「十河一存」の読みは「そごうかずまさ」。なお、同誌はいずれ龍谷大学の機関リポジトリで公開する。https://t.co/sTVl4y2jeQ #こんな論文が出ていたようです
複雑で何とも形容し難い、この微妙なあり様を、とても繊細に描いてくれるだろうと思っています。 今日の参考文献は「戦国期美濃国における後斎藤氏権力の展開」です▼ 特に第1章・第3節「道三・義龍の二重権力」をご参照ください。 https://t.co/egN2tfa1yL
PDF公開&メモ。清水克行「室町期畿内における町場の構造」(『比較都市史研究』30-2、2011年)副題にもあるように、「経覚私要鈔」に描かれた大和国古市郷の構造を検討。『経覚〈人物叢書〉』に参考文献として引用されていたもの。ネット公開していたのは知らなかった。https://t.co/XccxZOrDwj
@raisoku_123 どうも先日からイチャモンおじさんみたいになってて恐縮ですが、元常と藤孝に養子関係はない、ということですね。学術論文になってしまいますけど、山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』730)をお読みいただければ納得いただけるかとhttps://t.co/TskJMs7VdI
行った人のブログによると去年の論文と同じ感じの話をされたみたい 公開されてるからぜひ https://t.co/sCd9D1VBPD
馬部隆弘「丹波片山家文書と守護代内藤国貞」https://t.co/mdzlpShuaf いつの間にかPDF公開されてました。 >史料にしばしば登場するも、何者なのかよくわからない人物が畿内の戦国史には非常に多く残されている 冒頭からそれなボタン連打したい勢い
石原比伊呂「笙器「達智門」にみる足利義材の近江出陣」(『聖心女子大学論叢』132、2018・12)https://t.co/VYqnkTdIPG PDFで読めます。
愛宕山勝軍地蔵信仰の形成 : 中世神仏習合像の一形態 https://t.co/GTd0u5dHhb 愛宕山で勝軍地蔵の信仰がみえるのは15世紀後半以降、ということで細川政元(ともちろん司箭院興仙)が契機ではないのか、という想定が為されている
これについては池上裕子による書評(『史学雑誌』125‐7、2016年)も参照のこと。https://t.co/0ixJaFT5kj
で、この矛盾を「元常の養子」に変えることで世代的には矛盾を無くしたのが18世紀成立の「御家譜」だったようなのだけど、それで思い出したのがこの藤孝の出自の移り変わり詳細に示してるこの論文 CiNii 論文 - 細川幽斎の出自について https://t.co/nma6aCXcCY #CiNii
PDF公開。石原比伊呂「室町後期の近衛家と他の摂家:近衛政家を中心に」(『聖心女子大学論叢』129、2017年6月)「九条流」と「近衛流」の二分類の有効性を検証するために、本稿では近衛政家期の近衛家と一条・九条・鷹司家の関係を復元。https://t.co/XBQG3gpajg
PDF公開。工藤克洋「戦国期における愛宕山五坊・山伏の諸国勧進」『同朋大学佛教文化研究所紀要』35(2016年3月)先行研究にて手つかずの戦国期愛宕山五坊の活動実態を明らかにしたうえで勧進活動を復元。中世後期勧進研究の課題にも言及。https://t.co/Cge5bLwVry
PDF公開。小谷量子「上杉本洛中洛外図屏風注文者 近衛氏の生涯」『日本女子大学大学院文学研究科紀要』23(2017年3月)「足利―近衛体制」の重要人物である慶寿院。上杉本洛中洛外図屏風注文者でもあり、上杉本理解のためにその生涯を考察。https://t.co/HUokUdrVQi
高橋遼「戦国期大和国における松永久秀の正当性」(『目白大学短期大学部研究紀要』52、2016)小沢長政や松永久秀といった外部勢力の大和国侵入によって、戦国期大和国内の権力関係がどのように変動したのか、特に興福寺との関係から検討。https://t.co/z7HwT35we8
そういえば国立国会図書館デジタルコレクションに、『真田幸村諸国漫遊記』という、幸村が水戸黄門のように全国をめぐる明治時代のなかなか不思議な小説が有ります。結構面白いですw https://t.co/2jw93E9VXB https://t.co/pDREoIlMn2

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