著者
後田多 敦 シイタダ アツシ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.23, pp.21-45, 2021-09-30

本稿では、首里城(沖縄県那覇市)の正殿正面石階段の登り口両側に設置されていた大龍柱と呼ばれている一対の龍柱の向きを検討した。大龍柱は首里城の特徴を象徴する造形物の一つ。琉球国末期からの大龍柱(3代目とされる)は首里城が接収された以降、破壊と向き改変がなされたため、本来の向きについては二つの見解がある。これまで、向き合う形だとする説(相対説)と正面向きだとする説(正面説)が対立しているが、本稿では首里城接収直前から、近代における大龍柱の向きを検証し、本来の向きは正面向きだったと結論づけた。 琉球国の王城だった首里城は1879(明治12)年に明治政府の「琉球処分」で接収された後、日本軍が駐屯したほか学校や沖縄神社などに利用され、1945(昭和20)年の沖縄戦で破壊された。戦後は一時、琉球大学用地として利用された後、1992(平成4)年には正殿などが復元(平成復元)された。平成復元では「1712年頃再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則」とする方針が採用され、大龍柱は「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記」(1768年成立、以下「寸法記」)などの絵図資料を基に向き合う形(相対向き)で設置された。この正殿を含む復元された建物8棟などは、2019(令和元)年10月31日未明の出火で焼失している。 平成復元が採用した相対説の「寸法記」絵図解読は、首里城接収後に駐屯した日本兵によって大龍柱の向きが正面に変えられたことを前提にしている。本稿ではその前提を検証対象とし、現在確認されている最古の首里城正殿写真(1877年撮影)などから、首里城接収を挟んだ時期以降の明治大正期における大龍柱の形状変化を検討した。そして、向きは日本兵によって改変されたのではなく、沖縄神社拝殿としての正殿修復< 1928(昭和3)年から1933(昭和8)年>で相対向きに変えられる以前は正面向きだった事実を示した。その上で相対説の「寸法記」絵図理解の前提が成立しないことを実証し、相対説は絵図資料を「誤読」していると指摘した。 これらの検証を通し、本稿は3代目大龍柱の「本来の向き」は、平成復元が基準とする1768年から正面向きだったと結論づけている。

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A Study on the Orientation of Dairyuchu, the Dragon Pillars of Shuri Castle’s Seiden(Main Building) ― A History of Changes in Dairyuchu’s Orientation in Modern Times― https://t.co/cL3IseLUuw

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