著者
李 千
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.273-298, 2021-03-20

台湾原住民セデック(Seediq・賽德克)族は、台湾中央山脈の中部を中心に暮らしてきた原住民族である。彼らは出草(首狩り)、文面(顔面の入れ墨)という風習をもっていたことで知られている。以前の研究では、セデック族はタイヤル族の一部(支族・亜族・言語系統)として扱われ、タイヤル族研究に位置づけられていた。2008年、セデック族は台湾政府により、14番目の台湾原住民族として認定された。そのことにより、セデック族の文化に関する研究は独自の分野となり、大きな意義をもつようになった。台湾原住民の中で純粋な文面文化をもっている民族はタイヤル族、セデック族、タロコ族である。彼らは文面民族と総称される。文面はセデック族にとって、一人前になったという成人の証である。また、民族識別として重要な社会的機能もある。さらに、人生儀礼とアイデンティティーに深く関わり、重要な役割を果たしてきた。日本統治時代の1913年、文面の風習は禁止され、文面の技術は途絶えてしまった。そのことは、文面がもっていた社会的機能に大きな影響を与え、セデック族のアイデンティティーに揺らぎが生じた。現在、伝統的な文面を施しているセデック族は老人1人だけとなり、この風習は廃れてしまったようにみえる。ところが21世紀初期から、伝統的な方法とは異なる手段により、文面文化を復興させようという動きがみえるようになった。本論では、台湾南投県仁愛郷で暮らす西部セデック族の伝統的な文面文化を中心に述べていく。具体的には文面の条件、起源伝説、施行の過程、タブー、器具、男女の紋様に関する問題を取り上げ、考察を試みた。同時に、他の語群やタイヤル族、タロコ族の文面紋様との比較研究も行った。また、現在の文面文化の復興運動の趨勢や現状、復興の過程における問題も取り上げた。最後に聞き取り調査をとおして、文面文化に対する現在のセデック族の考えや意識も明らかにした。
著者
劉 琳琳
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.95-110, 2021-03-20

本稿は日本の金属業の祭祀の代表例――鞴祭りの形成過程に関わるいくつかの文化要素を考察してみた。鞴祭りの神話的基礎は中世の小鍛冶神話であり、小鍛冶宗近の宝剣作りを稲荷神が助けるというストーリーに、稲荷神が金属業の守護神であるという意識が含まれており、この意識はのちに京都の鍛冶職人をはじめとする金属業界において広まった。一方、鞴祭りの儀礼面の基礎となすのは京都で広く行われた冬の火焼行事と考えられる。一条兼冬の『世諺問答』の記述の分析を通して、火焼の源流は宮中の鎮魂祭御神楽およびその一環としての「庭燎」に遡ることが明らかである。鎮魂祭の深層にはもともと天岩戸神話があり、鎮魂祭は冬至に際して太陽のよみがえりを祈るという意識が含まれることになる。火焼・鞴祭りの成立に伴って、そうした意識もこの二つの行事に流れ込んだと考えられよう。さらに、室町時代以降、中国哲学の一端である一陽来復説が、火焼・鞴祭りの成立の観念面の根拠と見なされるようになった。一方、丙午と五月五日を吉日とする中国冶金業の吉日意識は日本にも伝わったが、ついに中近世の金属業に受け入れられた形跡が見つからず、日本における影響は限定的だと言わざるをえない。一陽来復説が鞴祭りに流れ込んだことによって、金属生産の営みが宇宙の運行とつながる形で捉えられ、暗黒や困難を乗り越え、希望をいつまでも持ち続けていくという前向きな価値観が金属業に結び付くようになった。鞴祭りは一見ごく単純な金属業の祭祀であるが、そのなかに人々の素朴な心理や神話・儀礼・哲学・技術という様々な側面が含まれ、多彩な国際文化交流および選別の結実として生まれたという、興味深い祭りである。論文
著者
後田多 敦 シイタダ アツシ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.23, pp.21-45, 2021-09-30

本稿では、首里城(沖縄県那覇市)の正殿正面石階段の登り口両側に設置されていた大龍柱と呼ばれている一対の龍柱の向きを検討した。大龍柱は首里城の特徴を象徴する造形物の一つ。琉球国末期からの大龍柱(3代目とされる)は首里城が接収された以降、破壊と向き改変がなされたため、本来の向きについては二つの見解がある。これまで、向き合う形だとする説(相対説)と正面向きだとする説(正面説)が対立しているが、本稿では首里城接収直前から、近代における大龍柱の向きを検証し、本来の向きは正面向きだったと結論づけた。 琉球国の王城だった首里城は1879(明治12)年に明治政府の「琉球処分」で接収された後、日本軍が駐屯したほか学校や沖縄神社などに利用され、1945(昭和20)年の沖縄戦で破壊された。戦後は一時、琉球大学用地として利用された後、1992(平成4)年には正殿などが復元(平成復元)された。平成復元では「1712年頃再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則」とする方針が採用され、大龍柱は「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記」(1768年成立、以下「寸法記」)などの絵図資料を基に向き合う形(相対向き)で設置された。この正殿を含む復元された建物8棟などは、2019(令和元)年10月31日未明の出火で焼失している。 平成復元が採用した相対説の「寸法記」絵図解読は、首里城接収後に駐屯した日本兵によって大龍柱の向きが正面に変えられたことを前提にしている。本稿ではその前提を検証対象とし、現在確認されている最古の首里城正殿写真(1877年撮影)などから、首里城接収を挟んだ時期以降の明治大正期における大龍柱の形状変化を検討した。そして、向きは日本兵によって改変されたのではなく、沖縄神社拝殿としての正殿修復< 1928(昭和3)年から1933(昭和8)年>で相対向きに変えられる以前は正面向きだった事実を示した。その上で相対説の「寸法記」絵図理解の前提が成立しないことを実証し、相対説は絵図資料を「誤読」していると指摘した。 これらの検証を通し、本稿は3代目大龍柱の「本来の向き」は、平成復元が基準とする1768年から正面向きだったと結論づけている。
著者
田島 奈都子 タジマ ナツコ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.35-72, 2021-03-20

本稿は中国のポスター史の黎明期に当たる、1880 ~ 1920年代半ばに製作された中国語表記のポスターを研究対象とし、それらに見られる特徴について、考察・検証したものである。この時代については、現存作品が極めて少なく、そのことが長らく研究上の足かせになっていた。しかし、2017年から数年にわたって、論者は香港文化博物館とマカオ在住の個人コレクター・蕭春源氏が所蔵する、大量の戦前期のポスターを、中国人女性研究者の呉詠梅氏と共同で、直接閲覧調査する機会を得たことで、多くの新発見を得ることができた。中国におけるポスター史は、現存する作品を見る限り、イギリス系商社である泰隆洋行を依頼主とする、1889 ~ 90年用の作品によって幕が開いた。そして以降も 1920年代後半まで、つまり技術的には製版方法が描画で、その作業に膨大な手間隙と資金を要した時代に、中国のポスター界を牽引したのは、香港や上海を拠点に活動した、貿易に携わる外資系の損害保険、商社、海運、エネルギーの四業種であった。これらは度重なるポスター製作を通して、後世につながる中国製ポスターの基本的な仕様、具体的には四六半切のアート紙を用いて、上段のリボン状の部分に社名を横書きで記載し、下段にカレンダーを配することなどを、実質的に規定・定着させた。ただし、画面中央部のポスター主題に関して述べると、外資系企業は中国の古典や故事に則ったものを選ぶ傾向が強く、これらは清代に製作・流布した蘇州版画と重なる。ところが、1910年代半ば以降になって、ポスターの依頼主として登場した中国人資本の企業は、こうした主題を採用せず、それらは同時代の近代的な風俗画を好んだ。なお、最初期の中国語表記のポスターは、これまで上海のイギリス租界に所在した印刷会社が窓口となって受注し、同社のロンドン工場で製作されたと認識されてきた。しかし、今回の調査によって、早い段階から香港に所在する印刷会社も製作を請け負っていたことが判明した。