著者
鈴木 麻純
出版者
首都大学東京
巻号頁・発行日
pp.1-79, 2019-03-25

本論文では、ボードレールの「他処(ailleurs)」における「匂い/香り」の様々な機能を明らかにし、その重要性を探る。「他処」=「ここでないどこか」は、詩人ボードレールとその詩学において極めて重要なテーマの1つであり、ある種の強迫観念(オプセッション)として様々な作品のなかにあらわれている。現実世界という「今ここ」からの脱出を渇望する詩人は、自然豊かな異国の島や神秘的な未知の理想郷など、ありとあらゆる「他処」を描いていくのであるが、その「他処」には、必ずと言っていいほど香りが漂っている。記憶や想像力にはたきかけ、情景を一瞬にして喚起する「起動装置(déclenchement)」としての香りが動的に作用するのに対して、喚起された情景のなかを「漂う」香りの機能は限りなくささやかなものに見える。しかし、複数の詩篇において、このような「漂う」香りが描かれていることを見ると、「他処」には何らかの香りが漂っていなければならなかった、とさえ言える。したがって本論では、「記憶」と「夢想空間」をテーマとし、それぞれの「他処」のなかでどのように「匂い/香り」が機能しているかを考察する。第1章では「記憶」をテーマとする。第1節では、香りによる記憶の喚起が描かれる「髪」«La Chevelure»を取り上げる。この詩では髪の香りに解き放たれた詩人が、過去を見出すという物語が「航海」として描かれている。ここでは、「ほとんど死に絶えた(presque défunt)」世界までをも蘇らせる、香りの魔術性について論じる。第2節では、「憂愁」«Spleen»とともに『人工天国』の「記憶の羊皮紙」を扱い、まずは、詩人のなかに眠る記憶のあり方を考察する。これら2つのテクストの読解に加え、「記憶の羊皮紙」と、その原作であるトマス・ド・クインシー『深き淵よりの嘆息』を比較するなかで、記憶の膨大さ、不死性、未知性という3つの側面が明らかになる。また、「憂愁」を「漂う」香りは、記憶に「防腐処置をする(embaumer)」という機能をもつことがわかる。第3節では、「前世」«La Vie antérieure»を扱う。この詩では、神秘的で壮大な「他処」が、詩人の「長い間暮らした地」として表現されているが、ボードレールにおける「郷愁(ノスタルジー)」というフェリックス・リーキーの分析を中心に考察するなかで、それは記憶であるよりはむしろ「想像された前世」にちかいものであることがわかる。さらに、「他処」にいながら苦悩する詩人という「矛盾」に着目し、この詩では、「今ここ」の「他処」への侵入が現れていることを見る。この詩を漂う香りの機能は、ここでは曖昧なままであるが、夢想空間をテーマとした第2章のなかに、その鍵となる機能がある。第2章では「夢想空間」をテーマとする。第1節では、まず、記憶と想像力の不可分性について書かれたホフマンやバシュラールのテクストを考察し、そのことがあらわれている詩として「異国の香り」«Parfum exotique»を取り上げる。この詩では、恋人の乳房の香りによって夢想が始まり、詩人はそのなかで様々な情景を見る。自然豊かな島の景色は、若い頃のボードレールが滞在したモーリス島やブルボン島の風景を思わせるが、感覚描写などに注意して詩を読んでいくと、想像力の作用なしには、この詩の「生きた空間」は存在しえないことがわかる。最後に、夢想のなかに新しくあらわれる「緑のタマリンドの香り」がどのように作用しているかを考察する。第2節では、「旅への誘い」«L’Invitation au voyage»を取り上げる。ここでは、「匂い(odeur)」の語源である「満たす」という性質から出発し、ジョルジュ・プーレ、ミンコフスキー、テレンバッハのテクストを参考にしながら、夢想空間に「生命を吹き込む(animer)」という新たな機能について考察する。次に、«odeur»のもう一つの語源である「浸透する」という性質から、夢想を「深化させる(approfondir)」という香りの機能が明らかになる。第3詩節では、散文詩「二重の部屋」(La Chambre double)を取り上げ、より深くなった夢想のなかで香りの機能がどのように変化しているかを見る。まず、香りが観念に近いものとして表されていることから、香りと観念の関係について考察する。するとボードレールの美術批評の「香りが観念の世界を語る」という一節をはじめとして、「万物照応」«Correspondances»などでも、香りと観念の親和性があらわされていることがわかる。次に、匂いの表現が他の詩篇と比べて抽象的で曖昧であることに着目し、そこから、本来は繋がれていない2つの世界を「繋ぐ(relier)」という5つ目の機能が明らかになる。このように、香りは「他処」を喚起するだけでなく、過去の世界に「防腐処置(embaumer)」をし、それがいつか「他処」として、現在のなかに蘇ることを可能にする。空間を満たす香りは「生命を吹き込(animer)」み、浸透する香りは夢想を「深化させる(approfondir)」。そして最後に、香りは2つの世界を「繋ぐ(relier)」。つまり香りは、「今ここ」にいながら、あらゆる時空間で生きることを可能にするものだと言える。そして、それゆえに香りは、ボードレールの「他処」の詩学に欠くことのできないものなのである。

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