著者
宮山 昌治
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-104, 2006-03-25

ベルクソンは多くの日本の文化人に大きな影響を与えた哲学者である。ベルクソン哲学は日本では1910 年に紹介されたが、紹介後すぐに翻訳や解説書が多数刊行されて、〈ベルクソンの大流行〉を引き起こすに至った。ベルクソンは一躍日本の思想界の寵児となったのだが、この流行は足かけ4 年で終わってしまう。なぜ、流行はあっさりと終わってしまったのか。その原因として挙げられるのは、ベルクソン受容における解釈の偏りである。 そもそも、ベルクソン哲学が受容される以前の日本のアカデミズムでは、新カント派の認識論が主流であり、「物自体」を直接把握しようとする形而上学は避けられる傾向にあった。だが、このアカデミズムに対する抵抗として、論壇ではしだいに形而上学を復興させる動きが盛んになり、ベルクソン哲学が大いに注目を集めた。ベルクソン受容では、『試論』の「持続」と「直観」、『創造的進化』の「持続」の「創造」が紹介された。すなわち、「物自体」を「持続」と捉えて、それは「直観」によって把握できるものであり、かつ「創造」性を有するものだと言うのである。ところが、これはベルクソンの紹介としては偏ったものであった。そこには、『物質と記憶』の「持続」と「物質」の関係がほとんど紹介されていない。それは、ベルクソン受容が唯心論の立場をとっており、唯心論では「物質」は排除すべきものでしかなく、「持続」と「物質」の関係を説明することが困難だったからなのである。 しかしそれでは、「持続」が「物質」のなかで、いかにして現実に存在するかを問うことができず、「持続」は観念でしかなくなってしまう。結局、ベルクソン受容は唯心論の枠組みの外にある現実存在するもの、すなわち「物質」や、ひいては「他者」についても論じることはできないということになり、ベルクソンの流行は一気に衰退に向かった。だが、その後の唯物論の隆盛は、ベルクソン受容が先に「物質」や「他者」の問題に直面していなければ、存在しないものであったし、さらに新カント派の変形である大正教養主義も、新カント派とベルクソン受容の対決を経て生まれたものであった。したがって、大正期のベルクソンの流行は日本の思想史において、きわめて重要な意味をもつ〈事件〉であったと言えるのである。

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