著者
宮山 昌治
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-104, 2005

ベルクソンは多くの日本の文化人に大きな影響を与えた哲学者である。ベルクソン哲学は日本では1910 年に紹介されたが、紹介後すぐに翻訳や解説書が多数刊行されて、〈ベルクソンの大流行〉を引き起こすに至った。ベルクソンは一躍日本の思想界の寵児となったのだが、この流行は足かけ4 年で終わってしまう。なぜ、流行はあっさりと終わってしまったのか。その原因として挙げられるのは、ベルクソン受容における解釈の偏りである。 そもそも、ベルクソン哲学が受容される以前の日本のアカデミズムでは、新カント派の認識論が主流であり、「物自体」を直接把握しようとする形而上学は避けられる傾向にあった。だが、このアカデミズムに対する抵抗として、論壇ではしだいに形而上学を復興させる動きが盛んになり、ベルクソン哲学が大いに注目を集めた。ベルクソン受容では、『試論』の「持続」と「直観」、『創造的進化』の「持続」の「創造」が紹介された。すなわち、「物自体」を「持続」と捉えて、それは「直観」によって把握できるものであり、かつ「創造」性を有するものだと言うのである。ところが、これはベルクソンの紹介としては偏ったものであった。そこには、『物質と記憶』の「持続」と「物質」の関係がほとんど紹介されていない。それは、ベルクソン受容が唯心論の立場をとっており、唯心論では「物質」は排除すべきものでしかなく、「持続」と「物質」の関係を説明することが困難だったからなのである。 しかしそれでは、「持続」が「物質」のなかで、いかにして現実に存在するかを問うことができず、「持続」は観念でしかなくなってしまう。結局、ベルクソン受容は唯心論の枠組みの外にある現実存在するもの、すなわち「物質」や、ひいては「他者」についても論じることはできないということになり、ベルクソンの流行は一気に衰退に向かった。だが、その後の唯物論の隆盛は、ベルクソン受容が先に「物質」や「他者」の問題に直面していなければ、存在しないものであったし、さらに新カント派の変形である大正教養主義も、新カント派とベルクソン受容の対決を経て生まれたものであった。したがって、大正期のベルクソンの流行は日本の思想史において、きわめて重要な意味をもつ〈事件〉であったと言えるのである。In Japan, the philosophy of Henri Bergson was first introduced in 1910. From 1912, many books and papers discussed Bergson, and his philosophy came into vogue. At that time, the Japanese philosophical society maintained the epistemology of Neo-Kantism and refused to acknowledge "Ding an sich(" the thing itself),which metaphysics had tried to grasp immediately. Bergson insisted on acceptance of "Ding an sich" by "intuition", so the people who rejected Neo-Kantism enthusiastically agreed with him. But the vogue come to an end around 1915, and publicity about Bergson disappeared rapidly. The vogue declined because of the interpretation that Bergson's philosophy favored "Idealism" based on the pan-conscience. As that interpretation was ineffective at treating "matter" and "the Other", Matière et Mémoire(Matter and Memory)studied the matter hardly received attention during this time. The partial interpretation brought the vogue to a crisis Though the vogue declined, the prosperity of Materialism and Socialism that lasted through the 1920s didn't exist without the vogue had revealed the fault of "Idealism". Therefore, Bergson's significance in the history of modern Japanese thought cannot be overlooked.
著者
宮山 昌治
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-104, 2006-03-25

ベルクソンは多くの日本の文化人に大きな影響を与えた哲学者である。ベルクソン哲学は日本では1910 年に紹介されたが、紹介後すぐに翻訳や解説書が多数刊行されて、〈ベルクソンの大流行〉を引き起こすに至った。ベルクソンは一躍日本の思想界の寵児となったのだが、この流行は足かけ4 年で終わってしまう。なぜ、流行はあっさりと終わってしまったのか。その原因として挙げられるのは、ベルクソン受容における解釈の偏りである。 そもそも、ベルクソン哲学が受容される以前の日本のアカデミズムでは、新カント派の認識論が主流であり、「物自体」を直接把握しようとする形而上学は避けられる傾向にあった。だが、このアカデミズムに対する抵抗として、論壇ではしだいに形而上学を復興させる動きが盛んになり、ベルクソン哲学が大いに注目を集めた。ベルクソン受容では、『試論』の「持続」と「直観」、『創造的進化』の「持続」の「創造」が紹介された。すなわち、「物自体」を「持続」と捉えて、それは「直観」によって把握できるものであり、かつ「創造」性を有するものだと言うのである。ところが、これはベルクソンの紹介としては偏ったものであった。そこには、『物質と記憶』の「持続」と「物質」の関係がほとんど紹介されていない。それは、ベルクソン受容が唯心論の立場をとっており、唯心論では「物質」は排除すべきものでしかなく、「持続」と「物質」の関係を説明することが困難だったからなのである。 しかしそれでは、「持続」が「物質」のなかで、いかにして現実に存在するかを問うことができず、「持続」は観念でしかなくなってしまう。結局、ベルクソン受容は唯心論の枠組みの外にある現実存在するもの、すなわち「物質」や、ひいては「他者」についても論じることはできないということになり、ベルクソンの流行は一気に衰退に向かった。だが、その後の唯物論の隆盛は、ベルクソン受容が先に「物質」や「他者」の問題に直面していなければ、存在しないものであったし、さらに新カント派の変形である大正教養主義も、新カント派とベルクソン受容の対決を経て生まれたものであった。したがって、大正期のベルクソンの流行は日本の思想史において、きわめて重要な意味をもつ〈事件〉であったと言えるのである。
著者
宮山 昌治
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.57-79, 2006

大正期のベルクソン哲学の大流行(1912─1915)は唯心論の興隆の波に乗って、〈直観〉をしきりに喧伝した。だが〈直観〉を強調するあまり、〈知性〉と〈他者〉を排除する傾向が強くなり、それが大流行を終焉に導くことになった。以降、ベルクソン受容は低調に終始するが、1941年のベルクソンの逝去を機にベルクソンに関する論文が多数発表されて、わずか半年ではあったが、小さな流行を引き起こした。 1941年の小流行では、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉を区別したが、これらは実は相補関係にあるという指摘が多く見られた。また、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉の結合を図ったが、それは弁証法にまでは至らなかったという批判も見られた。だが、前者は〈直観〉の唯心論の枠組みを温存して、その上に〈知性〉を添加しただけである。むろん〈他者〉の問いも解決していない。また、後者はベルクソン哲学を弁証法によって批判しているが、なぜ弁証法なのであろうか。それは、1932年の『二源泉』批判に端を発する。 1932年の論壇は、全体主義の擡頭を受けて政治論が興隆していた。孤高を保ってきた哲学界もこの状況を無視することはできず、媒介者としての能動的な主体を強調する弁証法を打ち出して、マルキシズムとファシズムの攻勢に対して抵抗を始めた。これは、能動的な主体を強調するという点で、大正期の唯心論の系譜を引くものであった。 この1932年に『二源泉』が刊行されたが、そこで取り上げられた「神秘家」の受動性は能動的な主体の弁証法とは相容れないものであった。それゆえに、ベルクソン哲学は最終的に弁証法には到達しなかったという批判が生じたのである。この批判は1941 年の受容でも繰り返されたが、『二源泉』を受け入れなかったことで、ベルクソン受容は大正期の唯心論の枠から外に出ることはできず、その継続にとどまった。唯心論の外にある〈他者〉についても、主体の弁証法はこれを従属させることしかできなかったのである。 しかし、大正期以降の思想史において唯心論を定着させるのに大きく寄与したのはベルクソン受容なのである。それは、たしかに〈他者〉の問いに対しては無力であり、社会論としては限界があったかもしれないが、ベルクソン受容が主体の能動性を強調して、全体主義に対する抵抗の一拠点を築いていたという事実は忘れてはならないであろう。