著者
沈 嘉琳
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.53-72, 2023-01-31

本稿は、作品の構造と物語内容の展開の角度から『騎士団長殺し』における歴史的な要素を検討するものである。村上春樹『騎士団長殺し』において、アンシュルス(独墺併合)と南京大虐殺の二つの歴史的事件は、雨田具彦が制作した絵「騎士団長殺し」の隠れた背景として描かれる。作品の歴史的な要素に関する従来の議論の多くは、作品内容の特定の部分を取り上げている。それに対し、本稿はアダプテーションの観点から『騎士団長殺し』を捉え、作品全体の構造と物語内容の展開に着目し、作品の歴史的な要素の意味を明らかにするのを目的とする。絵「騎士団長殺し」の導きによって、主人公「私」は四つの絵画(「免色の肖像画」、「白いスバル・フォレスターの男」、「秋川まりえの肖像画」、「雑木林の中の穴」)を創作した。筆者は作品のクライマックスである「私」の騎士団長殺しの行為を、絵「騎士団長殺し」を三次元へと翻案する行為として解読した。そのような「私」の翻案行為の内実として、この作品には重層的な翻案が認められる。「私」による絵「騎士団長殺し」の翻案は、ドン・ファンの伝説を元にしたモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』の創作と共通する部分がある。また、「私」の翻案行為は、『ドン・ジョバンニ』から絵「騎士団長殺し」を創作する過程に介在した画家の歴史経験からも影響を受ける。重層的な翻案から影響を受ける一方、主人公「私」の個人的な要素も翻案行為に導入される。そのような重層的な翻案は作品内部で完結するのではなく、作品の外部まで延長され、本作品『騎士団長殺し』を受容する読者もまた重層的な翻案の一翼を担うのである。さらに、作品で重要な位置を占める上田秋成の短編小説「二世の縁」と本作品『騎士団長殺し』から、倫理制度に囚われず、実生活に着目するという同一の主題を捉えることができる。この点は村上春樹が主張する自分なりの物語を作る能力とも響き合う。作品『騎士団長殺し』からは構造と内容の両面において、個人とシステム、正当性が付与される行為、倫理制度の制限などに関する問題を看取でき、読者への「物語作り」のメッセージも作品から発信されているのである。

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