著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.23-99, 2006

1. 研究の目的 学校林をめぐる共同関係は「財産」を基底にした「財産共同関係」として明治後期から大正初期にかけて誕生し,その後,昭和戦前期における「愛郷」の普及によって種々の「愛郷共同関係」に拡張したので,すでに入会集団とは異なるものに変容していると考えられる。これを前提として,昭和戦後期・現代における研究の目的を次のように設定し,かつ,森林利用形態論における学校林の位置づけを,目的2)に関連させて論じた。目的1) 天皇制支配の手段として戦前に全国的な展開を見せた愛林日や学校林造成が,戦後に植樹祭や学校植林となって継続した経緯および理由を明らかにする。目的2) そうして戦後に引き継がれた学校林およびそれをめぐる共同関係の地域社会における存在価値を,昭和の町村合併に伴う林野所有の移動から説明する。目的3) 合併を経て地方自治体制が整備されるなかで学校林が消滅,衰退する経緯と,里山保全や環境教育の場として展開し始めた現在の状況を明らかにする。2. 考察1) GHQ/SCAP の立場から考えると,急激な民主化と分権化によって引き起こされる社会不安への対応として愛林日や学校林を位置づけていたと思われる。まず1 点目は絶対的な存在としての天皇を失うことにより国民のあいだに生じる不安であり,そして2点目は農地改革に引き続く山林解放を恐れることにより山林地主のあいだに生じる不安であった。それゆえ,愛林日の復活は天皇を国土復興に担ぎ上げることによる1 点目の不安の払拭であり,学校植林運動の開始は一連の「挙国造林に関する決議」などと同様の造林奨励による2 点目の不安の払拭であった。 しかし,その払拭を実際に思いついたのはGHQ/SCAPではなく山林局(1947年4月より林野局,1949年5月より林野庁)官僚や森林愛護連盟であった。戦前の組織やシステムを維持することに対してGHQ/SCAP は少なからず抵抗するはずで,林野官僚や関係団体は愛林日や学校林を提案する際に次の2点を工夫する必要があった。1点目は愛林日や学校林がそもそもは米国の行事に由来することを主張することであり,2点目は天皇制支配の手段として用いられた過去を「緑化」というイメージにより刷新することであった。 一方で,急激な民主化と分権化により財源の確保も不十分なままに森林管理や校舎建築といった公共事業を一手に引き受けることになった地域社会の立場から考えると,心理的な基盤としては天皇参加の愛林日による国土復興に向けた一致団結が必要とされ,物理的な基盤としては学校林造成による校舎建築財源の確保が必要とされた。その結果,敗戦により「愛国」の箍を外された「愛郷共同関係」が紐帯を自生的に強めることになった。 このようにGHQ/SCAP,林野官僚および関係団体,地域社会のそれぞれの思惑が絡み合いつつ,愛林日が復活し,第1次学校植林5ヵ年計画が開始した,といえる。2. 考察2)町村合併に伴う学校林の所有移動は,無条件もしくは条件付で(すなわち学校林として維持することを条件に)新市町村に統一されるか,さもなくば前町村が財産区を設置して財産区有林の一部として学校林を管理経営するものが多かったのであろう。しかし,学校と地域社会との関係は一様ではなく非常に複雑なものがあらわれる。松尾財産区の学校林は,まず財産区有林のすべてが学校林であるという点,次に松尾を含む複数の前村組合を単位にする旧財産区有林のなかに学校林があるという点,において特殊である。学校林は,実際に植林,管理経営し,その収益を享受した体験をもつ住民や児童生徒にとって,旧財産区とは別に新財産区を設置してでも管理経営するべき存在であったと考えられる。高瀬生産森林組合有の森林は,部落有林野を統一し官行造林を実施した経緯をもつ高瀬村の村有林から成り立っている。まだ新財産区制度が導入される前の町村合併において全戸住民を権利者にして設立した任意団体,高瀬植林組合の性格が高瀬生産森林組合にそのまま受け継がれている。学校林は同生産森林組合にとって部落有林野統一と官行造林の契機となった象徴的存在である。相原保善会は,財産区,生産森林組合を設立するものの最終的に財団法人という法人格によって「地区民の公共の福祉」のための財産保全を可能にする。学校林は「地区民の公共の福祉」のため最初に設置された財産であった。町村合併に伴って財産の移動が検討されるとき一般的にみれば部落有に分解するベクトルと新市町村有に統一するベクトルが同時に働く。これに対して,「愛郷共同関係」は学校林が児童生徒や地区全戸によって管理経営されてきたことを訴える。すなわち「地区民の公共の福祉」というベクトルを掲げる。そして財産区,生産森林組合,財団法人などの制度的な外形を与えることによって「財産共同関係」を固定化し,自然村から自由を奪うと同時に新市町村への統一を防御したのである。3. 考察3)日本はGHQ/SCAPからの独立を果たし,朝鮮戦争をきっかけにして高度経済成長を開始する。この時期に第2次学校植林5ヶ年計画がはじまるが,もはや財産としての学校林を国策として奨励する必要はなくなっていた。合併により前町村が学校設置主体としての権限を失っていくだけでなく,義務教育費国庫負担金などの補助金制度によって中央から地方への統制が復活したである。新市町村にとって学校整備に必要なものは補助金であって地域社会の力ではなかった。そのため,残像としての「緑化」が以降の学校植林運動を牽引せざるを得ない。全国各地に出現する「基金条例」にみられるように財産としての学校林は1960年代から1970年代にかけてフェードアウトしていった。 そして,1970年代以降,世界的に自然環境の悪化が危惧されるなか,国内においても里山保全や環境教育の場としての学校林に対する関心が高まり始める。そして1990年代後半より2000年代前半にかけて市町村,都道府県,国レベルで学校林に関する施策が開始されるようになる。飯田市における「学友林整備事業」はその典型例であった 4. 森林利用形態論における学校林の位置づけ 直轄利用形態の変容という観点から町村合併における学校林の移動について若干の考察を加えるならば,これまで川島武宜らによる森林利用形態論において直轄利用形態は,道路,橋梁,消防,学校などの公共事業への支出により,林野を管理経営する自然村が地区内における権力を維持する手段としてみなされていた。しかし学校林は不自由な直轄利用形態,あえて名づけるならば「公共利用形態」とでもいうべきものに姿を変えた。現在も地域社会によって管理経営される学校林とは,直轄利用形態に孕まれる公共利用形態としての性格が,児童生徒や地区全戸の管理経営によって強められ,かつ,合併に伴う制度的な外形の導入によって固定化された,かなり特殊なものといえるだろう

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編集者: Onverwacht
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