著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
no.111, pp.109-177, 2004-06
被引用文献数
1

1.目的 明治期における学校林について詳細に調べられたものはこれまでほとんどない。本稿は,明治地方自治制が生み出した,自然村と行政村の二重構造の中で,1)なぜ学校林設置が導入され,2)どのように普及し,3)どのような役割を果たしたのか,を明らかにする。2.方法(時期区分)市制町村制により合併町村が行政村としてあらわれた時期から,日露戦後の地方改良事業を通じて行政村が定着していったとされる時期までを研究の対象とする。ただ,それ以前から学校林は設置されているため,学制発布から市制町村制までを前史として扱うことにした。第1~5期については,明治政府の学校林設置施策の変化を追う形で区分した。まず,学校基本財産制度が始まった地方学事通則制定以降を第1期とし,次に,文部省からの「学校樹栽日」通達以降を第2期とした。さらに,国有林野法による小学校基本財産への不要存置国有林野売り払いをはじめとする一連の動きを第3期とし,その中でも特に日露戦争を機に普及した学校林設置を第4期とした。最後に,地方改良事業に伴う部落有林野統一を通じて学校林が設置されていく時期を第5期とした。この期間における学校林設置を,収集した資料をもとに,1)設置政策の変遷,2)設置の実態,から明らかにする。This paper intends to clarify 1) why school forests were introduced, 2) how they have spread and 3) what kind of role they played, in the dual structure of natural villages and administrative villages, which the Meiji local autonomous system produced. In the very early period (from 1872 to 1889), school paddies and school forests were introduced as a way of making generating school funds. Though most of them were set up on lands owned by natural villages, some of them were set up on lands sold by the Meiji government. In this period the number of school paddies was larger than that of school forests. In Aomori Prefecture especially, school paddies developed rapidly.
著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.23-99, 2006

1. 研究の目的 学校林をめぐる共同関係は「財産」を基底にした「財産共同関係」として明治後期から大正初期にかけて誕生し,その後,昭和戦前期における「愛郷」の普及によって種々の「愛郷共同関係」に拡張したので,すでに入会集団とは異なるものに変容していると考えられる。これを前提として,昭和戦後期・現代における研究の目的を次のように設定し,かつ,森林利用形態論における学校林の位置づけを,目的2)に関連させて論じた。目的1) 天皇制支配の手段として戦前に全国的な展開を見せた愛林日や学校林造成が,戦後に植樹祭や学校植林となって継続した経緯および理由を明らかにする。目的2) そうして戦後に引き継がれた学校林およびそれをめぐる共同関係の地域社会における存在価値を,昭和の町村合併に伴う林野所有の移動から説明する。目的3) 合併を経て地方自治体制が整備されるなかで学校林が消滅,衰退する経緯と,里山保全や環境教育の場として展開し始めた現在の状況を明らかにする。2. 考察1) GHQ/SCAP の立場から考えると,急激な民主化と分権化によって引き起こされる社会不安への対応として愛林日や学校林を位置づけていたと思われる。まず1 点目は絶対的な存在としての天皇を失うことにより国民のあいだに生じる不安であり,そして2点目は農地改革に引き続く山林解放を恐れることにより山林地主のあいだに生じる不安であった。それゆえ,愛林日の復活は天皇を国土復興に担ぎ上げることによる1 点目の不安の払拭であり,学校植林運動の開始は一連の「挙国造林に関する決議」などと同様の造林奨励による2 点目の不安の払拭であった。 しかし,その払拭を実際に思いついたのはGHQ/SCAPではなく山林局(1947年4月より林野局,1949年5月より林野庁)官僚や森林愛護連盟であった。戦前の組織やシステムを維持することに対してGHQ/SCAP は少なからず抵抗するはずで,林野官僚や関係団体は愛林日や学校林を提案する際に次の2点を工夫する必要があった。1点目は愛林日や学校林がそもそもは米国の行事に由来することを主張することであり,2点目は天皇制支配の手段として用いられた過去を「緑化」というイメージにより刷新することであった。 一方で,急激な民主化と分権化により財源の確保も不十分なままに森林管理や校舎建築といった公共事業を一手に引き受けることになった地域社会の立場から考えると,心理的な基盤としては天皇参加の愛林日による国土復興に向けた一致団結が必要とされ,物理的な基盤としては学校林造成による校舎建築財源の確保が必要とされた。その結果,敗戦により「愛国」の箍を外された「愛郷共同関係」が紐帯を自生的に強めることになった。 このようにGHQ/SCAP,林野官僚および関係団体,地域社会のそれぞれの思惑が絡み合いつつ,愛林日が復活し,第1次学校植林5ヵ年計画が開始した,といえる。2. 考察2)町村合併に伴う学校林の所有移動は,無条件もしくは条件付で(すなわち学校林として維持することを条件に)新市町村に統一されるか,さもなくば前町村が財産区を設置して財産区有林の一部として学校林を管理経営するものが多かったのであろう。しかし,学校と地域社会との関係は一様ではなく非常に複雑なものがあらわれる。松尾財産区の学校林は,まず財産区有林のすべてが学校林であるという点,次に松尾を含む複数の前村組合を単位にする旧財産区有林のなかに学校林があるという点,において特殊である。学校林は,実際に植林,管理経営し,その収益を享受した体験をもつ住民や児童生徒にとって,旧財産区とは別に新財産区を設置してでも管理経営するべき存在であったと考えられる。高瀬生産森林組合有の森林は,部落有林野を統一し官行造林を実施した経緯をもつ高瀬村の村有林から成り立っている。まだ新財産区制度が導入される前の町村合併において全戸住民を権利者にして設立した任意団体,高瀬植林組合の性格が高瀬生産森林組合にそのまま受け継がれている。学校林は同生産森林組合にとって部落有林野統一と官行造林の契機となった象徴的存在である。相原保善会は,財産区,生産森林組合を設立するものの最終的に財団法人という法人格によって「地区民の公共の福祉」のための財産保全を可能にする。学校林は「地区民の公共の福祉」のため最初に設置された財産であった。町村合併に伴って財産の移動が検討されるとき一般的にみれば部落有に分解するベクトルと新市町村有に統一するベクトルが同時に働く。これに対して,「愛郷共同関係」は学校林が児童生徒や地区全戸によって管理経営されてきたことを訴える。すなわち「地区民の公共の福祉」というベクトルを掲げる。そして財産区,生産森林組合,財団法人などの制度的な外形を与えることによって「財産共同関係」を固定化し,自然村から自由を奪うと同時に新市町村への統一を防御したのである。3. 考察3)日本はGHQ/SCAPからの独立を果たし,朝鮮戦争をきっかけにして高度経済成長を開始する。この時期に第2次学校植林5ヶ年計画がはじまるが,もはや財産としての学校林を国策として奨励する必要はなくなっていた。合併により前町村が学校設置主体としての権限を失っていくだけでなく,義務教育費国庫負担金などの補助金制度によって中央から地方への統制が復活したである。新市町村にとって学校整備に必要なものは補助金であって地域社会の力ではなかった。そのため,残像としての「緑化」が以降の学校植林運動を牽引せざるを得ない。全国各地に出現する「基金条例」にみられるように財産としての学校林は1960年代から1970年代にかけてフェードアウトしていった。 そして,1970年代以降,世界的に自然環境の悪化が危惧されるなか,国内においても里山保全や環境教育の場としての学校林に対する関心が高まり始める。そして1990年代後半より2000年代前半にかけて市町村,都道府県,国レベルで学校林に関する施策が開始されるようになる。飯田市における「学友林整備事業」はその典型例であった 4. 森林利用形態論における学校林の位置づけ 直轄利用形態の変容という観点から町村合併における学校林の移動について若干の考察を加えるならば,これまで川島武宜らによる森林利用形態論において直轄利用形態は,道路,橋梁,消防,学校などの公共事業への支出により,林野を管理経営する自然村が地区内における権力を維持する手段としてみなされていた。しかし学校林は不自由な直轄利用形態,あえて名づけるならば「公共利用形態」とでもいうべきものに姿を変えた。現在も地域社会によって管理経営される学校林とは,直轄利用形態に孕まれる公共利用形態としての性格が,児童生徒や地区全戸の管理経営によって強められ,かつ,合併に伴う制度的な外形の導入によって固定化された,かなり特殊なものといえるだろう
著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
no.114, pp.43-113, 2005-12
被引用文献数
1

1. 背景と目的 明治期において小学校という契機により自然村=村落共同体が行政村内部に新たな共同関係を築き上げ,そこに物的基礎,すなわち学校林を集中させたが,問題は,そうして設置された学校林が現存しているという事実であり,したがって,この明治期に形成された共同関係がいったいどのようにして現在に至るまで持続されてきたのかを明らかにしなければならない。本稿では,大正期・昭和戦前期において,中央政府による学校林の位置づけが変化していくなかで,自然村と行政村の二重構造下に形成される,学校林設置,管理を担う共同関係の変容を説明することが研究の目的となる。その際に,1)包括的-個別的,2)自生的-官製的,という2軸から分類される共同関係が担う自治的機能と行政的機能の対立,融合を分析の枠組みとした。時期区分については,第1 期: 大正デモクラシー期,第2 期: 昭和恐慌期,第3 期: 国家総動員体制期という通説的な区分を用いて論じることにした。2. 第1期:大正デモクラシー期における学校林設置の衰退 明治地方自治制は,自然村,すなわち包括的-自生的組織の自治的機能を行政村の行財政に取り込むことにより辛うじて成立している不安定なものであった。そこで,それまで自然村が包括的に担ってきた自治的機能が分化し,個別的-自生的組織という新しい共同関係が築かれはじめる。御大礼記念林業の造林を担った青年会,在郷軍人会,消防組,信用購買組合,報徳社,同窓会,学友会といった団体に,そうした共同関係をみることができよう。しかし,大正期の学校林に限っていえば,御大礼記念林業における設置をみても,造林や管理の担い手は,依然として,「部落」という包括的-自生的組織(すなわち自然村)か「町村」という行政村,もしくは両者の中間形態である「学区」であり,個別的組織を見出すことはできなかった。そして,1918(大正7)年の市町村義務教育費国庫負担法にはじまる一連の国庫負担制度の導入により,教育費の管理は,国と行政村の間に置かれる問題となり,それに伴って学校林を含む学校基本財産の管理も公学資産の一部として行政村に編入され,造林についても,第一期森林治水事業における部落有林野統一条件の緩和や,公有林野官行造林法の制定により,町村に統一された部落有林野を公有林野官行造林事業により速やかに実施していくことが,学校林や記念造林による奨励よりも,山林局にとって重要な課題となっていった。このような変化により,教育行財政にせよ,林野行政にせよ,明治後期に比べて行政村の管理権が増大し,政策の焦点が国と行政村の間の行財政均衡(および行政村間の均衡)に移り,行政村と自然村の二重構造下の問題(および自然村間の均衡問題)である学校林の政策的価値は相対的に低下した。明治期から続いてきた学校林設置は,大正中期の一連の法制度改革によって一段落ついたといえるだろう。3. 第2期:昭和恐慌期における愛林日の開始と展開 1929(昭和4)年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌が農山村を極度の疲弊に追い込んでいく。そのような背景のもと1934(昭和9)年に大日本山林会が愛林日を設定するが,それは,統治下朝鮮半島において展開された記念植樹の影響を強く受けたものであった。 統治下朝鮮半島における記念植樹や学校林設置は,単に愛林思想を普及させるだけのものではなく治山治水や木材生産を強く意識した政策であったが,自然村による自主的な学校林設置がみられた国内の事情と異なり,齋藤音作などの官僚による計画のとおりに実施され続けたものであった。1934(昭和9)年に開始した全国的な愛林日の実施団体は,市町村がもっとも多く,学校が次ぎ,青年団や消防団なども目立った。愛林日の狙いは,学校林設置による学校基本財産を造成することよりも,森林における造林を通じて愛林思想を参加者に育ませることにあった。愛林思想の普及が目的である点については,統治下朝鮮半島における記念植樹も1934(昭和9)年からの愛林日も同様であるが,官僚の計画のとおりに実施できた朝鮮に対して,国内においては林業団体による民間主導の下,取り組みやすい事業を組み入れて開始され,行政村や学校のみならず,自然村に代わって公共的な共同関係を自生的に築きはじめていた青年団,消防団といった個別的組織を介して参加者が愛林日に参加していった。愛林日における学校林作業は,天皇制国家のための思想や資源造成を参加者に意識させる重要な機会であった。4. 第3期:国家総動員体制期における学校林造成 1938(昭和13) 年4月1日に国家総動員法が公布されると,その前後から学校林に関する施策,奨励が再び目立ってくる 国家総動員法の制定にあわせて,愛林日が国家行事になり,さらに学校林の造成が大日本山林会や帝国治山治水協会,山林局によって周到に準備され,学校林の調査(5,064ヶ所,総面積37,496町歩) や,『初等中等諸学校の学林』,『山村青年読本』の出版が行われた。そしてこれらを踏まえて「小学校林造成に関する建議案」の可決が1938(昭和13)年3月10日に出された。学校林造成の本格的な実施は,1940(昭和15)年の皇紀2600年記念として26県において合計12,082町歩の学校林が造成されると,帝国治山治水協会は,学校林の普及を定款に掲げ,「国土愛護」や「愛郷愛国」を前面に出す『学校林』を出版し,学校林を通じた勤労奉仕を小学校のみならず青年および社会教育へと拡大させた。学校林造成の政策意図は,国家資源を造成することだけではなく,国家資源造成のために勤労奉仕をする担い手の育成にあったといえよう。戦争が激化し,大東亜戦争記念造林では,18,336町歩の造林が計画され,この段階に及んでは,そもそも自治的機能を果たすために財産を堅持してきた自然村までもが行政的機能を果たす組織「部落会」として制度化された。実際に学校林を造成した事例からは,農林省や中央の林業団体による奨励に対して全般的に従順な対応がとられたこと,明治期・大正初期における設置との不連続性があったこと,がみてとれた。笹子小学校学校林では,愛林日を含む年5~6回の作業に児童,青年学校生徒が動員されていたことがわかった。秋津小学校では,部落有林野の統一条件として自然村に貸し出されていた林野が,大東亜戦争記念のために学校林地として供出された。これは,国家総動員体制下の戦争記念学校林造成が新しい論理で実施されたことを示した。座光寺小学校では,日露戦争を機に学校林の規模を拡大するが,1930年代にこれを放置し,国家総動員体制になって新たに学校林を造成するようになる経緯が面積と樹数の推移からみてとれた。5. 考察 学校林設置,管理の目的から時期区分を再整理する。明治後期の地方改良事業から御大礼記念林業までの時期を,地方行財政の改良手段としての学校林の「設置完成期」とすれば,大正中期における文部,林野行財政の制度的変化によりその価値が低下する時期が「設置衰退期」となる。「朝鮮期」における記念植樹や学校林設置を参考にして全国的に展開された愛林日により愛林「思想普及期」が始まる。国家総動員体制になり,普及した愛林思想を利用した学校林造成が国策として盛んに奨励され(「造成準備期」),皇紀2600 年記念以降の戦争記念などにおいて学校林造成が本格的に実施される「造成実施期」を迎えた。大正期・昭和戦前期における学校林の設置および管理を担う共同関係の変容を,包括的-個別的,自生的-官製的という組織の特徴と,自治的-行政的という機能から分析する。そもそも,自然村と行政村の中間領域にある小学校に学校林を設置する原動力となったのは,土地および労働力を有していた自然村,つまり包括的-自生的組織の自治的機能であったが,多くの場合は,単独の包括的-自生的組織ではなく,小学校を利用する複数の包括的-自生的組織が共同して学校林を設置し,管理していた。これは,近代教育制度の導入により新たに生じた共同関係の自治的機能であったといえる。大正中期になると,地方行財政の改良手段としての学校林の価値は相対的に低くなり,学校林をめぐる自生的な共同関係はその自治的機能を減退させ,明治期から実施されてきた学校林設置はいったんここで終わりを告げる。ところが,統治下朝鮮半島などにおける愛林思想を通じた統合の経験を背景にして,国家総動員体制になると,今度は,天皇制国家の支配手段として学校林が注目される。具体的には青年団のような個別的-自生的組織が,官製的に再編されるとともに,愛林思想を普及されることにより,国家資源としての学校林を造成する担い手となっていった。さらに戦争が激化すると,包括的-自生的組織(すなわち自然村)までもが官製的な外形(すなわち部落会)を与えられ,学校林造成の担い手となっていったと考えられる。この変容を成立させた要因について若干の考察を加える。国家総動員体制下における学校林造成は,国家資源の造成そのものよりも学校林における勤労奉仕を通じて自然村の精神的基盤を国家の精神的基盤へと転化させることに主たる目的があったと思われ,国家はその転化の方法として「愛郷」=「愛国」の論理を採択し,小学生や青年団,部落会に「愛郷」と「愛国」の心的距離を縮めさせる具体的手段として愛林日実施や学校林造成を位置づけた。そして「愛郷」が孕む地域エゴから免れるため,自然村から派生した自生的組織を官製的に再編し,国家のコントロール下の「愛郷」を生み出そうとした。このような国家の意図を,急激な近代化に対する嫌悪,反動として「愛郷」を再評価する空気が蔓延していた農山村は従順に受け入れたため,「愛郷」の精神は自生的組織から官製的組織へと拡がり,さらには行政村にも影響が及んだのである。In the Meiji period (1868-1912), natural villages built up new communal relations to manage their primary schools. Sometimes, they set up forested trust lands for their schools. These were called school forests. Some school forests were managed by these regional communities. In this paper the reasons for and methods of maintaining these school forests are examined. This paper explains the functional and systematic changes in the communal relations in the dual structure of natural villages and administrative villages from the Taisho period (1912-1926) to the Showa prewar period (1926-). This dual structure was the result of the local authority system in the Meiji period.The communal relations established school forests as a self-governing function when the modern education system was introduced. Until the commemorative forestation for the Taisho Imperial accession, school forests were established for the purpose of forestation and generating school funds. From the middle of the Taisho period, however, school forests became relatively unimportant.Under the national mobilization system, which was started in 1938 and was designed to strengthen the Imperial system, central government found school forestation to be a useful tool. The young men's associations, which were set up as self-governing organizations, were promoted as administration-governed organizations and the government regarded school forests as national resources.To change such communal relations, there was the so-called "Hometown patriotism", which converted the spirit of loving one's hometown into patriotism.
著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.23-99, 2006

1. 研究の目的 学校林をめぐる共同関係は「財産」を基底にした「財産共同関係」として明治後期から大正初期にかけて誕生し,その後,昭和戦前期における「愛郷」の普及によって種々の「愛郷共同関係」に拡張したので,すでに入会集団とは異なるものに変容していると考えられる。これを前提として,昭和戦後期・現代における研究の目的を次のように設定し,かつ,森林利用形態論における学校林の位置づけを,目的2)に関連させて論じた。目的1) 天皇制支配の手段として戦前に全国的な展開を見せた愛林日や学校林造成が,戦後に植樹祭や学校植林となって継続した経緯および理由を明らかにする。目的2) そうして戦後に引き継がれた学校林およびそれをめぐる共同関係の地域社会における存在価値を,昭和の町村合併に伴う林野所有の移動から説明する。目的3) 合併を経て地方自治体制が整備されるなかで学校林が消滅,衰退する経緯と,里山保全や環境教育の場として展開し始めた現在の状況を明らかにする。2. 考察1) GHQ/SCAP の立場から考えると,急激な民主化と分権化によって引き起こされる社会不安への対応として愛林日や学校林を位置づけていたと思われる。まず1 点目は絶対的な存在としての天皇を失うことにより国民のあいだに生じる不安であり,そして2点目は農地改革に引き続く山林解放を恐れることにより山林地主のあいだに生じる不安であった。それゆえ,愛林日の復活は天皇を国土復興に担ぎ上げることによる1 点目の不安の払拭であり,学校植林運動の開始は一連の「挙国造林に関する決議」などと同様の造林奨励による2 点目の不安の払拭であった。 しかし,その払拭を実際に思いついたのはGHQ/SCAPではなく山林局(1947年4月より林野局,1949年5月より林野庁)官僚や森林愛護連盟であった。戦前の組織やシステムを維持することに対してGHQ/SCAP は少なからず抵抗するはずで,林野官僚や関係団体は愛林日や学校林を提案する際に次の2点を工夫する必要があった。1点目は愛林日や学校林がそもそもは米国の行事に由来することを主張することであり,2点目は天皇制支配の手段として用いられた過去を「緑化」というイメージにより刷新することであった。 一方で,急激な民主化と分権化により財源の確保も不十分なままに森林管理や校舎建築といった公共事業を一手に引き受けることになった地域社会の立場から考えると,心理的な基盤としては天皇参加の愛林日による国土復興に向けた一致団結が必要とされ,物理的な基盤としては学校林造成による校舎建築財源の確保が必要とされた。その結果,敗戦により「愛国」の箍を外された「愛郷共同関係」が紐帯を自生的に強めることになった。 このようにGHQ/SCAP,林野官僚および関係団体,地域社会のそれぞれの思惑が絡み合いつつ,愛林日が復活し,第1次学校植林5ヵ年計画が開始した,といえる。2. 考察2)町村合併に伴う学校林の所有移動は,無条件もしくは条件付で(すなわち学校林として維持することを条件に)新市町村に統一されるか,さもなくば前町村が財産区を設置して財産区有林の一部として学校林を管理経営するものが多かったのであろう。しかし,学校と地域社会との関係は一様ではなく非常に複雑なものがあらわれる。松尾財産区の学校林は,まず財産区有林のすべてが学校林であるという点,次に松尾を含む複数の前村組合を単位にする旧財産区有林のなかに学校林があるという点,において特殊である。学校林は,実際に植林,管理経営し,その収益を享受した体験をもつ住民や児童生徒にとって,旧財産区とは別に新財産区を設置してでも管理経営するべき存在であったと考えられる。高瀬生産森林組合有の森林は,部落有林野を統一し官行造林を実施した経緯をもつ高瀬村の村有林から成り立っている。まだ新財産区制度が導入される前の町村合併において全戸住民を権利者にして設立した任意団体,高瀬植林組合の性格が高瀬生産森林組合にそのまま受け継がれている。学校林は同生産森林組合にとって部落有林野統一と官行造林の契機となった象徴的存在である。相原保善会は,財産区,生産森林組合を設立するものの最終的に財団法人という法人格によって「地区民の公共の福祉」のための財産保全を可能にする。学校林は「地区民の公共の福祉」のため最初に設置された財産であった。町村合併に伴って財産の移動が検討されるとき一般的にみれば部落有に分解するベクトルと新市町村有に統一するベクトルが同時に働く。これに対して,「愛郷共同関係」は学校林が児童生徒や地区全戸によって管理経営されてきたことを訴える。すなわち「地区民の公共の福祉」というベクトルを掲げる。そして財産区,生産森林組合,財団法人などの制度的な外形を与えることによって「財産共同関係」を固定化し,自然村から自由を奪うと同時に新市町村への統一を防御したのである。3. 考察3)日本はGHQ/SCAPからの独立を果たし,朝鮮戦争をきっかけにして高度経済成長を開始する。この時期に第2次学校植林5ヶ年計画がはじまるが,もはや財産としての学校林を国策として奨励する必要はなくなっていた。合併により前町村が学校設置主体としての権限を失っていくだけでなく,義務教育費国庫負担金などの補助金制度によって中央から地方への統制が復活したである。新市町村にとって学校整備に必要なものは補助金であって地域社会の力ではなかった。そのため,残像としての「緑化」が以降の学校植林運動を牽引せざるを得ない。全国各地に出現する「基金条例」にみられるように財産としての学校林は1960年代から1970年代にかけてフェードアウトしていった。 そして,1970年代以降,世界的に自然環境の悪化が危惧されるなか,国内においても里山保全や環境教育の場としての学校林に対する関心が高まり始める。そして1990年代後半より2000年代前半にかけて市町村,都道府県,国レベルで学校林に関する施策が開始されるようになる。飯田市における「学友林整備事業」はその典型例であった 4. 森林利用形態論における学校林の位置づけ 直轄利用形態の変容という観点から町村合併における学校林の移動について若干の考察を加えるならば,これまで川島武宜らによる森林利用形態論において直轄利用形態は,道路,橋梁,消防,学校などの公共事業への支出により,林野を管理経営する自然村が地区内における権力を維持する手段としてみなされていた。しかし学校林は不自由な直轄利用形態,あえて名づけるならば「公共利用形態」とでもいうべきものに姿を変えた。現在も地域社会によって管理経営される学校林とは,直轄利用形態に孕まれる公共利用形態としての性格が,児童生徒や地区全戸の管理経営によって強められ,かつ,合併に伴う制度的な外形の導入によって固定化された,かなり特殊なものといえるだろう
著者
竹本 太郎
出版者
東京大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2010

本研究は、森林官であった齋藤音策の足跡を追うことで、明治から昭和初期にかけての近代林政が現場との対話により変化し、現在の緑化運動にも結びつく、植民地朝鮮における緑化の技術と思想が生まれたことを明らかにした。