- 著者
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竹本 太郎
- 出版者
- 東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
- 雑誌
- 東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
- 巻号頁・発行日
- no.114, pp.43-113, 2005-12
- 被引用文献数
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1. 背景と目的 明治期において小学校という契機により自然村=村落共同体が行政村内部に新たな共同関係を築き上げ,そこに物的基礎,すなわち学校林を集中させたが,問題は,そうして設置された学校林が現存しているという事実であり,したがって,この明治期に形成された共同関係がいったいどのようにして現在に至るまで持続されてきたのかを明らかにしなければならない。本稿では,大正期・昭和戦前期において,中央政府による学校林の位置づけが変化していくなかで,自然村と行政村の二重構造下に形成される,学校林設置,管理を担う共同関係の変容を説明することが研究の目的となる。その際に,1)包括的-個別的,2)自生的-官製的,という2軸から分類される共同関係が担う自治的機能と行政的機能の対立,融合を分析の枠組みとした。時期区分については,第1 期: 大正デモクラシー期,第2 期: 昭和恐慌期,第3 期: 国家総動員体制期という通説的な区分を用いて論じることにした。2. 第1期:大正デモクラシー期における学校林設置の衰退 明治地方自治制は,自然村,すなわち包括的-自生的組織の自治的機能を行政村の行財政に取り込むことにより辛うじて成立している不安定なものであった。そこで,それまで自然村が包括的に担ってきた自治的機能が分化し,個別的-自生的組織という新しい共同関係が築かれはじめる。御大礼記念林業の造林を担った青年会,在郷軍人会,消防組,信用購買組合,報徳社,同窓会,学友会といった団体に,そうした共同関係をみることができよう。しかし,大正期の学校林に限っていえば,御大礼記念林業における設置をみても,造林や管理の担い手は,依然として,「部落」という包括的-自生的組織(すなわち自然村)か「町村」という行政村,もしくは両者の中間形態である「学区」であり,個別的組織を見出すことはできなかった。そして,1918(大正7)年の市町村義務教育費国庫負担法にはじまる一連の国庫負担制度の導入により,教育費の管理は,国と行政村の間に置かれる問題となり,それに伴って学校林を含む学校基本財産の管理も公学資産の一部として行政村に編入され,造林についても,第一期森林治水事業における部落有林野統一条件の緩和や,公有林野官行造林法の制定により,町村に統一された部落有林野を公有林野官行造林事業により速やかに実施していくことが,学校林や記念造林による奨励よりも,山林局にとって重要な課題となっていった。このような変化により,教育行財政にせよ,林野行政にせよ,明治後期に比べて行政村の管理権が増大し,政策の焦点が国と行政村の間の行財政均衡(および行政村間の均衡)に移り,行政村と自然村の二重構造下の問題(および自然村間の均衡問題)である学校林の政策的価値は相対的に低下した。明治期から続いてきた学校林設置は,大正中期の一連の法制度改革によって一段落ついたといえるだろう。3. 第2期:昭和恐慌期における愛林日の開始と展開 1929(昭和4)年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌が農山村を極度の疲弊に追い込んでいく。そのような背景のもと1934(昭和9)年に大日本山林会が愛林日を設定するが,それは,統治下朝鮮半島において展開された記念植樹の影響を強く受けたものであった。 統治下朝鮮半島における記念植樹や学校林設置は,単に愛林思想を普及させるだけのものではなく治山治水や木材生産を強く意識した政策であったが,自然村による自主的な学校林設置がみられた国内の事情と異なり,齋藤音作などの官僚による計画のとおりに実施され続けたものであった。1934(昭和9)年に開始した全国的な愛林日の実施団体は,市町村がもっとも多く,学校が次ぎ,青年団や消防団なども目立った。愛林日の狙いは,学校林設置による学校基本財産を造成することよりも,森林における造林を通じて愛林思想を参加者に育ませることにあった。愛林思想の普及が目的である点については,統治下朝鮮半島における記念植樹も1934(昭和9)年からの愛林日も同様であるが,官僚の計画のとおりに実施できた朝鮮に対して,国内においては林業団体による民間主導の下,取り組みやすい事業を組み入れて開始され,行政村や学校のみならず,自然村に代わって公共的な共同関係を自生的に築きはじめていた青年団,消防団といった個別的組織を介して参加者が愛林日に参加していった。愛林日における学校林作業は,天皇制国家のための思想や資源造成を参加者に意識させる重要な機会であった。4. 第3期:国家総動員体制期における学校林造成 1938(昭和13) 年4月1日に国家総動員法が公布されると,その前後から学校林に関する施策,奨励が再び目立ってくる 国家総動員法の制定にあわせて,愛林日が国家行事になり,さらに学校林の造成が大日本山林会や帝国治山治水協会,山林局によって周到に準備され,学校林の調査(5,064ヶ所,総面積37,496町歩) や,『初等中等諸学校の学林』,『山村青年読本』の出版が行われた。そしてこれらを踏まえて「小学校林造成に関する建議案」の可決が1938(昭和13)年3月10日に出された。学校林造成の本格的な実施は,1940(昭和15)年の皇紀2600年記念として26県において合計12,082町歩の学校林が造成されると,帝国治山治水協会は,学校林の普及を定款に掲げ,「国土愛護」や「愛郷愛国」を前面に出す『学校林』を出版し,学校林を通じた勤労奉仕を小学校のみならず青年および社会教育へと拡大させた。学校林造成の政策意図は,国家資源を造成することだけではなく,国家資源造成のために勤労奉仕をする担い手の育成にあったといえよう。戦争が激化し,大東亜戦争記念造林では,18,336町歩の造林が計画され,この段階に及んでは,そもそも自治的機能を果たすために財産を堅持してきた自然村までもが行政的機能を果たす組織「部落会」として制度化された。実際に学校林を造成した事例からは,農林省や中央の林業団体による奨励に対して全般的に従順な対応がとられたこと,明治期・大正初期における設置との不連続性があったこと,がみてとれた。笹子小学校学校林では,愛林日を含む年5~6回の作業に児童,青年学校生徒が動員されていたことがわかった。秋津小学校では,部落有林野の統一条件として自然村に貸し出されていた林野が,大東亜戦争記念のために学校林地として供出された。これは,国家総動員体制下の戦争記念学校林造成が新しい論理で実施されたことを示した。座光寺小学校では,日露戦争を機に学校林の規模を拡大するが,1930年代にこれを放置し,国家総動員体制になって新たに学校林を造成するようになる経緯が面積と樹数の推移からみてとれた。5. 考察 学校林設置,管理の目的から時期区分を再整理する。明治後期の地方改良事業から御大礼記念林業までの時期を,地方行財政の改良手段としての学校林の「設置完成期」とすれば,大正中期における文部,林野行財政の制度的変化によりその価値が低下する時期が「設置衰退期」となる。「朝鮮期」における記念植樹や学校林設置を参考にして全国的に展開された愛林日により愛林「思想普及期」が始まる。国家総動員体制になり,普及した愛林思想を利用した学校林造成が国策として盛んに奨励され(「造成準備期」),皇紀2600 年記念以降の戦争記念などにおいて学校林造成が本格的に実施される「造成実施期」を迎えた。大正期・昭和戦前期における学校林の設置および管理を担う共同関係の変容を,包括的-個別的,自生的-官製的という組織の特徴と,自治的-行政的という機能から分析する。そもそも,自然村と行政村の中間領域にある小学校に学校林を設置する原動力となったのは,土地および労働力を有していた自然村,つまり包括的-自生的組織の自治的機能であったが,多くの場合は,単独の包括的-自生的組織ではなく,小学校を利用する複数の包括的-自生的組織が共同して学校林を設置し,管理していた。これは,近代教育制度の導入により新たに生じた共同関係の自治的機能であったといえる。大正中期になると,地方行財政の改良手段としての学校林の価値は相対的に低くなり,学校林をめぐる自生的な共同関係はその自治的機能を減退させ,明治期から実施されてきた学校林設置はいったんここで終わりを告げる。ところが,統治下朝鮮半島などにおける愛林思想を通じた統合の経験を背景にして,国家総動員体制になると,今度は,天皇制国家の支配手段として学校林が注目される。具体的には青年団のような個別的-自生的組織が,官製的に再編されるとともに,愛林思想を普及されることにより,国家資源としての学校林を造成する担い手となっていった。さらに戦争が激化すると,包括的-自生的組織(すなわち自然村)までもが官製的な外形(すなわち部落会)を与えられ,学校林造成の担い手となっていったと考えられる。この変容を成立させた要因について若干の考察を加える。国家総動員体制下における学校林造成は,国家資源の造成そのものよりも学校林における勤労奉仕を通じて自然村の精神的基盤を国家の精神的基盤へと転化させることに主たる目的があったと思われ,国家はその転化の方法として「愛郷」=「愛国」の論理を採択し,小学生や青年団,部落会に「愛郷」と「愛国」の心的距離を縮めさせる具体的手段として愛林日実施や学校林造成を位置づけた。そして「愛郷」が孕む地域エゴから免れるため,自然村から派生した自生的組織を官製的に再編し,国家のコントロール下の「愛郷」を生み出そうとした。このような国家の意図を,急激な近代化に対する嫌悪,反動として「愛郷」を再評価する空気が蔓延していた農山村は従順に受け入れたため,「愛郷」の精神は自生的組織から官製的組織へと拡がり,さらには行政村にも影響が及んだのである。In the Meiji period (1868-1912), natural villages built up new communal relations to manage their primary schools. Sometimes, they set up forested trust lands for their schools. These were called school forests. Some school forests were managed by these regional communities. In this paper the reasons for and methods of maintaining these school forests are examined. This paper explains the functional and systematic changes in the communal relations in the dual structure of natural villages and administrative villages from the Taisho period (1912-1926) to the Showa prewar period (1926-). This dual structure was the result of the local authority system in the Meiji period.The communal relations established school forests as a self-governing function when the modern education system was introduced. Until the commemorative forestation for the Taisho Imperial accession, school forests were established for the purpose of forestation and generating school funds. From the middle of the Taisho period, however, school forests became relatively unimportant.Under the national mobilization system, which was started in 1938 and was designed to strengthen the Imperial system, central government found school forestation to be a useful tool. The young men's associations, which were set up as self-governing organizations, were promoted as administration-governed organizations and the government regarded school forests as national resources.To change such communal relations, there was the so-called "Hometown patriotism", which converted the spirit of loving one's hometown into patriotism.