著者
三好 鮎子
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.93-111, 2009-03-24

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』は成長小説の一種として読むとき、詩的な意味において、エンデの「語り手論」としても読むことが可能になる。「ほらふき」と呼ばれていた主人公バスティアンは、人間界とファンタージエンの往還を経て、物語の語り手になったことが暗示される。「はてしない物語」を読むとは、バスティアンにとってどのような意味をもつことだっただろうか。バスティアンが往還したのは、どのような世界のあいだだったのか。これらのことを詳細に検討してみると、バスティアンがファンタージエンで得た特別なもの――〈想像し語る〉というバスティアンの特性を展開させたもの――の姿もまた見えてくる。/「人間界とファンタージエン」とは何を意味するのか。これらの世界――本の内と外――は、ほとんどの場合、「現実―非現実」という対比で理解される。確かにバスティアンは、初めは本の外の世界を「現実」、内の世界を「ただのお話」ととらえている。しかし、彼が〈現実に〉本の中へ巻き込まれてしまったことが明らかになるとき、この「現実―非現実」の区別はもはや意味をなさなくなる。バスティアンにとって、両方の世界が「現実」となるのである。/ヨッヘン・ヘーリッシュが「日常性」をこの物語のテーマとしてとらえているのは示唆的である。実際に、この物語において「日常―非日常」の対比が重要な意味を担っていることは、物語の論理を追うことで明らかに認めることができる。本の外の世界とは「日常の世界」、内の世界とは「非日常の世界」なのである。/バスティアンが成し遂げたのは、日常の世界と非日常の世界の往還だった。この物語において、日常と非日常を差異づける最も大きなものは、名と物語のあり方である。つまり、日常と非日常との差異とは、言語の働きの差異なのである。日常の世界においては、バスティアンの作る名や物語は役に立たないもの、「ほら」でしかないのに対し、非日常の世界においては、それらは直ちに実体化する。名すなわち体となるのである。/バスティアンにとって特に重要な体験だったのは、コレアンダー氏も明言するように、ファンタージエンに友人ができたことだった。その友人アトレーユは、バスティアンの「代理人」としての性格をもつ。彼は、「バスティアンの名において」、バスティアンがファンタージエンで始めた物語をすべて終わらせるという課題を引き受ける。バスティアンを物語のなかに引きずり込んだ張本人であり、また帰した者、バスティアンの課題を引き受けた者である〈詩の言葉〉としてのアトレーユこそ、バスティアンを「ほらふき」から「語り手」へと成長させることになる特別な存在である。/〈アトレーユがバスティアンの名においてバスティアンの物語を締めくくる〉とは、それではどういうことなのか。アトレーユの性格をエンデの詩学に照らして考えてみると、次のように解釈できるように思われる。大人になって作家となったバスティアンの、名――ファンタージエンに行ってきた彼にとっては、すなわち体――を借りて、バスティアンの内なる〈詩の言葉〉であるアトレーユが、物語の続きを書くのだと。

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http://hdl.handle.net/2261/26648 あとでpdfがっつり読ませていただく。

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