- 著者
-
高川 晋一
- 出版者
- University of Tokyo (東京大学)
- 巻号頁・発行日
- 2006-03-23
近年、世界中で多くの植物種が絶滅の危機に瀕しており、その個体群再生の実践に寄与する保全生態学的知見の蓄積および具体的な技術や管理手法の確立が求められている。本研究は、霞ヶ浦において市民・行政・研究者の協働によって実施されている絶滅危惧植物アサザの個体群再生のとりくみと連携し、土壌シードバンクからの個体群および遺伝的多様性の再生の可能性やその手法を実践的、順応的に検討したものである。第1章では、研究の背景となる絶滅危惧種の個体群の保全と再生に関わる保全生態・遺伝学的知見を整理した。絶滅危惧植物の多くが個体群サイズの縮小した状態で残存しており、それらはさまざまな決定論的・確率論的要因が互いに絶滅を加速しあう「絶滅の渦」に巻き込まれている。個体群を再生して絶滅を回避するためには、個体群の存続に影響を及ぼす個体群統計学的要因と遺伝的要因の双方を理解することが欠かせない。絶滅危惧種の保全・再生は緊急性が高い一方で不確実性が高いため、現段階での最良の知見にもとづき実践を進め、それを通じて知見を蓄積していく順応的管理が有効であると思われる。また、絶滅危惧植物の個体群とその遺伝的多様性の再生の材料としては、地上個体群の消滅後も残存している可能性のある土壌シードバンクが有用であると期待される。第2章では研究対象種のアサザの生態と、保全上の観点から日本における現状を整理した。アサザは、かつては日本各地の湖沼やため池に広く分布していた多年性浮葉植物である。しかし、近年急速に衰退し、2003年の時点で確認された個体群数は全国でわずか67、その個体数は56ジェネットにすぎない。霞ヶ浦の個体群は、比較的多くのジェネットが残存し、有性繁殖に必要な長花柱花・短花柱花の両花型が全国で唯一確認される個体群である。しかし、この個体群も湖の水位操作が強化された1996年から急激な衰退が進行し、2000年までに局所個体群数は34から14に、残存クローン数は19にまで減少した。霞ヶ浦南西岸の江戸崎町「鳩崎地区」の湖岸には、かつて複数花型からなるアサザ個体群が存在していたが、1998年に消滅した。その後も土壌シードバンク(土壌中の休眠種子)から実生が出現しているが、これらはすべて定着に失敗している。個体群の絶滅を回避し、その遺伝的多様性を維持するには、有性繁殖に関わる各生活史段階の環境要求性を明らかにし、その条件を保障することで個体数の回復を促す必要がある。その際、遺伝的な現状を把握し、遺伝的側面も配慮した再生計画を立案することがのぞまれる。第3章では、土壌シードバンクからの個体群の再生の前提となる、アサザのセーフサイトの環境条件を小規模な再生実験によって検討した。アサザの発芽と実生定着に必要な「セーフサイト」は、その発芽特性と過去の霞ヶ浦の水位変動パターンから、「春先の季節的水位低下で湖岸に露出する裸地的環境」であると推測されている。2002年に鳩崎地区の湖岸において、この仮説を検証しつつ実際に実生更新を促す目的で小規模な再生実験を実施した。現在の湖岸では利水を目的とした水位操作により春先の水位低下が生じないため、仮説上のセーフサイトの条件を含むように波浪条件や冠水頻度、光条件の変異幅を人為的に拡張し、導入した実生の生存と成長を比較することで仮説を検証した。その結果、実生の生存には冠水期間と光条件の両方が強く影響し、調査期間中の冠水期間が30%以下、相対光量子密度が50%以上の環境でのみ、75%以上の実生が定着した。このことは、アサザのセーフサイトは春先の水位低下で出現する裸地的環境であるという仮説を支持するものであり、自然の実生更新のためには過去の季節的水位変動パターンの回復が重要であることが示唆された。また実験を通じて計136個体を定着させることに成功し、個体群再生の材料としての土壌シードバンクの有効性が強く示唆された。第4章では、土壌シードバンクから再生される実生集団における近交弱勢を、遺伝解析と栽培実験によって検討した。再生実験により実生定着を促すことができたが、個体群の消滅直前に生産された種子がシードバンクに大きく寄与している場合には、最後まで残存していた等花柱花ジェネットの自殖子孫の比率が大きいはずである。そこで、2003年に土壌シードバンクから出現した実生(n=190)を湖岸3ヶ所(鳩崎・古渡・稲荷鼻)から採取し、(1)受粉実験により作成した自殖および他殖由来の子孫を対照として、それらの実生の生活史初期段階における適応度成分を定量的に評価し、(2)遺伝マーカーを用いた解析によりシードバンクを生産した親個体の数や交配時の自殖・近親交配の程度を推定することで、再生される個体群における近交弱勢の影響を評価した。遺伝解析の結果からは、実生集団はわずか2から8個体の親に由来し、2つの集団において等花柱花ジェネットの自殖に由来する実生が圧倒的に優占(古渡86.8%、稲荷鼻94.7%)していることが判明した。しかし、地上部個体群から既に失われている対立遺伝子をもつ実生も59個体(全体の31%)確認された。主に自殖由来と考えられるそれらの実生の乾重量や相対成長率などの適応度成分は、自殖子孫と同程度であった。このことから、縮小した個体群の再生にあたってはボトルネックに起因する遺伝的悪影響を十分に考慮することの重要性が示された。第5章では、アサザの個体群再生の実践に先だって必要な各生活史段階における基礎的な生態学的知見を得るための研究について記した。残存する土壌シードバンクは、個体群サイズ(第3章)や遺伝的多様性(第4章)の回復の材料として有効であることが示された。局所個体群が近年消滅した湖内の他の湖岸においてもシードバンクを活用した再生の可能性を、各地点の湖岸における実生発生密度とその経年変化を調査することで検討した。湖岸での実生発生密度は2ヶ所(鳩崎・古渡)を除いて極めて低かった。また、鳩崎での実生発生密度は個体群消滅直後の1999年の43.4個体/m2から2005年には1.1個体/m2まで指数関数的に減少した。古渡では第3章と同様の手法でシードバンクの活用が可能であり早急に再生を実施する必要があること、他の場所では遺伝的多様性を保存するために実生を採取して系統保存する必要があること示された。現在の水位条件でも実生定着を促すことができるものの(第3章)、定着後には季節的な水位上昇が生じない。水位条件が定着後の成長に及ぼす影響を評価するため、野外実験池における異なる水位条件での定着個体の成長を比較した。その結果、非冠水条件では走出枝伸長や成長が強く抑制された。定着後のクローン成長には冠水条件での生育が必須であることが示された。霞ヶ浦における残存シードバンクは等花柱花の自殖子孫が優占的であり(第4章)、次世代以降における等花柱花の優占が懸念される。栽培実験により各花型の自殖子孫とシードバンク由来の個体の花型比を調査した。シードバンク由来の個体での等花柱花個体の優占が認められた。このことから再生される個体群における異型花柱性の崩壊が懸念される。第6章では、霞ヶ浦の湖岸植生帯緊急保全対策事業の一環として2000年から鳩崎地区の湖岸で実施されているアサザ個体群の再生事業において、仮説検証のための科学的実験と位置付けて事業を実施する「順応的管理」を適用することで、アサザ個体群の再生・維持に必要な科学的知見を蓄積しつつ個体群の再生をすすめた研究の成果をまとめた。実生定着セーフサイトとして推測される「波浪や冠水の影響の少ない裸地的環境」が、湖岸200mの範囲に土木工学的に整備された。一方で、事業の不確実性に備えて実生の系統保存がおこなわれた。2002年には267個体の定着個体が確認されたが、定着後の水位上昇が生じないことや抽水植物の優占による裸地的環境の消失により、2年後には生存数は65個体まで減少した。第5章で得られた知見にもとづいて、(1)適度な波浪により定着個体が生育する場の比高の低下を促す処理および、(2)系統保存株の湖への移植という手法により、冠水条件での定着後の定着を実現する新たな管理を2004年から実施した。その結果、(1)の手法では地形変化は限定的であり浮葉型での生育を実現できなかったが、(2)の手法では、全ての個体が生残して開花に十分なサイズまで成長し、種子生産とともに近隣の湖岸での実生の出現が確認された。生活補完アプローチを順応的管理の下で実施したことで、アサザの各生活史段階の環境要求性に関する知見が得られ、一部ではあるが実生更新を実現させることができた。しかし、自立的に有性繁殖が可能な個体群の再生には、霞ヶ浦本来の水位変動パターンの回復をまたなくてはならない。第7章では本研究から得られた絶滅危惧植物の個体群再生に寄与する知見を総合的に整理した。本研究では、アサザの生活史の各段階における制限要因と生活史全体の環境要求性を解明するとともに、有性繁殖のプロセスを人為的補助手段により補完することで、部分的に個体群を再生することに成功した。また、本研究を通じて、絶滅危惧植物の個体群サイズと遺伝的多様性の回復の材料としての土壌シードバンクの有効性や、このような再生の実践における順応的なとりくみの有効性、個体群の再生における遺伝的要因の重要性が明らかにされた。