著者
重山 陽一郎
出版者
University of Tokyo (東京大学)
巻号頁・発行日
2004-05-20

■研究の背景と意義// 「景観デザイン(土木分野で主に「美」を対象としたデザイン)」は、まだまだ若い分野であり、景観デザインを担う人材は全く不足している。// また、大学の土木関連学科では設計に関する職能教育をほとんど行っていないため、卒業してもプランニングもデザインもできない。このような訓練は就職後の実務教育に任されてきたが、社会情勢が変化し、企業は新人を一から教育する余裕をなくしつつある。これからの大学の土木関連学科では、計画や設計の能力を育成し、就職直後からある程度の戦力となるようにしなければならない。// しかし、優れた景観デザインの専門家を育成する方法は未だ確立されておらず、そのレベルは他の領域よりも明らかに低い。本研究は、景観デザイン教育のありかたを明らかにすることによって、短期的には優れた景観デザインの担い手の育成を、長期的には優れた景観の創出を志すものである。//■研究の目的と方法// 景観デザイン教育は、既に少数の大学において実行されている。これらの教育は、建築デザイン教育などを手本とし、大学教員や実務設計者との議論をふまえて構築されている。その過程で、景観デザイン教育のありかたについては、経験的にだいたい分かっていることが既にいくつかある。本研究の目的は、この「だいたい分かっていること(初期案)」を検証し、改良を加えて新たな景観デザイン教育のあり方を提案することである。// 検証の第1の方法は、建築デザイン教育に関する調査である。デザイン教育の点では、建築学は、土木工学よりもはるかに先輩であり、景観デザイン教育について考えるには、まず、建築デザイン教育について学ぶ必要がある。建築デザイン教育と、そこから育った人材、成果としての建築物などを調査・分析することにより、建築デザイン教育の特徴や課題を浮き彫りにし、翻って、従来の土木デザイン教育との比較を行うことにより、景観デザイン教育のあり方を検証する。第2の検証方法は、筆者が現在携わっている景観デザイン教育の経験に基づくものであり、初期案の改良を提案する。//■研究の枠組み// 本研究の枠組みを、図1に示す。// 本研究では、まず第1章「序章」で研究全体の背景や目的、研究の枠組みについて整理した。また、既往研究を概観し、景観デザイン教育について、既にだいたい分かっていることを整理し「景観デザイン教育のありかた:初期案」としてまとめた。// 第2章「優れた建築家の学歴・職歴」、第3章「インタビューによる建築デザイン教育の調査」、第4章「教員とカリキュラムの大学間比較」、第5章「建築デザインの評価基準の特徴と課題」では、上記の「初期案」を検証するために、建築デザインと建築デザイン教育について調査を行い、それを参考にして、景観デザイン教育のいくつかの項目について検証や、改良への示唆を得た。また、第6章では、それまでの研究内容を「結論1:建築デザイン教育の特徴と課題」としてまとめた。// 第7章「建築デザインと従来の土木デザイン、および景観デザインの評価基準の相違」では、建築デザイン教育から何を学び、何を改良すべきか明らかにするために、建築デザインと従来の土木デザイン、および景観デザインの評価基準の相違を把握した。これらに基づいて景観デザイン教育のいくつかの項目について検証や、改良への示唆を得た。// 第8章では、これまでの検証や改良への示唆を受けて、「結論2:景観デザイン教育のあり方」を提案した。また、この提案は筆者によって既に実践されており、その内容は第9章「景観デザイン教育の実践」で報告した。教育実践に基づいた評価と改良への示唆はフィードバックされ、第8章では、筆者の教育実践に基づいた提案も行った。//■結論:景観デザイン教育のあり方//□前提条件// 優れた建築家の出身大学は、極めて少数の大学に偏在しており、職歴についても偏りがある。ある学歴・職歴のパターンに沿って修行することは、優れた建築家になるための必要条件に近く、これ以外の学歴・職歴では可能性がかなり低い。したがって、優れた建築家は建築家自身の努力や偶然だけで育成されるのではなく、優れた建築家を育てる建築デザイン教育が確かに存在する。したがって、優れた景観デザインの専門家を育成する教育も存在し得ると考えられる。//□教育目標:どのような人材が必要なのか// 建築デザイン教育の調査結果に基づき、景観デザイン教育が育成する人材が身につけるべき能力を提案した。また、筆者の教育実践の経験に基づき、それらの教育を行うべき時期や手段によって分類した。//□教育内容// 建築デザイン教育の内容について、従来の土木デザイン教育との比較を行い、両者に共通の項目と建築デザイン教育独自の項目に分類したものが表1である。表の左側(建築独自の項目)は、インタビューにおいて建築家が師匠から学んだこととして力説する項目でありながら従来の土木デザイン教育では抜け落ちているため、景観デザイン教育ではこれらの項目も重視すべきであろう。また、筆者の教育実践の経験に基づき、教育目標として提案した能力毎に、具体的な教育内容を提案した。//□教育方法// 建築デザイン教育の調査では、優れた建築家を多数輩出する大学では、設計演習に非常に長い時間を割いていることが明らかとなった。したがって、景観デザイン教育においても設計演習の充実が必要だと考えられる。しかし、その時間数の目安は判断が困難な問題である。というのは、建築の設計演習の時間数が、土木に比べてはるかに多く、容易にその差を詰めることができるとは考えられないからである。これは、土木工学の扱う施設の範囲が非常に広いため、やむを得ない面がある。優れた景観デザイン教育を行うためには、設計演習の時間数を増やすことが望ましいが、その時間数は建築との比較で判断できるものではなく、土木関連学科の教育内容や教育方法を全体的に見直し、そこでの議論に基づいて判断するものであろう。// 筆者の教育実践に基けば、設計演習は学部で135時間、大学院で56時間程度が望ましいと提案した。//□教員// 建築デザイン教育においては、プロフェッサーアーキテクトが決定的に重要性であることが明らかとなった。優れた建築家を多数輩出する大学では、数多くの優れた建築家が大学教育者を兼務している。したがって、景観デザイン教育においてもプロフェッサーアーキテクト(実務経験者)の存在が重要であることは明らかである。土木分野では設計の実務者が大学教員を兼ねる例は極めて少ないが、今後はそれを増やすことが必要である。// 筆者の教育実践に基づく提案としては、大学の土木関連学科では、最低4人の実務経験者が必要だと提案した。4人とは、プランニング、意匠設計、構造設計、施工の実務経験者である。//□学生// 既往研究によれば、優れた建築家となる可能性の高い学生は、絵画、彫刻などの芸術的センスと、理数系の興味と力量を併せ持っている学生である。また、本研究では、優れた建築家の多くが高校の成績も優秀であることが明らかとなった。景観デザイン教育に求められる学生像も同様だと考えられ、このような学生を招くためには、入学試験にデッサンなどの実技を取り入れることも考えられる。しかし、残念ながらほとんどの土木関連学科は、現状では志願者が少ないため学生を選り好みできる状態ではない。今後はまず、若者に土木工学の魅力を伝えるところからスタートしなければならない。//□教育環境・設備、ほか// 前述のように、建築デザイン教育にとって設計演習は非常に重要である。本研究では、教育設備に関する調査は行っていないが、どこの大学でも建築学科には設計演習室があり、学生の創作活動の拠点となっている。一方、土木関連学科では設計演習室が充分に備えられていることは少ない。// 景観デザインでは、建築デザインよりも広いスケールをデザインの対象とする場合が多いため、巨大な模型を作成する必要が出てくる。このようなスペースの確保は難しい問題ではあるが、それなしでは景観デザイン教育が非常に困難となることも確かである。// 筆者の教育実践に基づけば、低学年では設計演習の敷地を小規模に押さえることにより、学生は自宅での図面や模型の製作が可能であり、高学年で履修者が絞られた後に、1人1台のテーブルを用意した設計演習室を用意することが望ましいと提案した。また、ワークステーション室や、優れた事例のデータベースの重要性なども指摘した。
著者
小松 正之
出版者
University of Tokyo (東京大学)
巻号頁・発行日
2004-04-09

本論文は、1991年から2003年までの13年間、連続して国際捕鯨委員会(lWC)の政策決定に関与した筆者が、鯨類等の国際海洋水産資源の持続的利用を推進するための新たな政策の立案とその実施に関する研究結果を記述したものである。// 1972年6月ストックホルムで開催された国連人間環境会議は、10年間の商業捕鯨モラトリアムを採択した。これを受けて旧捕鯨国(英、米、豪、NZ等)は捕鯨反対行動を展開し、1982年にIWCは商業捕鯨モラトリアムを採択し、これが1986年に発効した。日本は異議申立を行ったが、1986年に撤回し、1988年以降商業捕鯨を一時停止した。商業捕鯨モラトリアムを見直すために必要な作業として、IWCは包括的資源調査評価(CA)をミンク鯨などについて開始し、いくつかの種の系統群については終了した。また資源を保護しながら最小限の捕獲枠を与える手続(procedure)である改訂管理方式(RMP)が、すでに1992年に完成している。// さらに商業捕鯨モラトリアムは、遅くとも1990年までには見直しのための検討をするとの合意がIWCにおいて合意されていたにもかかわらず、14年が過ぎた現在でも資源量が豊富な鯨類(ミンク鯨約100万頭、マッコウ鯨約200万頭など)についてすら捕鯨が再開される兆しは見られない。そこで日本は、死亡率や加入率などの生物学的な指標を得て、資源を持続的かつ安全に管理することを主目的として、国際捕鯨取締条約第八条に基づく調査捕鯨を1987/88年漁期から開始した。// 1991年8月から水産庁の捕鯨担当課長補佐に任ぜられて以来筆者は、鯨類の国際海洋水産資源の持続的利用を目的として設立されたIWCが、上記のような機能不全状況にあることを是正するために、達成可能な政策をいかに中長期的視点で企画立案すべきかを海洋動物資源政策科学の立場から検討してきた。また立案された政策をいかに実施すべきかについて検討し、実際の実施に移すと同時に、その実施結果を再検討することによって、より優れた政策立案を行うというフィードバックシステムを確立した。// 企画立案された政策は、以下の3点に要約される。(1)IWC科学委員会とIWC本会議運営の改善政策、(2)国連食料農業機関(FAO)、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(CITES)等、IWC以外の国際機関との提携・活用政策、(3)IWC総会の日本開催推進等による国内理解の向上政策。// (1)IWC科学委員会とIWC本会議運営の改善政策として筆者はまず、IWC科学委員会に参加する日本の科学者陣の力量と経験の向上のために、資源の持続利用を支持する経験豊かな外国の研究者陣と日本の研究者陣の交流システムを立案し、実行に移した。この結果、日本の科学者陣は現在では独自の十分な対応が可能となった。さらに、1994年から筆者が議長となって、国際海洋水産資源の持続的利用に関するシンポジウムを毎年開催した。その結果、国際海洋水産資源の持続的利用に関する科学・技術の進展が図られたと同時に、持続的利用を志向する国々のIWC加入が促進され、また持続的利用を科学的見地から理解しうる国々(いわゆる中立国)との相互理解が深まった。// 少なからぬ発展途上の沿岸国は、自国沿岸域で鯨類が繁殖し、多量の魚介類の捕食することによって、自国の漁業資源が枯渇するのではないかと危倶しており、鯨類の資源管理に関する科学的情報を求めたいという希望をもっている。このような開発途上国の要望を実現化するために、彼らのIWC加盟を容易にすべく、分担金を軽減する必要があると考えた筆者らは、国連分担金方式をIWCに導入することを日本の提案に盛り込むことに努めた。その結果、2002年に下関総会で開発途上国の分担金の軽減が決定されるという成果を得た。またデンマークと共同して、本会議のプレスへの開放、テレビカメラ持ち込み等を提案するという提案を立案し、可決されることによってIWCの透明性が確保されるという成果を得た。さらに英語のみを正式な公用語に指定しているIWCにおいて、仏語、西語を母国語とする西アフリカ諸国等のために、通訳の導入促進を推し進める提案を行い実施に移した。// (2)国連食料農業機関(FAO)、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(CITES)等、IWC以外の国際機関との提携・活用政策として、筆者はFAOに勤務した経験を生かし、1995年FAOの技術的支援を得る枠組みを作成・実施し、さらに日本政府主催の『食料安全保障のための漁業の持続的貢献に関する国際会議」の開催を計画・実施した。この会議(京都会議)は、世界最大の95ヶ国が参加し、鯨を含む複数種一括管理の導入、鯨を含む生態系の全部の要素を満遍なく利用すべきことなどを盛り込んだ京都宣言及び行動計画を採択した。また2001年FAO水産委員会において、日本人として初めての議長を務め、漁業と鯨類の相互作用に関する研究の推進に関する国際的注目を集めたパラグラフ(第24回水産委員会レポートパラグラフ39)を採択することに成功した。// 絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(CITES、ワシントン条約)は、現在世界164ヶ国を加盟国とするより広範な会議であり、発展途上加盟国が多数を占める。1997年ジンバブエで開催の第10回CITES締約国会議では、我が国が提案した南氷洋ミンク鯨のダウンリスティング提案が賛成53対反対59と過半数に迫る支持を得たのは、鯨類等の国際海洋水産資源の持続的利用に関する政策が成果をあげつつあることを示していると考えられる。// (3)IWC総会の日本開催推進等による国内理解の向上政策として、1993年に第45回IWC総会を28年ぶりに日本(京都)で開催したこと、および2002年に第54回IWC総会を下関において開催したことがあげられる。とくに後者のIWC総会開催については、下関市と連携しながら強力にIWCへ働きかけたことが功を奏したものと考えられる。これら2回の日本におけるIWC総会開催によって、鯨類等の国際海洋水産資源の持続的利用に関する国内世論が盛り上がり、風化しかけた捕鯨の重要性が再認識されるという成果を得た。// 鯨類等の国際海洋水産資源の持続的利用については、法的根拠と科学的証拠に基づく主張のみでは、国内外の多くの人々の支持を得ることが困難であると考えた筆者は、法的根拠と科学的証拠を基本としつつ、日本と西洋の捕鯨と食についての歴史と文化の差異について分析し、主張することを新たな施策に取り入れることを試みた。すなわち、日本の捕鯨が鯨体完全利用を特徴としていること、また慰霊祭など自然への感謝の行事を伝統的に保持していることは、鯨類を乱獲することなく持続的に利用することと協働するものであること、さらに現在進めている調査捕鯨の経験を生かした科学情報収集型捕鯨として、未来捕鯨の原型となることを検証し、その優位性を主張することである。// 設立目的から逸脱し機能不全を呈している国際漁業機関はIWCのみではなく、オーストラリア・NZと日本とが対立し、意思決定ができない「みなみまぐろ保存委員会」(CCSBT)も同様の状況を呈していた。すなわち、インドマグロ(ミナミマグロ)の資源回復が充分に図られたと判断した日本は1995年から総漁獲可能量(TAC)の増大を要求したが、その基礎とするため日本が1998年に自国の責任において実施した調査漁獲計画(EFP)を、環境保護色の強いオーストラリアとNZは国連海洋法条約第15部に基づき仲裁に訴えた。また暫定措置要求が両国から提出され、国際海洋法裁判所での審理の結果、我が国は事実上敗訴した。// しかし、科学的根拠に基づいてミナミマグロの持続的利用の正当性を訴えた日本は、2000年に国際仲裁裁判において逆転勝訴することができた。このように法的根拠と科学的証拠に基づく政策を立案し、その正当性を立証する行動計画を実施することによって、CCSBTのような機能不全を呈している国際漁業機関を正常化することが可能であると考えられる。一方、IWCにおいては依然として不正常な状況が続いているが、本論文において示した国際海洋水産資源の持続的利用を推進するための政策の立案と実施の成果を教訓として、より優れた中長期政策を立案・実施することによって、改善が図られるものと考えられる。
著者
高川 晋一
出版者
University of Tokyo (東京大学)
巻号頁・発行日
2006-03-23

近年、世界中で多くの植物種が絶滅の危機に瀕しており、その個体群再生の実践に寄与する保全生態学的知見の蓄積および具体的な技術や管理手法の確立が求められている。本研究は、霞ヶ浦において市民・行政・研究者の協働によって実施されている絶滅危惧植物アサザの個体群再生のとりくみと連携し、土壌シードバンクからの個体群および遺伝的多様性の再生の可能性やその手法を実践的、順応的に検討したものである。第1章では、研究の背景となる絶滅危惧種の個体群の保全と再生に関わる保全生態・遺伝学的知見を整理した。絶滅危惧植物の多くが個体群サイズの縮小した状態で残存しており、それらはさまざまな決定論的・確率論的要因が互いに絶滅を加速しあう「絶滅の渦」に巻き込まれている。個体群を再生して絶滅を回避するためには、個体群の存続に影響を及ぼす個体群統計学的要因と遺伝的要因の双方を理解することが欠かせない。絶滅危惧種の保全・再生は緊急性が高い一方で不確実性が高いため、現段階での最良の知見にもとづき実践を進め、それを通じて知見を蓄積していく順応的管理が有効であると思われる。また、絶滅危惧植物の個体群とその遺伝的多様性の再生の材料としては、地上個体群の消滅後も残存している可能性のある土壌シードバンクが有用であると期待される。第2章では研究対象種のアサザの生態と、保全上の観点から日本における現状を整理した。アサザは、かつては日本各地の湖沼やため池に広く分布していた多年性浮葉植物である。しかし、近年急速に衰退し、2003年の時点で確認された個体群数は全国でわずか67、その個体数は56ジェネットにすぎない。霞ヶ浦の個体群は、比較的多くのジェネットが残存し、有性繁殖に必要な長花柱花・短花柱花の両花型が全国で唯一確認される個体群である。しかし、この個体群も湖の水位操作が強化された1996年から急激な衰退が進行し、2000年までに局所個体群数は34から14に、残存クローン数は19にまで減少した。霞ヶ浦南西岸の江戸崎町「鳩崎地区」の湖岸には、かつて複数花型からなるアサザ個体群が存在していたが、1998年に消滅した。その後も土壌シードバンク(土壌中の休眠種子)から実生が出現しているが、これらはすべて定着に失敗している。個体群の絶滅を回避し、その遺伝的多様性を維持するには、有性繁殖に関わる各生活史段階の環境要求性を明らかにし、その条件を保障することで個体数の回復を促す必要がある。その際、遺伝的な現状を把握し、遺伝的側面も配慮した再生計画を立案することがのぞまれる。第3章では、土壌シードバンクからの個体群の再生の前提となる、アサザのセーフサイトの環境条件を小規模な再生実験によって検討した。アサザの発芽と実生定着に必要な「セーフサイト」は、その発芽特性と過去の霞ヶ浦の水位変動パターンから、「春先の季節的水位低下で湖岸に露出する裸地的環境」であると推測されている。2002年に鳩崎地区の湖岸において、この仮説を検証しつつ実際に実生更新を促す目的で小規模な再生実験を実施した。現在の湖岸では利水を目的とした水位操作により春先の水位低下が生じないため、仮説上のセーフサイトの条件を含むように波浪条件や冠水頻度、光条件の変異幅を人為的に拡張し、導入した実生の生存と成長を比較することで仮説を検証した。その結果、実生の生存には冠水期間と光条件の両方が強く影響し、調査期間中の冠水期間が30%以下、相対光量子密度が50%以上の環境でのみ、75%以上の実生が定着した。このことは、アサザのセーフサイトは春先の水位低下で出現する裸地的環境であるという仮説を支持するものであり、自然の実生更新のためには過去の季節的水位変動パターンの回復が重要であることが示唆された。また実験を通じて計136個体を定着させることに成功し、個体群再生の材料としての土壌シードバンクの有効性が強く示唆された。第4章では、土壌シードバンクから再生される実生集団における近交弱勢を、遺伝解析と栽培実験によって検討した。再生実験により実生定着を促すことができたが、個体群の消滅直前に生産された種子がシードバンクに大きく寄与している場合には、最後まで残存していた等花柱花ジェネットの自殖子孫の比率が大きいはずである。そこで、2003年に土壌シードバンクから出現した実生(n=190)を湖岸3ヶ所(鳩崎・古渡・稲荷鼻)から採取し、(1)受粉実験により作成した自殖および他殖由来の子孫を対照として、それらの実生の生活史初期段階における適応度成分を定量的に評価し、(2)遺伝マーカーを用いた解析によりシードバンクを生産した親個体の数や交配時の自殖・近親交配の程度を推定することで、再生される個体群における近交弱勢の影響を評価した。遺伝解析の結果からは、実生集団はわずか2から8個体の親に由来し、2つの集団において等花柱花ジェネットの自殖に由来する実生が圧倒的に優占(古渡86.8%、稲荷鼻94.7%)していることが判明した。しかし、地上部個体群から既に失われている対立遺伝子をもつ実生も59個体(全体の31%)確認された。主に自殖由来と考えられるそれらの実生の乾重量や相対成長率などの適応度成分は、自殖子孫と同程度であった。このことから、縮小した個体群の再生にあたってはボトルネックに起因する遺伝的悪影響を十分に考慮することの重要性が示された。第5章では、アサザの個体群再生の実践に先だって必要な各生活史段階における基礎的な生態学的知見を得るための研究について記した。残存する土壌シードバンクは、個体群サイズ(第3章)や遺伝的多様性(第4章)の回復の材料として有効であることが示された。局所個体群が近年消滅した湖内の他の湖岸においてもシードバンクを活用した再生の可能性を、各地点の湖岸における実生発生密度とその経年変化を調査することで検討した。湖岸での実生発生密度は2ヶ所(鳩崎・古渡)を除いて極めて低かった。また、鳩崎での実生発生密度は個体群消滅直後の1999年の43.4個体/m2から2005年には1.1個体/m2まで指数関数的に減少した。古渡では第3章と同様の手法でシードバンクの活用が可能であり早急に再生を実施する必要があること、他の場所では遺伝的多様性を保存するために実生を採取して系統保存する必要があること示された。現在の水位条件でも実生定着を促すことができるものの(第3章)、定着後には季節的な水位上昇が生じない。水位条件が定着後の成長に及ぼす影響を評価するため、野外実験池における異なる水位条件での定着個体の成長を比較した。その結果、非冠水条件では走出枝伸長や成長が強く抑制された。定着後のクローン成長には冠水条件での生育が必須であることが示された。霞ヶ浦における残存シードバンクは等花柱花の自殖子孫が優占的であり(第4章)、次世代以降における等花柱花の優占が懸念される。栽培実験により各花型の自殖子孫とシードバンク由来の個体の花型比を調査した。シードバンク由来の個体での等花柱花個体の優占が認められた。このことから再生される個体群における異型花柱性の崩壊が懸念される。第6章では、霞ヶ浦の湖岸植生帯緊急保全対策事業の一環として2000年から鳩崎地区の湖岸で実施されているアサザ個体群の再生事業において、仮説検証のための科学的実験と位置付けて事業を実施する「順応的管理」を適用することで、アサザ個体群の再生・維持に必要な科学的知見を蓄積しつつ個体群の再生をすすめた研究の成果をまとめた。実生定着セーフサイトとして推測される「波浪や冠水の影響の少ない裸地的環境」が、湖岸200mの範囲に土木工学的に整備された。一方で、事業の不確実性に備えて実生の系統保存がおこなわれた。2002年には267個体の定着個体が確認されたが、定着後の水位上昇が生じないことや抽水植物の優占による裸地的環境の消失により、2年後には生存数は65個体まで減少した。第5章で得られた知見にもとづいて、(1)適度な波浪により定着個体が生育する場の比高の低下を促す処理および、(2)系統保存株の湖への移植という手法により、冠水条件での定着後の定着を実現する新たな管理を2004年から実施した。その結果、(1)の手法では地形変化は限定的であり浮葉型での生育を実現できなかったが、(2)の手法では、全ての個体が生残して開花に十分なサイズまで成長し、種子生産とともに近隣の湖岸での実生の出現が確認された。生活補完アプローチを順応的管理の下で実施したことで、アサザの各生活史段階の環境要求性に関する知見が得られ、一部ではあるが実生更新を実現させることができた。しかし、自立的に有性繁殖が可能な個体群の再生には、霞ヶ浦本来の水位変動パターンの回復をまたなくてはならない。第7章では本研究から得られた絶滅危惧植物の個体群再生に寄与する知見を総合的に整理した。本研究では、アサザの生活史の各段階における制限要因と生活史全体の環境要求性を解明するとともに、有性繁殖のプロセスを人為的補助手段により補完することで、部分的に個体群を再生することに成功した。また、本研究を通じて、絶滅危惧植物の個体群サイズと遺伝的多様性の回復の材料としての土壌シードバンクの有効性や、このような再生の実践における順応的なとりくみの有効性、個体群の再生における遺伝的要因の重要性が明らかにされた。