- 著者
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松尾 尊兌
- 出版者
- 京都大學人文科學研究所
- 雑誌
- 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
- 巻号頁・発行日
- vol.98, pp.117-142, 2009-12-30
佐々木惣一は憲法学者として大正デモクラシー運動の先頭に立ち,とくに学問の自由,大学自治確立のため奮闘した。一方,近衛文麿は首相として日中戦争を全面化し,日独伊三国同盟を結び,国内の戦争体制を整備した責任者である。権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後,ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行った。この関係はどうして生まれたのか。近衛は京大学生時代,佐々木の講義は聞いたが,親しい関係はなかった。二人の接触が証明されるのは,1939年,近衛が首相を平沼騏一郎に譲り,無任所大臣に就任したときである。このとき近衛は枢密院議長を兼任したが,憲法違反の疑いをかけられ,京都の佐々木を訪問して教えを乞うた。その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難したが,太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣,早期和平実現計画の一員に加わる。敗戦直後,マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示する。近衛が相談相手に佐々木を選んだのは,戦争末期の協力関係によるものである。佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていたのでこれに応じた。佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画であったが実現しなかった。内大臣府廃止により,憲法改正作業は打切られ,近衛は要綱だけを,佐々木は全文を天皇に報告したが,これは二人の問に意見の対立があったからではない。二人はともに,天皇主権という帝国憲法の形式(国体)を維持したままに,内容を民主主義的自由主義的に改めることを意図した。国体を維持するためには,昭和天皇は戦争責任を負って退位すべきだとの暗黙の合意も,二人の間には存在した。近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと,その遺志をつぐように佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対する一方,皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張した。ただし新憲法の内容のデモクラシーには賛成し,新憲法が成立すると,国民は新憲法を尊重して,これを守るよう説いた。