著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.1-32, 2016-07-30

本論は, フロイトの代表的著作である『夢解釈』の冒頭にかかげられた銘, 「天上の神々を説き伏せられぬのなら, 冥界を動かさん」から出発して, 精神分析の始まりを印すフロイト思想に新たな光を投げかける試みである。第一節では, 『夢解釈』が出版される一八九九年以前のフロイトに着目しつつ, この著作の執筆が, 神経症論の著作の断念によって可能となったものであることを確認する。またそこでは, 上記の銘の由来であるヴェルギリウスの『アエネーイス』を参照しながら, 『夢解釈』の執筆が, この断念に対する一種の復讐であり, 一般的神経症論の転覆を企図するものであったことを確かめる。そこにおいて我々は, 正常と異常のあいだの分断を撹乱し, これに代えて諸葛藤の平面の理論を構築しようとするフロイトの姿を認めることとなる。続く第二節では, このようなフロイトの姿を『ヒステリー研究』における抑圧理論との関連から吟味する。そこでは連続的な表面のうえを伝播する力としての抑圧概念の意義が確認される。さらに第三節では, 『夢解釈』におけるフロイト独自の叙述スタイルが, 臨床的な夢解釈のスタイルと平行的であることを論じ, その特徴としての多重性について明らかにする。第四節においては, 上記のような視座を反映するものとして, 迷宮状の心的構成を描き出す『ヒステリー研究』の一節を検討するとともに, 同時にそれとは異なる理論化の方向性との関係を見る。この後者とは, 心的構成を階層化によって整理しようとするものであり, 力の伝播の問題を垂直的な分断性に変換するものと考えられた。最後に第五節では, この後者の理論化の方向性を, 『夢解釈』の背景でフロイトが取り組んだ父性の問いとの関連で考察する。そこでは父への「畏敬」との関連のもとで, 夢の荒唐無稽性が, 諸葛藤の平面としてではなく, 地下性として上層に対立するようになることを確認した。こうして本論はフロイトが, 深層を理論化するにあたり二重の立場のあいだで揺らぎつつ, 思考していることを明らかにした。
著者
能川 泰治
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.91-112, 2013-03-29

本稿の課題は,いわゆる十五年戦争と大阪城との関係について,これまでの大阪城の歴史の中で紹介されてこなかった事例を紹介し,大阪城は戦争動員に関してどのような役割を果たしたのかという点について,考えようとするものである。日中戦争が長期化し,さらにアジア太平洋戦争が始まろうとしていたとき,陸軍の中から大阪城を戦没者慰霊空間として改造する試みが浮上していた。大阪城内に大阪国防館という軍国主義的社会教育施設を設け,さらに護国神社を移転させることにより,大阪城を戦没者慰霊空間として完成させようとしたのである。一方,大阪財界の太閤ファンによって結成された豊公会からは,豊臣秀吉顕彰の場として大阪城を活用しようとする提言があがっていた。長期戦を戦い抜くためにも秀吉を顕彰して加護を祈ることが必要であり,また,秀吉の神霊の加護を受けて滅私奉公に励むことが都市大阪の発展につながるというのである。このような豊公会の活動によって,大阪城天守閣は秀吉の神霊が宿る司令塔として位置づけられていた。つまり,戦時中の大阪城天守閣は,大大阪の帝国主義的対外膨張のシンボルとされていたのである。そして,豊公会からあがった提言は,大阪の軍・官・財及びジャーナリズムと歴史学者の提携の下に,市民を啓発する式典や展覧会として実現された。その中で大阪城天守閣は,ある時は秀吉の神霊が宿るランドマークとして,またある時は大東亜共栄圏構築の先駆者としての秀吉像を宣伝する歴史博物館として,長期化する戦争を市民が戦い抜くための精神的支柱としての役割を担っていた。それは大阪という大都市における戦時大衆動員と都市支配の一端を示すものであると言えよう。
著者
重田 みち
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.143-184, 2016-07-30

「夢幻能」という近代的概念は, 前後二場からなる幽霊能を主に指し, 世阿弥が確立したと説明されており, 20世紀後半以降, 能楽の専門的研究のみならず, 演劇論ほかさまざまな分野の論にひろく用いられている。しかし, 1920年代の佐成謙太郎の説にはじまるこの近代的概念が, 世阿弥周辺において作られた幽霊能の歴史的実態を的確に反映しているかどうかは疑問である。そこで, 20世紀後半以来の能の専門的研究の進展の成果に基づき, 「夢幻能」が能の様式に着目して導かれた概念であることを考慮して, 「夢幻能」と称されている当時の作品群について, あらためてその劇構造の類型的要素を比較分類し, 「夢幻能」の概念にとらわれずに整理すると, それらは制作史上の展開の観点から6種の段階に分類される。それは世阿弥を中心とした能役者が能の上演の中心の場を各地の寺社などから足利将軍家文化圏に移したことによって, 宗教性が濃厚なものから希薄なものへと, 能の質が変化していったことに伴う劇構造の型の時期的段階を示している。すなわち, 霊が夢中にではなく現実の場に姿を現す早い段階の〈現うつつ能〉, その後仏教説話の夢の話型を摂り入れて成立した〈夢能〉, 〈夢能〉の劇構造の要素が変容し, 夢の要素が曖昧化した〈半夢能〉, 夢の要素が脱落した世阿弥晩年期の〈脱夢能〉などの段階がある。また, 「夢幻能」の基本とされてきた幽霊能の二場物の形成も, 〈夢能〉以前に遡ると推測される。この中で, 足利義持時代には, 〈夢能〉の話形を活かして, 前代の義満時代とは異なる美意識に沿った, 奥深さや逆説的な発想を有する作品が新たに作られた。〈半夢能〉はそのような中で成立した型であると言える。したがって, これらの能は歴史的に見れば「夢幻能」として一括できないことが明らかである。能を歴史的に見る場合にも今日の能を論じる場合にも, これらの能を的確に位置づけるべく「夢幻能」の概念を新たにとらえ直し, 歴史的実態に見合った新しい概念や呼称を模索すべきである。本稿はその新たな方向へ踏み出そうとする試みである。
著者
京樂 真帆子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.157-191, 2020-06-30

1968年公開の映画『祇園祭』は, 室町時代の祇園会再興を素材に, 町衆自治の実像を描く時代劇映画である。幕府の妨害に対抗して, 町衆のための祇園祭を挙行する過程に焦点があてられた。これは, 史料『祇園執行日記』の記録を下敷きとし, 林屋辰三郎の町衆研究を映像化するものであった。この映画は, 中世社会の実像から乖離した歴史像を創り出し, 現在の祇園祭イメージにも影響を残している。本稿は, この新しい歴史像が創られていく過程を明らかにした。本稿では, この映画を企画した伊藤大輔が残した自筆原稿, 台本類を研究史料として活用した。京都文化博物館が保存する膨大な資料群は, 仮整理の状態である。本稿は, 映画『祇園祭』に関わる資料を改めて整理し, 表にまとめた。さらに, それらを活用することによって, 従来の映画研究手法(映像分析)とは別の新たな研究方法を提示した。それは, 脚本類および映像そのものを歴史史料として分析するという方法である。残された伊藤大輔の自筆構想メモ・原稿, 2段階の未定稿, 複数ある脚本の分析によって, 伊藤大輔の当初構想から映画に表現されるまでのストーリーの変遷を確認した。そして, 山内鉄也撮影台本などに残された現場メモと実際の映画との比較検討などで, 映像完成に向けての修正点について考察した。その中で, 山鉾の扱いの変遷や山門の描き方の変化を明らかにした。祇園会は, 都市的祭祀である神輿渡御と山鉾巡行の二つの要素からなる祭である。この山鉾巡行を都市住民による自治の象徴と捉え, 新たに祇園祭という名を与えて祇園会から分離独立させるという歴史像を映画は示した。自筆原稿の分析から, この歴史像を創り出したのは, 伊藤大輔であることを明らかにした。一ヶ月間つづく祇園祭の中で, 観光という視点から山鉾巡行にのみ注目が集まっている要因は, この映画が提示した歴史像の影響にあると考えられる。
著者
松尾 尊兌
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.117-142, 2009-12-30

佐々木惣一は憲法学者として大正デモクラシー運動の先頭に立ち,とくに学問の自由,大学自治確立のため奮闘した。一方,近衛文麿は首相として日中戦争を全面化し,日独伊三国同盟を結び,国内の戦争体制を整備した責任者である。権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後,ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行った。この関係はどうして生まれたのか。近衛は京大学生時代,佐々木の講義は聞いたが,親しい関係はなかった。二人の接触が証明されるのは,1939年,近衛が首相を平沼騏一郎に譲り,無任所大臣に就任したときである。このとき近衛は枢密院議長を兼任したが,憲法違反の疑いをかけられ,京都の佐々木を訪問して教えを乞うた。その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難したが,太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣,早期和平実現計画の一員に加わる。敗戦直後,マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示する。近衛が相談相手に佐々木を選んだのは,戦争末期の協力関係によるものである。佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていたのでこれに応じた。佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画であったが実現しなかった。内大臣府廃止により,憲法改正作業は打切られ,近衛は要綱だけを,佐々木は全文を天皇に報告したが,これは二人の問に意見の対立があったからではない。二人はともに,天皇主権という帝国憲法の形式(国体)を維持したままに,内容を民主主義的自由主義的に改めることを意図した。国体を維持するためには,昭和天皇は戦争責任を負って退位すべきだとの暗黙の合意も,二人の間には存在した。近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと,その遺志をつぐように佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対する一方,皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張した。ただし新憲法の内容のデモクラシーには賛成し,新憲法が成立すると,国民は新憲法を尊重して,これを守るよう説いた。
著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.73-100, 2013-03-25

本論は,20世紀の思想史および精神分析運動史の中で極めて異例の影響力を誇った,ジャック・ラカンの60年代の理論的取り組みの背景を,その起点としてのアルチュセールとの出会いから検討することを目標とする。はじめに確認できるのは,所属していた組織から63年に「破門」されたラカンと,マルクス主義哲学の革新を準備していたアルチュセールとの間には,技術的,自然発生的イデオロギーの「外部」において,自らの携わる学問を科学として救出するという課題が共有されていたことである。アルチュセールはこのとき,ラカンの精神分析を評して「精神分析は科学である」と述べることになるのだが,反対に,ラカンがそこで深めたのは,むしろ精神分析と科学のあいだに既に共有されている出発点としての主体性の問題であった。では,この基礎のもと,ラカンが立て直す実践は,どのような「理論の実践」によってイデオロギーから守られることになるだろうか。ラカンとアルチュセールの共通の学生であったジャック・アラン・ミレールによる論理学を応用した主体理論の定式化は,アルチュセールの批判が示唆するように,実践への接続が明白ではない。問題は,真なる理論の記述ではなく,実践のうちでイデオロギーと切断とを対置することである。理論の実践もまた,ひとつの作業平面の内部で排除されている極限へ向かう,切断のための緊張をたたえていなければならず,その点においてラカンとアルチュセールには改めて共通のものを見出せるであろう。ラカンは,こうした極限にある原因の位置に,真理の身分を持つ対象を位置づけ,知に関する実践が目指す地点を指し示すのである。
著者
角南 聡一郎
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.3-20, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第I部 :帝国日本と民間信仰≫
著者
河西 瑛里子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.269-296, 2009

これまでの宗教研究では,男性中心的な視点から研究がなされてきたことを反省し,男性中心の宗教における女性信者に注目することの必要性は叫ばれてきたが,女性中心の宗教にかかわる男性信者の研究はほとんどおこなわれてこなかった。その主な理由としては,女性中心の宗教的実践の数が少なかったことが挙げられる。主流の宗教が提供してこなかった事柄を女性に提供してきたため,女性をひきつけてきた新しい宗教的実践であっても,指導者が男性だったり,女性指導者を操る男性がいたりして,必ずしも女性主導型ではなかったのである。1970年代,フェミニストのネオペイガニズムへの接近から生まれた現代の女神運動は,女性が主体となって実践している数少ない宗教的実践である。女神運動の実践者の大半は女性であるが,男性実践者も少数ながら存在している。女神運動における男性の位置づけとしては,1)排除される,2)劣位に置かれる,3)歓迎される,の三つが考えられるが,ニューエイジの聖地として知られる,イギリスのグラストンベリーで1990年代に始まった女神運動は3)にあたる。この女神運動では,男神は排除するが,女神を崇拝する男性は歓迎するという姿勢をとっているため,他の女神運動のグループと比べると,男性の割合が比較的多い。本稿では,グラストンベリーにおける女神運動の創始者のライフストーリーとその主張,およびこの女神運動にかかわりをもった5人の男性実践者のライフストーリーを分析した。その結果,男性がこの女神運動に関心をもった背景には,ネオペイガニズム,イギリスの固有の神的存在,女性の力や性的側面の肯定があったことがわかった。本稿は,欧米の新しい宗教的実践におけるジェンダー研究の一つである。と同時に現代の欧米で盛んになりつつあるもの,日本ではその存在がほとんど知られていない女神運動の詳細についても明らかにすることを目指している。In the area of religious studies, scholars have focused on female believers of male-oriented religions, but they have rarely studied male believers of female-oriented religions. The main reason is that there are few female-oriented religions. While the teaching of new religions is women-friendly, the leadership is often male dominated even though the followers are female. The contemporary Goddess movement first appeared in the 1970 s when feminists adopted the Goddess or witch from the Neopaganism, as a symbol of strong women. The Goddess movement is one of the rare new religions whose leadership and organisers are women in general, while there are some male believers. The Goddess movement in Glastonbury, England started in the 1990's. In this particular Goddess movement, God is rejected, yet male followers are particularly welcome, So there are more male believers in this Goddess movement than in any other. In this paper, I examined the life story and the teaching of the female founder and the life stories of five men who have been involved in this Goddess movement at some point. I discovered that the reasons why those men were interested in this Goddess movement included Neopaganism, English divines. and their positive attitude toward women's power and sexuality.
著者
コーカー ケイトリン
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.73-101, 2015-09-30

本稿の目的は,1960 年代年に土方巽が創始した暗黒舞踏(以下舞踏) における身体・肉体の 位置づけと,土方を中心とする共同生活の意義を,土方の弟子たちからの聞き取り調査に基づ いて考察することにある。それはまた,舞踏を追求する中で,その弟子たち,すなわち舞踏家 たちが日常実践を通じていかに自らの肉体を模索してきたのかを明らかにすることである。そして,その発言をもとに,肉体として生きることが,いかに人間の在り方を探究し,そして既存概念へ抵抗することになるのかを考察する。 舞踏は日本で始められた前衛的パフォーマンスであり,舞踏家は舞踏を踊る人の呼称である。 舞踏は革命と言われているほど,舞踊の世界に衝撃を与えた。そして,舞踏家は一生舞踏を踊る道を選ぶことで一般社会から外れていった。ここでは,肉体への重視が舞踏における芸術的かつ社会的姿勢であり,これは日々の実践によって実現していると主張する。本研究は,舞踏家7 人に聞き取り調査を行うとともに,それぞれの舞踏稽古の参与観察に基づいたものである。
著者
高階 絵里加
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.13-32, 2011-03

現在,自然科学の分野においては,可視的な身体的特徴にもとづく人間の分類に大きな疑問が投げかけられている。いっぽうで,一般社会においては,とりわけ肌の色の違いをもとにした「白色・黄色・黒色」の三分類がひとつの典型的な人種カテゴライズの方法として根強く定着している。本小論では,視覚的伝統における人種の三区分の一つの例として,<東方三博士の礼拝〉の図像をとりあげる。〈東方三博士の礼拝〉は,西洋美術の中で最も数多く絵画や彫刻に制作され,親しまれている図像のひとつであるが,造形美術において「肌の色による人間の三分類」が典型的にあらわれる例でもある。その背景には「異邦人を含む全人類を包括する普遍的宗教としてのユダヤ=キリスト教」の思想が存在し,とくに肌の色の描き分けによって三人の博土が人類の三つの民族を表すという美術上の表現は十四世紀から十五世紀にかけてまず北ヨーロッパにおいて,ついでイタリアや他の国々で定着する。とくに十五世紀には三人の中の一人が黒人主として描かれる例が増えはじめ,西洋社会において一般にネガティブな価値を与えられてきた「黒い肌」が<東方三博士>においては<高貴な異邦人>の象徴となっている点は興味深い。ここから近代的「人種」概念以前の時代の異邦人表現としての<東方三博士の礼拝>図像の特徴を考える。
著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.101, pp.81-101, 2011

本論文は, 2009年に発表した拙稿「植民地期朝鮮における伊藤博文の記憶」(伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)の続編である。1932年日本支配下の京城に, 伊藤博文を祀る仏教寺院博文寺が建てられたが, そこで起こった最大の出来事は, 安重根の息子と伊藤の息子との「和解劇」であった。伊藤の死から30年後の1939年10月, 上海在住の安俊生と東京在住の伊藤文吉が京城で会見をし, ともに博文寺を訪れて合同の法要を行なった。それを報じた新聞記事では, 父の罪を詫びる安俊生とそれを受け入れて「内鮮一体」に努めることを慫慂する伊藤文吉の姿が強調された。この和解劇には, 朝鮮総督府外事部が深く関与し, 長年にわたって朝鮮独立運動を取り締まってきた警察官相場清, 安重根裁判の朝鮮語通訳を務めた園木末喜が安俊生の言動を左右する役割を果たした。その後, 安重根の娘夫妻が博文寺を参拝するという後日談もあった。「和解劇」とその後日談は, 総督府が植民地統治の成果を宣伝するために演出したイベントであったのである。This is a sequel to my former article, "The memory of Hirobumi Ito in colonial Korea" (in: Yukio Ito and Yi Sung-huan (eds.), Hirobumi Ito and the Japanese rule of Korea, Minerva shobo, 2009). In 1932, a Buddhist temple Hakubunji was constructed in Keijo to commemorate Hirobumi Ito. The greatest event held there was the "reconciliation" of a son of An Jung-gun and one of Ito. In October 1939, 30 years after the assassination of Ito, An Jun-saeng, a son of An Jung-gun, from Shanghai and Bunkichi Ito from Tokyo met in Keijo and visited Hakubunji together to hold a joint Buddhist memorial service. An Jun-saeng apologized the sin of his father, while Bunkichi Ito accepted his apology and suggested to promote the assimilation process of Japan and Korea. Newspapers emphasized this reconciliation. The foreign affairs department of the Government-General of Korea deeply engaged in this celemony. The act of An Jun-saeng was strictly controlled by Kiyoshi Aiba, a policeman for years engaged in suppression of Korean independence movements, and by Sueyoshi Sonoki, a translator in the An Jung-gun case. After this celemony, a daughter of An Jung-gun and her husband also visited Hakubunji. The reconciliation celemony and its sequel were events produced by the Government-General to show the positive result of the Japanese colonial rule of Korea.
著者
水内 勇太
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.85-96, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第II部 :近代日本宗教史における〈皇道〉のポリティクス≫本稿は, 民衆宗教, 近代民衆宗教の代表的な一つであり, その中でも特異な存在といえる大本教が「皇道大本」と自称するに至るまでの過程を, 大本聖師, 出口王仁三郎と「皇道」言説の展開を中心に再構築する事を試みる。「皇道」の語は彼の自伝である『本教創世記』執筆時である明治37 年(1904)頃に理論の中核として意識され始められ, その理論は教団内での対立と孤立を受けて, 新たな自分自身の教学を体系化しようとする中で打ち立てられたものであった。大本教の初期教団とされる金明霊学会も, 出口なおとなおが所属する金光教, そして自身の霊学会との三竦みの対立の中で形成され, 王仁三郎はその対立を超克するために「皇道会」という名称のもとに組織改革をはかろうとしている。こうした対立の中で王仁三郎が錬成していった, 「皇道」理論の志向性の結実こそが, 「皇道大本」という自称であった。王仁三郎の「皇道」理論は, 「皇道」という言説自体が持つ「包容性」から免れぬものでありつつも, その内実にズレや過剰さを有することによって, むしろその「包容性」を利用する形で展開する事となった。This paper attempts to reconstruct the process by which Ōmoto-kyō, a major yet unique shin shūkyō (new religion) and minshū shūkyō (folk religion), came to call itself "Kōdō [imperial way] Ōmoto", mainly focusing on its Seishi (sacred master) Deguchi Onizaburō and the development of its kōdō discourse. Onizaburō began to use the idea of kōdō as his theoretical core in 1904 in Honkyōsōseiki ("The Genesis of Ōmoto-kyō"), his autobiography. He created the theory of kōdō as part of his new doctrinal systematization that attempted to overcome opposition and isolation in his religious community. "Kinmeirei Gaku Kai", an early period Ōmoto-kyō religious community, was formed out of the three-way deadlock between Nao Deguchi (the founder of Ōmoto-kyō), the "Konko-kyō" that she belonged to, and Onizaburō's "Kōdo Reigaku Kai". He aimed to overcome this situation by engaging in organizational reform under the name "Kōdō kai". The aspirations found in his kōdō theory came to fruition under the name "Kōdō Ōmoto". While the kōdō theory of Onizaburo could not avoid the subsumptiveness of the kōdō discourse itself, because the discourse had gaps and excessiveness, his theory actually developed in a way that utilized this subsumptive nature.