- 著者
-
倉島 哲
- 出版者
- 京都大學人文科學研究所
- 雑誌
- 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
- 巻号頁・発行日
- vol.98, pp.81-116, 2009-12-30
身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。