著者
鎌田 東二 島薗 進 津城 寛文 河合 俊雄 永澤 哲 井上 ウィマラ 鶴岡 賀雄 野村 理朗 倉島 哲 稲葉 俊郎 古谷 寛治 奥井 遼 林 紀行 町田 宗鳳 棚次 正和 篠原 資明 齋木 潤 金 香淑
出版者
上智大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2015-04-01

本科研研究プロジェクトは、「こころの荒廃」から抜け出るための手がかりを瞑想や修行や儀礼や芸能などの「身心変容技法」という宗教的リソースに求め、その意味・意義・機能・はたらき・諸相を明らかにしようとするものである。2017年度は、9回の定例公開研究会(第56回身心変容技法研究会~第63回身心変容技法研究会)、2回のフィールドワーク(2017年5月の東北被災地追跡調査(第12回目目)と2018年2月の天河大辨財天社の鬼の宿・節分祭・立春祭調査)、多摩美術大学芸術人類学研究所との特別合同シンポジウム「大地の記憶を彫る」、毎月1度の定例分科研究8「世阿弥研究会」を行ない、その成果をHP:http://waza-sophia.la.coocan.jp/と、2018年3月発行の科研成果報告書『身心変容技法研究第7号』(全272頁)に掲載し、社会発信した。そこで問いかけた諸問題は、①オウム真理教事件を事例とする霊的暴力や魔や悪魔の問題、②身心変容(技法)と芸術・芸能との関係、③身心変容(技法)の科学、④身心変容(技法)の哲学、⑤身心変容(技法)と教育、⑥身心変容(技法)と聖地ないし場所などなどの諸問題である。こうして、「身心変容(transfomation of body & mind)」や「霊的暴力(spiritual violence)」や「霊的虐待(spiritual abuse)」の概念を明確にしつつ、その負の局面を分析・考察した。カトリックや禅や瞑想「悪魔」や「魔境」やバランスの崩れの問題を問いかけるとともに、縄文時代の身心変容や古代の洞窟(洞天)が果たした象徴機能や役割やそこにおける諸種の身体パフォーマンスについて考察の目を向け、理論的研究と事例的研究と認知神経科学的な実験的研究の突合せと整理を行ない、認知神経科学における「畏怖・恐れ」の問題の実験的研究に一歩踏み込んだ。
著者
倉島 哲
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.81-116, 2009

身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。The purpose of this paper is to propose a new way to understand the acquisition of body techniques, by way of identifying 'corporal resistance' in the course of the acquisition of Tai Chi techniques in a class in Manchester, UK. Conventionally, acquisition was pictured as the embodiment of the social position occupied by the agent, with the implication that the body is an infinitely plastic object that can be given any form that society demands. This picture can be identified in the theories of Marcel Mauss, Pierre Bourdieu, and Michel Foucault. Contrary to the common understanding, participant observation on the Tai Chi class has shown that agents experience their own bodies resisting their will to acquire certain techniques, and that this resistance plays a key role in the formation of motivation, cognition, and the subject. In order to gather data, I have done participant observation held at the main centre building for 16 months (January 2006 to March 2006, and January 2007 to March 2008), by joining in twice weekly evening classes on Tuesdays and Thursdays. In addition to participating in the training, I have also conducted personal interviews on most of the instructors and the regular students (2 instructors, 12 students).
著者
倉島 哲
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.81-116, 2009-12-30

身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。
著者
アンドリュー・ ベルナール 倉島 哲
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.25-53, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
参考文献数
60

サーカス・パフォーマーの運動をコントロールするのは誰なのだろうか。空中のアクロバットは、無意識のうちに全身を協調させることで、パートナーに掴んでもらうべく正確に手を伸ばすことができるが、これは周辺視野にかすかに捉えた情報だけを頼りに行われている。そのうえ、視覚それ自体も、意識的にコントロールされるのではない。アクロバットは、意思によらずに視線を導き、パートナーとの視線の相互的なコンタクトを運動中も維持しつづけることができるからである。 両眼をも含めた全身の高度な協調が意識なしに可能なのは、生ける身体(living body, corps vivant)のおかげである。前意識的かつ前運動的な生ける身体は、刻々と変化する状況にエコロジカルに適応するために必要な判断を瞬間的に下してくれる。だが、こうした判断は、脳の活性化(activation)と意識によるその知覚を隔てる450ミリ秒の遅延のために、つねに事後的にしか意識に上らない。それに加えて、主観的な身体イメージや、日常的な意識のフレームなどの要因も、生ける身体を見えにくくしている。 われわれが2013年に開始したフランス国立サーカス芸術センター(CNAC)研究プログラムは、こうした困難を乗り越えるために、身体に取り付けたGoPro カメラ・GoPro 録画を用いた自己分析(self-confrontation)インタビュー・パフォーマーを巻き込んだ哲学ワークショップの開催などを含む様々な方法を用いた。そうすることで、パフォーマーたちの生ける身体が運動のさなかに無意識のうちに生成したものの意識への浮上、つまりエメルジオン(emersion, émersion)を捉えることができた。これを踏まえ、最後にエメルジオンの学としてのエメルシオロジー(emersiology)の可能性とその社会的含意を考察したい。
著者
鎌田 東二 河合 俊雄 鶴岡 賀雄 棚次 正和 町田 宗鳳 津城 寛文 井上 松永 倉島 哲 篠原 資明 斎木 潤 乾 敏郎
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

「身心変容技法」とは[身体と心の状態を当事者にとってよりよいと考えられる理想的な状態に切り替え変容・転換させる諸技法/ワザ]を指すが、本科研では祈り・祭り・元服・洗礼・灌頂などの伝統的宗教儀礼、種々の瞑想・イニシエーションや武道・武術・体術などの修行やスポーツのトレーニング、歌・合唱・ 舞踊などの芸術や芸能、治療・セラピー・ケア、教育プログラムなどの領域の領域で編み出され実践されてきた身心変容技法を文献・フィールド・臨床・実験の4手法によって総合的に研究し、その成果を研究年報『身心変容技法研究』(1~4号、2012~15年)にまとめ、国際シンポジウムと大荒行シンポジウムで総括し、社会発信した。
著者
倉島 哲
出版者
京都大学
巻号頁・発行日
2004-11-24

新制・課程博士
著者
倉島 哲
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.206-225, 2005-09-30

何かの技法を身に付けようとしているうちに、それまで身に付けようとしていた当の技法についての認識を新たにする経験は一般的である。このような経験を捉えるための視角を提供することが本稿の目的である。最初に、この経験を捉えることの困難さを確認する。まず、技法の学習者と指導者の主観は、いずれもこの経験を捉えるための足場として不十分である。なぜなら、学習者も指導者も、学習者が習得すべき技法についての認識の変化を繰り返し経験してきたからである。また、この経験を客観的に捉えようにも、学習者が経験する認識の変化をすべて拾い上げることのできる客観的な指標は存在しない。次に、この変化を捉えるための手がかりを、マルセル・モースの「身体技法論」に求める。モースは、過去の泳法と現代のそれを比較するとき、これらの技法の相違を、生理的差異・心理的差異・社会的差異という三つの異質な差異として捉え直す。論理的には相互いかなる関係も有さない三つの差異としてこれらの技法の相違が捉え直されたということは、この捉え直しが経験的になされたことを意味する。そのかぎりで、モースの記述からは経験的記述の対象になるだけの固有のリアリティを帯びた技法が立ち現れる。モースのいう技法「有効性」とは、こうして陰画的に浮かび上がる技法の経験的リアリティとして解釈できる。学習者が指導者の技法の有効性を認識することによって触発される模倣を、モースは「威光模倣」と呼ぶ。その具体的な姿を検討するために、私が1999年より2005年まで(執筆時点で継続中)フィールドワークを行ってきた武術教室S流を考察する。技法の経験的リアリティを足場とした記述がなされることで、技法の有効性の認識は、モースが指摘したように威光模倣の開始時点で一度だけ行われるのではなく、その過程で繰り返し行われ、そのたびに有効性の内実が変化することが明らかにされる。