著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.83-100, 2018-12-20

本論はソプラノ歌手永井郁子(1893-1983)の音楽活動の概略を、朝日新聞データベース「聞蔵 Ⅱ」掲載の記事によって描き出すことを目的とする。永井郁子は山田耕筰の最初の妻で半年足らずで離婚した女性として知られ、演奏家としての先行研究は1本という状況である。だが予備調査において、永井の「邦語歌唱運動」が当時の雑誌や新聞で大きく取り上げられているのを見出した。この活動は、日本語で歌うことの議論を活性化したと見えるが、先行研究がないために実態が不明で、これを再評価する必要性を痛感した。「聞蔵Ⅱ」で検索すると、「永井郁子」に関する記事は98件(写真23点)で、1915年から1941年までの26年間に及ぶ。報道のピークは1925年から1928年にかけてで、邦語歌唱運動の始動時期に当たる。初期の永井が出演した演奏会は、多数の奏者によるオムニバス形式で、学校や慈善関係が多い。1922年夏からは個人的な動向が報道されるようになり、1925年6月には放送開始間もないラジオにも出演している。邦語歌唱運動は1925年11月に第1回、翌年11月に第2回が行われ、その際に『和訳歌詞問題前後「転機」批判編』が刊行された。また、宮城道雄の琴と吉田晴風の尺八の伴奏で両氏の創作歌曲の紹介に進み、更に豊澤猿之助と杵屋佐吉の糸で義太夫中の名歌と佐吉の作曲とを唱うといった試みを継続している。1929年9月には大隈講堂、青山会館、報知講堂、本所公会堂、横浜会館で5日連続の独唱会を行い、1931年には「支那各地」まで巡演し、1932年3月には第500回を日比谷公会堂で行っている。その後、満州にも巡演し、1941年3月3日に日比谷公会堂で「永井郁子邦語運動満十五周年念願達成引退音楽会」を行ったことが記事から判明した。これから大まかな軌跡は掴めたものの、その評価については今後、さらに理解を深めていく必要がある。

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