著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
女性学評論 = Women's Studies Forum
巻号頁・発行日
no.34, pp.43-62, 2020-03-20

本稿は、朝鮮総督府の機関紙『京城日報』の調査によって、永井郁子(1893〜1983)の6度に及ぶ朝鮮楽旅の全体像を明らかにすることを目的とする。調査の結果、41点の記事(1928〜1932)が見出され、永井の朝鮮楽旅は『京城日報』 によって口火が切られ、その後、民間新聞の『釜山日報』や『朝鮮新聞』に引き継がれていったことが判明した。特に第一回(1928年)と第六回(1932年)については、『京城日報』が強力に梃入れしたことが明らかとなった。これらの記事から42件の独唱会の存在が知られ、それらはあくまで部分的なものではあったが、演奏会の曲目や観客の反応等が分かるものも含まれている。 演奏曲目については、第一回の朝鮮楽旅が行なわれた1928年はシューベルトの没後100年を記念する年であり、シューベルトを集中的に取り上げる方向でプログラム変更がなされた。第一回(1928年)と第二回(1930年)のプログラムでは、初めに「泰西名曲(ベートーヴェンやシューベルト)の邦語訳詞歌唱」、次に「各国民謡九曲」ないしは「各国名曲九種」(日満露独英米仏伊拉)、最後に「新日本音楽」(宮城道雄作曲による新箏曲、ないし永井郁子考案の浄瑠璃歌謡曲)を置くという組み立てであったが、第六回(1932年)になると、「泰西名曲の邦語訳詞歌唱」が姿を消して、代わりに「新日本歌謡曲」として邦人作曲家の作品がまとまって取り上げられ、歌うに値する邦人作曲家の歌が出てきたという判断が永井の側にあったと理解される。 エヴリヌ・ピエイエが『女流音楽家の誕生』(1992/1995)で論じたように、輝かしい活躍をした女流音楽家たちの多くが忘却の淵に沈められている。日本歌曲の黎明期に貢献した永井郁子の事績を掘り起こし、しかるべき再評価に繋げるべく、問題の解明を続けて行きたい。
著者
津上 智実
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.139-153, 2014-06

讃美歌412番「わがやまとの」は、1947年6月12日、昭和天皇の神戸女学院来院時に生徒たちが自然発生的に唱和したと伝えられるが、現行の讃美歌集に掲載されず、今の教会では歌われない。この歌は一体いつから、いつまで讃美歌集に掲載され、どれほど広く歌われていたのか。讃美歌集の横断調査によって、この疑問に答えるのが本論の目的である。調査の対象は、柳澤健太郎編「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」『参考書誌研究』第71号(2009年11月)掲載303点の内、1947年以前に出版された106点と、手代木俊一監修『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社、1996~1997)全42巻で、それに神戸女学院大学図書館所蔵分を加えた。調査の結果、これらに収録された「わがやまとの」とその関連讃美歌46点を得て、「(表1)讃美歌『わがやまとの』とその関連讃美歌一覧」として整理した。この讃美歌の原詩は 'Our native Land' (John S. Dwight 1844)、先行の邦訳に永井えいこ訳「ひのもとなる」(1884)がある。松山高吉訳の歌詞「わがやまとの」の初出は『新撰讃美歌』(1888)、ジョージ・オルチン George Allchin 編曲(原曲はG.M.ギャレットと伝えられる)の旋律「Hinomoto」の初出は『新撰讃美歌』譜附改訂版(1890)で、約2年半のずれがあり、当初「わがやまとの」の歌詞は「ひのもとなる」の旋律(America)で歌われていたとの植村正久の証言がある。その後、歌詞「わがやまとの(原)」は1902年に松山自身によって改変されて「わがやまとの(改)」となり、オルチンの旋律と共に1910年以降の讃美歌集で宗派を超えて広く用いられた。この詞と曲は戦後の讃美歌集でも引き継がれ、1997年の『讃美歌21』で収録曲から外された。以上から、讃美歌412番「わがやまとの」の歌詞「わがやまとの(改)」は1902年から用いられ、同じく旋律(Hinomoto)は1890年の初出後、1910年以降は旧旋律(America)に取って代わる形で広く用いられて、キリスト教関係者に定着していたことが明らかになった。This paper aims to trace the history of church hymn no.412 'Waga Yamato no', which was sung by Kobe College students for the Imperial visit to the College on June 12th 1947. For this purpose, a survey of the church hymnals published in Japan from the Meiji Era up to 1947 has been made.I have examined 1) the hundred and six hymnals from this period out of those hymnals listed in YANAGISAWA Kentaro's 'Catalogue of Church Hymnals of the National Diet Library' (2009), 2) forty-two bolumes contained in the Collection of Meiji Era's Church Hymnals edited by TESHIROGI Syunnichi (1996-7), and 3) those in the possession of the Kobe College Library.This has resulted in a table containing forty-six occurences of the church hymn 'Waga Yamato no' and those related to it, accompanied by variants in the text and the music.The standard Japanese text of this hymn, provided by MATSUYAMA Takayoshi (1846-1935) from 'Our native Land' (John S. Dwight, 1844), first appeared in Shinsen Sambika of 1888, while there is an earlier Japanese version by NAGAI Eiko as 'Hinomotonaru' (1884). George Allchin (1851-1935) arranged a tune by G.M.Garret to the text 'Waga Yamato no' with the title 'Hinomoto', and first published it in Shinsen Sambika of 1890. In between the text was sung with the melody of 'Hinomotonaru', i.e. 'America', according to witness UEMURA Masahisa (1858-1925).In 1902, Matsuyama revised the text and this rrevised version was widely used with the melody 'Hinomoto' in church hymnals of diverse denominations and purposes especially after 1910. This hymn was ingerited also after the Second World War but removed in 1997 from Sambika21.Of the church hymn no.412 'Waga Yamato no', it was made clear that the text, that is the revised one, was sung from 1902 and the melody, 'Hinomoto', was first published in 1890 and sung widely after 1910, replacing the previous one, 'America'.
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
女性学評論 = Women's Studies Forum
巻号頁・発行日
vol.31, pp.65-86, 2017-03-20

本論では、戦後初の芥川賞受賞作家として知られる由起しげ子(1900~1969)について、神戸女学院音楽部在学時(1918~1921)とその前後の音楽教育歴の輪郭を、本学所蔵資料によって描き出すことを目的とする。「由起しげ子」は本名を「伊原(旧姓、新飼)志げ」と言う。新飼志げは17歳の1918年4月に神戸女学院音楽部に入学し、20歳の1921年1月に中退している。ここでは、1)音楽部在学時の音楽教育、2)山田耕筰(1886~1965)との師弟関係、3)山田耕筰との交流を示す資料について、その概略を描き出す。1)神戸女学院大学図書館所蔵の「音楽レッスン帳」(1907~1923)によれば、新飼志げは1918年春学期と秋学期、1919年冬学期の3学期間にピアノとオルガンと歌のレッスンを並行して受けており、その教材は主に初学者用のものであったと判明した。幼少期にピアノを習う機会を与えられなかったため、必ずしも手が回る弾き手ではなかったようである。2)山田耕筰との師弟関係については、特にその始まりがいつであったかという点で先行研究には大きなばらつきが見られるが、関連史料を精査した結果、1917年2月25日の大阪ホテルでの出会いが最初で、その際に新飼は山田に弟子入りを許されたというのが一番事実に近いという結論に達した。「由起しげ子文庫」には新飼の作曲作品は含まれておらず、対位法の勉強の跡を示す簡単な譜例とメモが残されているだけである。3)由起の長期入院と結婚・渡欧によって作曲の勉強は放棄されたが、それでも山田との交流は生涯にわたって続いたことが、「由起しげ子文庫」所蔵の山田耕筰の署名と献辞入りの出版譜や書簡、また後年の両者の執筆物から明らかとなった。
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 = Kobe College studies (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.95-111, 2019-12

本論は、『漢珍日日新報データベース』によって『台湾日日新報』を調査し、永井郁子(1893~1983)の台湾楽旅の実態を解明することを目的とする。調査の結果、記事81点が見出されること、そこから永井の台湾楽旅は第一回(1928)、第二回(1930)、第三回(1933)、第四回(1936)および第五回(1937)の5度に及ぶこと、永井の台湾行きは詐欺事件に端を発していること、これらの記事から第一回6件、第二回4件、第三回22件、第四回1件、第五回2件、合計35件の独唱会の存在が知られること、とはいえ、それらは実際に永井が行なった演奏会のせいぜい半数程度しか報道していないこと、内6つの演奏会については演奏曲目の詳細が明らかになり、他の3つについてはプログラム構成の大枠が知られること、第三回については当時の拓務相永井柳太郎の勧めで渡台し、多数の小学校・公学校・高等女学校・師範学校で独唱会を行なって、永井柳太郎作詞、宮良長包作曲の〈新日本建設の歌〉を歌い、かつ児童生徒に歌わせたこと、永井の渡台を組織したのは台湾総督府の官僚を中心とする永井郁子女史後援会であったことが明らかになった。
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
女性学評論 = Women's Studies Forum
巻号頁・発行日
no.35, pp.39-63, 2021-03-20

ソプラノ歌手の永井郁子(1893〜1983)が展開した邦語歌唱運動(1925〜1941)において、レート白粉本舗平尾賛平商店とタイアップして行った1929年秋の演奏旅行は一際異彩を放っている。その実態を明らかにすると共に、その社会的な意味を考えることが本稿の目的である。調査の結果、9月下旬から東京(4回)、横浜、大阪(4回)、神戸、京都の計11回、11月中旬に奈良、和歌山、岡山、高松(2回)、松山、広島、福岡(3回)、熊本、大分の計12回、と合わせて少なくとも23回の独唱会を実施し、どの会場も大入りであったことが明らかになった。これは新化粧水「レートソプラ」の発売記念行事として行われたもので、「お耳にソプラノお手にはソプラ」のキャッチフレーズも用いられた。新聞広告を多用しながら、各地の化粧品店とレート会の顧客のネットワークを通じて全国展開したものと理解される。化粧品会社による冠コンサートが日本で盛んになるのは戦後の1970年代であり、1929年という突出して早い時期に行われた平尾賛平商店によるこれら一連の独唱会は、極めて先駆的な例と位置づけられる。
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.139-153, 2014-06-20

讃美歌412番「わがやまとの」は、1947年6月12日、昭和天皇の神戸女学院来院時に生徒たちが自然発生的に唱和したと伝えられるが、現行の讃美歌集に掲載されず、今の教会では歌われない。この歌は一体いつから、いつまで讃美歌集に掲載され、どれほど広く歌われていたのか。讃美歌集の横断調査によって、この疑問に答えるのが本論の目的である。調査の対象は、柳澤健太郎編「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」『参考書誌研究』第71号(2009年11月)掲載303点の内、1947年以前に出版された106点と、手代木俊一監修『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社、1996~1997)全42巻で、それに神戸女学院大学図書館所蔵分を加えた。調査の結果、これらに収録された「わがやまとの」とその関連讃美歌46点を得て、「(表1)讃美歌『わがやまとの』とその関連讃美歌一覧」として整理した。この讃美歌の原詩は 'Our native Land' (John S. Dwight 1844)、先行の邦訳に永井えいこ訳「ひのもとなる」(1884)がある。松山高吉訳の歌詞「わがやまとの」の初出は『新撰讃美歌』(1888)、ジョージ・オルチン George Allchin 編曲(原曲はG.M.ギャレットと伝えられる)の旋律「Hinomoto」の初出は『新撰讃美歌』譜附改訂版(1890)で、約2年半のずれがあり、当初「わがやまとの」の歌詞は「ひのもとなる」の旋律(America)で歌われていたとの植村正久の証言がある。その後、歌詞「わがやまとの(原)」は1902年に松山自身によって改変されて「わがやまとの(改)」となり、オルチンの旋律と共に1910年以降の讃美歌集で宗派を超えて広く用いられた。この詞と曲は戦後の讃美歌集でも引き継がれ、1997年の『讃美歌21』で収録曲から外された。以上から、讃美歌412番「わがやまとの」の歌詞「わがやまとの(改)」は1902年から用いられ、同じく旋律(Hinomoto)は1890年の初出後、1910年以降は旧旋律(America)に取って代わる形で広く用いられて、キリスト教関係者に定着していたことが明らかになった。
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.83-100, 2018-12-20

本論はソプラノ歌手永井郁子(1893-1983)の音楽活動の概略を、朝日新聞データベース「聞蔵 Ⅱ」掲載の記事によって描き出すことを目的とする。永井郁子は山田耕筰の最初の妻で半年足らずで離婚した女性として知られ、演奏家としての先行研究は1本という状況である。だが予備調査において、永井の「邦語歌唱運動」が当時の雑誌や新聞で大きく取り上げられているのを見出した。この活動は、日本語で歌うことの議論を活性化したと見えるが、先行研究がないために実態が不明で、これを再評価する必要性を痛感した。「聞蔵Ⅱ」で検索すると、「永井郁子」に関する記事は98件(写真23点)で、1915年から1941年までの26年間に及ぶ。報道のピークは1925年から1928年にかけてで、邦語歌唱運動の始動時期に当たる。初期の永井が出演した演奏会は、多数の奏者によるオムニバス形式で、学校や慈善関係が多い。1922年夏からは個人的な動向が報道されるようになり、1925年6月には放送開始間もないラジオにも出演している。邦語歌唱運動は1925年11月に第1回、翌年11月に第2回が行われ、その際に『和訳歌詞問題前後「転機」批判編』が刊行された。また、宮城道雄の琴と吉田晴風の尺八の伴奏で両氏の創作歌曲の紹介に進み、更に豊澤猿之助と杵屋佐吉の糸で義太夫中の名歌と佐吉の作曲とを唱うといった試みを継続している。1929年9月には大隈講堂、青山会館、報知講堂、本所公会堂、横浜会館で5日連続の独唱会を行い、1931年には「支那各地」まで巡演し、1932年3月には第500回を日比谷公会堂で行っている。その後、満州にも巡演し、1941年3月3日に日比谷公会堂で「永井郁子邦語運動満十五周年念願達成引退音楽会」を行ったことが記事から判明した。これから大まかな軌跡は掴めたものの、その評価については今後、さらに理解を深めていく必要がある。
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.115-129, 2015-06

本論は、神戸女学院大学図書館所蔵のトニック・ソルファ掛図(全19本)について、その音楽的内容を検討することによって、明治期音楽教育の実態の一端を明らかにする。各掛図の掲載内容を検討し、同じく本学図書館所蔵のトニック・ソルファ教本『トニック・ソルファ・ミュージック・リーダー(The Tonic Sol-Fa Music Reader, revised and improved, by Theodore F. Seward &B.C.Unseld, Approved by John Curwen. The biglow & Main Co.)』(1890)の教育内容と付き合わせたところ、次の結果が得られた。1)これら19本は、モデュレイター(音階図)3本、リズム譜3本、トニック・ソルファ譜13本の3種から成る。2)トニック・ソルファ法の教程は6段階で構成されるが、第1段階に属する掛図が11本、第2段階が5本、第3段階が3本である。3)モデュレイターとリズム譜は第1~3段階に対応するものが各1本であるが、リズム譜については第1、2段階と掛図に打たれた番号との組み合わせに齟齬が見られる。4)トニック・ソルファ譜は第1段階9本、第2段階3本、第3段階1本で、第1段階のものが圧倒的に多い。これは音楽教師 E.タレー(1848~1921)が「最初より七音を用いられず、ドミソの三音を以って其の音程を明らかにする為掛図を用いられたり、手を上下にされたり、又は文字に高低を附けて生徒を階名で答えしめられました。右の三音を明確に覚えしめた後、関係ある音を順次に教えられ、決して先生は一時に多くの事を教えられず、One thing at a time を繰り返し繰り返し申されました」という本学卒業生の回想にも合致する。5)1925年の本学財産目録には73本のトニック・ソルファ掛図が記載されており、これら19本はその一部を成していたと考えられる。This paper examines the mineteen wall charts of the Tonic Sol-fa System possessed by the Kobe College Library. By comparison with the textbook The Tonic Sol-Fa Music Reader, revised and improved by Theodore F. Seward & B.C. Unseld, The Biglow & Main Co., 1890, also possessed by the Library, and signed by one of the music teachers of the college, namely Mrs. Stanford (1856-1941), the following facts have been made clear : 1) These nineteen charts can be divided into three groups, namely, three modulators, three rhythm charts and thirteen tonic sol-fa charts. 2) Eleven of them are for the first, five are for the second, and three are for the third step of the six steps of the Tonic Sol-fa teaching system. 3) Of the modulators and the rhythm charts, each of the first three steps has one corresponding chart, while the rhythm charts of the first two steps have some confusion. 4) Of the thirteen Tonic Sol-fa charts, nine are for the first, three are for the second and one is for the third step of the above mentioned six steps. The fact that the first step charts make up the biggest group tallies with the recollection of an alumna of Kobe College, Chie Yanagida. According to her, the music teacher Miss Elizabeth Torrey (1848-1921) did not start with all of the seven notes of the diatonic scale but only three, do mi and so, using charts, or moving her hands up and down and so on, saying repeatedly "one thing at a time". 5) Of the seventy three charts of the Tonic Sol-fa System recorded in Kobe College's inventory of the year 1925, nineteen, that is a little more than a quarter, have survived.
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 = Kobe College studies (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.127-140, 2017-06

本論の目的は、近代日本における「芸術歌曲」としての「日本歌曲」という概念の成立と用語法の変遷を歴史的に明らかにすることである。今日、「ドイツ歌曲」等と並んで「日本歌曲」というジャンルがあるのは自明のこととなっている。しかるに戦前の音楽活動を調査すると、「歌曲」という用語の不在に驚かされる。音楽雑誌『月刊楽譜』(東京:松本楽器、1912~1945)の附録楽譜について言えば、「歌曲」という用語が安定して出現するのは1936年と遅く、それまでは「歌曲」よりも「独唱曲」の方が広く用いられていた。芸術歌曲としての「歌曲」が用語として現れ、概念として定着するまでには、どのような道のりがあったのだろうか?この問いに答えるために、本論では、1)音楽辞典類、2)語学辞典、3)放送用語、の3つを取り上げて考察した。その結果、芸術歌曲としての「Lied」ないしは「song」の訳語として「歌曲」という用語が出現する例は1920年代までに散発的に見られるものの、音楽辞典における訳語として定着するのは1949年以降であることが明らかになった。これは音楽雑誌や演奏会プログラム等における表記が1930年代半ばから一般的になったのに比べて、さらに遅い。1949年の日本放送協會『放送音樂用語』で「歌曲」という訳語が定められて以降、ほぼすべての音楽辞典で「歌曲」という用語が統一的に用いられるようになったが、「Liedform」については「歌曲形式または歌謡形式」とされており、戦前の用語法の名残を引き摺っている例が見受けられる。このように近代日本における芸術歌曲としての「歌曲」概念は、さまざまな紆余曲折を経て、想像以上に長い時間をかけて成立・定着したものである。今日ごく当たり前の概念として用いている「日本歌曲」ないし「歌曲」という用語は、明治の開国以来150余年の歩みの中で、その半分以上を費やして形成されてきたものなのである。The paper aims to make clear the birth and formation of the concept of the Japanese art song in modern Japan. Today the concept of art song and its translation as 'Kakyoku' (歌曲) are firmly established and believed to have been so for a long time. However once one makes surveys of musical activities in the Meiji and Taisho eras in Japan, one must be surprised by the absence of the technical term 'Kakyoku' in music journals or concert programs. In the case of the music magazine Gekkan-Gakuhu (月刊楽譜) or Musical Quarterly, published in Tokyo from 1912 until 1945, it is only from the year 1936 that the demonination 'Kakyoku' consistently occurs, the term 'Dokushoka(独唱歌)', which is 'Solo Song', being used much more often before that year. In order to elucidate the establishment of the concept 'Kakyoku' in modern Japan, this paper examines: 1) music dictionaries, 2) language dictionaries, and 3) terminologies of radio broadcasting. As the result of this survey, it has become clear that it is as late as after the year 1949 that the German term 'Lied' or English 'Song' were traslated as 'Kakyoku' in music dictionaries, with some sporadic usages until the 1920s. This happened later than the middle of the 1930s in the cases of music journals and concert programs. It seems important that the term 'Kakyoku' was selected and established in the music dictionary for radio broadcasting published by Japan Broadcasting Association in 1949. Almost all the music dictionaries followed it, but with some remmant of the former tradition to translate the German 'Liedform' or 'song form' not as 'Kakyoku-keishiki' but as 'Kakyoku- keishiki'. Thus the consept and the terminology of 'Kakyoku' was formed after many twists and turns in the first half of the twentieth century.
著者
津上 智実 Motomi TSUGAMI
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.201-210, 2015-12

米国ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー所蔵のアメリカン・ボード宣教師文書(American Board of Commissioners for Foreign Missions Archives, 1810-1961, Call No.ABC 1-91)の調査を2015年9月16日から4日間行い、イライザ・タルカット、エリザベス・タレー、シャーロット・バージス・デフォレストの3人を中心に書簡の収集を行った。この宣教師文書は、1810年から1961年までの150年間に世界各地の宣教師から寄せられた書簡類を中心にまとめたもので、全長385メートルに及ぶ膨大な史料群である。これまでに858巻のマイクロフィルムが作成されているが、全体から見れば極一部でしかない。本学図書館が所蔵するマイクロフィルムには、タルカット書簡62通、タレー書簡21通、デフォレスト書簡60通が収められており、それらの予備調査を行った上で渡米した。現地調査の成果として、1)マイクロフィルムでは解読困難な手書き書簡を中心にデジタル・カメラでの撮影を行って鮮明な画像を得ることができた。 2)マイクロフィルム化されていない史料の中に、婦人伝道団宛のタルカット書簡46通を始めとして、メアリー・ラドフォード書簡2通、デフォレスト書簡(1920年代)221通、同(1930年代)約180通、同(1940年代)63通、"Kobe College"と題されたファイル3冊とボックス2箱があり、大量の史料が手つかずのままになっていることが判明した。 3)史料の一部は傷みが激しく、早急に対策を講じる必要があることが痛感された。この調査は、本学研究所の「総合研究助成」による研究(研究課題:宣教師文書の解読と解明~デフォレスト文書を中心に~)の一環として行ったもので、収集した画像を活用して、今後書簡の解読を進めていく計画である。
著者
津上 智実
雑誌
論集
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.51-69, 2005-07-15

Pianist HARA Chieko (1914-2001) is now under revaluation. She was the first Japanese pianist who completed the Conservatoire de Musique de Paris with Premier Prix (1932) and also won a special award at the Third International Concours de Chopin in Poland (1937). She was the most popular, most admired pianist in Japan around the-Second World War. HARA Chieko held a professorship at KOBE COLLEGE from April 1957 to March 1961. It is a mystery why she accepted it, because she refused all the other offers from universities in Tokyo including even GEIDAI (the National University of Fine Arts and Music). What made her decide to come to Kobe and make time to teach students? My research in programs of her concerts and articles and interviews in some periodicals and journals in her time has made the following clear. 1) She gave two concerts for KOBE COLLEGE in 1935 and 1951, through her mother's connection. Her mother Hisako was one of KOBE COLLEGE'S alumnae. 2 ) The autumn of the year 1955 was a turning point for her life. She noticed the necessity to hand down her skills and knowledge to younger generation as her master Lazar Levi did. 3) In the year 1956 KOBE COLLEGE earnestly asked her to join, offering her conditions which allowed her to continue her activity as a concert pianist. On 2 November 1956, she visited KOBE COLLEGE and gave a mini concert, of which many photos have been kept. 4) She selected three students as her pupils by audition for the academic year 1957, and one more for 1958. Her lesson took place once a month at Room M34. 5) In addition, four alumnae were given chance to play, as solists, piano concertos by Beethoven (Nos. 3 and 5), Ravel and Schumann with orchestra as 'HARA Chieko's pupils' in spring, 1958. 6 ) She wrote a letter to the President of KOBE COLLEGE on 1, September 1980. It is evident from this letter that she was proud of her contribution and her pupils, some of them were teachers of the College. HARA Chieko left Japan in December 1958 to marry the Celist Caspar Cassado. The curricula of the academic year 1959 and 1960 have her name in the list but with a comment 'now in France'. Her tenure was short, but her legacy is profound.
著者
津上 智実
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.93-113, 2014-03

本稿はピアニスト小倉末子(1891~1944)の朝鮮への演奏旅行(1916年12月)について、当時朝鮮半島で発行されていた新聞各紙でどのような報道がなされていたのかを調査した結果を総括するものである。日韓併合(1910年)前後の新聞統制の問題と、それに起因する新聞史料保存の問題は今も大きく尾を引いているが、2013年2月と5月の韓国訪問時には多くの機関や研究者の助力を得て調査を実施することができた。本論では、政府系3紙(『京城日報』『ソウル・プレス』『毎日申報』)と民間紙3紙(『朝鮮時報』『釜山日報』『朝鮮新聞』)を論じる。この内、『ソウル・プレス』と『朝鮮時報』については、1916年12月の紙面を見出すことができなかった。特に『ソウル・プレス』は英字新聞として、日本語やハングルの新聞よりも専門的な音楽記事が書かれた可能性が期待されるだけに、紙面が保存されていないという史料状況は痛恨事である。朝鮮総督府機関紙の日本語新聞『京城日報』には25件(写真6点)、同ハングル新聞『毎日申報』には10件(写真2点)の記事が見出されて、小倉の演奏旅行の詳細に加えて、養育歴や音楽歴についても多くの情報が得られた。両新聞の記事の比較から、『京城日報』が主たる報道機関であり、『毎日申報』はそれに従属する立場にあったと理解されたが、後者の一記事から、小倉の訪問した学校名が京城女子高等普通学校と判明したのは一つの収穫であった。民間紙の『釜山日報』には3件、『朝鮮新聞』には11件(写真3点)の記事が見出され、関釜連絡船の使用船名(壱岐丸)やシカゴでの音楽院ピアノ教授就任の前史に関わるエピソードを収集することができた。『京城日報』と『毎日申報』に先立って民間紙の『朝鮮新聞』で小倉末子の京城訪問が報じられていることは、1916年12月の京城演奏旅行の経緯と意義を理解する上で重要な意味を持ってくると考えられる。This paper aims to report my research on newspaper articles published in Chosen on a concert tour by the Japanese pianist Suye Ogura (1891-1944) to Keijo in December 1916. In this research, six newspapers were examined. Three of them were published by the Governor-General of Korea: Keijo Nippou (Seoul, Japanese, 1906-1945), The Seoul Press (Seoul, English, 1906-1937) and Maeil Sinbo (Seoul, Hangeul, 1910-1945). The other three were civilian newspapers: Chosen Jihou (Fuzan, Japanese,1894-1941), Fuzan Nippou (Fuzan, Japanese,1907-1945) and Chosen Shimbun (Jinsen, Japanese, 1908-1942). It has turned out to be impossible to find the original pages of two of these six newspapers of December 1916, namely of The Seoul Press and Chosen Jihou, either in Japan or in Korea, because of the sad history of oppression of Chosen journalism by Japan's annexation of Korea. In Keijo Nippou, twenty-five articles and six photos related to Suye Ogura have been found and in Maeil Sinbo, ten articles and two photos of her. A comparison of two newspapers has shown that most of the articles in Maeil Sinbo are very similar in content to the ones in Keijo Nippou and were usually published at the same time or one day later than the latter. In Fuzan Nippou, three articles on her and in Chosen Shimbun, eleven articles and three photos related to her have been found. The articles from Fuzan Nippou tell us the route and the name of the ship that she used for her travel. Some of the articles in Chosen Shimbun contain different information from that of Keijo Nippou and Maeil Shinbo, including the background of her appointment as piano teacher at the Metropolitan Conservatory in Chicago. The fact that Chosen Shimbun was the first newspaper to announce her visit to Keijo,prior to the Governmental newspapers, appears important in fathoming the significance and background of her concert tour to Keijo.