著者
小泉 和子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.63-78, 1995-03-31

「歴博本江戸図屏風」の右隻第五扇と六扇の下部に人形を並べた家が描かれているが、この家は人形店であること、しかも並べてあるのは当時、幼児の疱瘡除けとして使われた土人形か張り子の赤物であるということがよみとれる。この場所は浅草寺の門前通りであると判定されるが、この地域は江戸時代から近代に至るまで人形産地であった。このことは貞享四(一六八七)年の『江戸鹿子』をはじめとして幾多の地誌類によって確認される。しかも当初は素朴な土人形や張り子人形であって、後世のいわゆる雛人形とよぶ着付け雛にかわるのは一八世紀前期の享保年間からだという。するとこの情景は、素朴な人形として描かれていることからみてすくなくとも一八世紀にまで下がることはないだろう。浅草ではじまった赤物は、やがて武州の鴻巣で発展し、さらに練物で作られるようになって鴻巣名物となる。熊谷・川越・大宮・越谷・鴻巣など武州一帯では一七世紀中期すぎころから野間稼ぎとして雛人形の製造がはじめられていた。その中で鴻巣では一七世紀後期になると、この地域一帯で盛んになった桐簞笥製造の際、多量に出る大鋸屑を用いた練り物を開発し、好評を博すようになったのである。これは鴻巣は江戸との関係が密接であったため、おそらく早い段階から江戸の情報が入り、浅草を真似て赤物を製造していたからではないかと考えられる。ともあれ一七世紀中期すぎには鴻巣でも雛製造をはじめていたとすると、浅草はそれより早かった筈であるから、この場面は一七世紀中期以前ということになるのではないか。

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