著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.11-41, 2018-02-28

本論文は,高度経済成長期に向かう時代,昭和30 年代初期のダム建設と水没集落の対応に一つの形があることに注目して民俗誌的分析を試みたものである。広島県の太田川上流の樽床ダム建設で水没した樽床集落(昭和31~32 年に移転)と前稿でとりあげた福島県の只見川上流の田子倉ダム建設で水没した田子倉集落(昭和31 年に移転)とは,どちらも農業を主とした集落で,移転時には民具の収集保存や村の歴史記録の刊行,移転後の故郷会の継続など,故郷とのつながりの維持志向性が特徴的であった。とくに,樽床の報徳社を作った後藤吾妻氏,田子倉の13軒の旧家筋の家々などが,村人の面倒見がよく,村の存続の危機への対応のなかで村を守る連帯の中心となっていた。村の中には貧富の差が大きかったが,富める者が貧しい者の面倒をみるという近世以来の親方百姓的な役割が村落社会でまだ活きていた可能性がある。それに対して,岩手県の湯田ダム建設で水没した集落(昭和34~35年に移転)は農家もあったが鉱山で働く人が多い流動的な集落で,代替農地の要求はなかった。さらに樽床ダムより約30年後に建設された太田川上流の温井ダムの場合には1987年に集団移転がなされたが,その際村人たちは受身的ではなく能動的に新たな生活再建を進めた。このように,移転時期による差異や定住型か移住型かという集落の差異が注目された。そして,故郷喪失という生活展開を迫られた人たちの行動を追跡してみて明らかとなったのは,土地に執着をもたず都市部に出て行った人たちの場合は新しい生活力を求めて前向きに取り組んだということ,その一方,農業で土地に執着があった人たちはその故郷を記憶と記念の中に残しその保全活用をしながら現実の新たな生活変化に前向きに取り組んでいったということである。つまり,更新と力(移住型)と記憶と力(定住型)という2つのタイプの生活力の存在を指摘できるのである。もう一つが世代交代の問題である。樽床も田子倉も湯田もダム建設による移転体験世代の経験は子供世代には引き継がれず,「親は親,子供は子供」という断絶が共通している。

言及状況

Twitter (1 users, 1 posts, 1 favorites)

昭和 30 年代初めのダム建設と集落移転❸湯田ダム 「水底が見えるのが嫌だ」「鬼ケ瀬橋が見えるのが特につらい」集落跡が見えて「せつない気持ちにさせる」のだという。この鬼ケ瀬橋が見えなくなるためにあと 4m の水位アップが要望されてきた。 kenkyuhokoku_207_02.pdf https://t.co/zSwsvvaYnS

収集済み URL リスト