- 著者
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十津 守宏
Morihiro TOZU
鈴鹿短期大学
Suzuka Junior College
- 雑誌
- 鈴鹿短期大学紀要 = Journal of Suzuka Junior College (ISSN:13450085)
- 巻号頁・発行日
- vol.34, pp.105-116, 2014-03-10
歴史的現実の中での「義人の受難」そしてそれに伴う「悪人の隆盛」は、有史以来の普遍的テーマである。旧約聖書における「ヨブ記」が到達した形而上学的な一つの回答--神の超越性の発見--は、人類の思想史の中での一つの頂点とも看做されうるものである。しかし、その回答が普遍性を持つことはなかった。むしろ、人々に受容されたのは、ユダヤ教後期の黙示文学が展開した現世と来世の二元論、時間的かつ彼岸的未来に投影された因果応報の教理の成就であった。原始キリスト教がその黙示文学の強い影響下で成立したことに議論の余地がない。しかし、原始キリスト教の担い手達が間近なものと感じ取り、そして希求していたこの世の終りは一向に到来する気配がなく、一方で黙示文学的希望と熱狂のもとで闘われたローマ帝国からのユダヤ民族の独立運動は惨澹たる結果を民にもたらし、ユダヤ民族は流浪の民となったのである。この期待とは相反する歴史的現実を経験しても、キリスト教がその命脈を保つことが出来た大きな要因はパウロの「十字架の神学」の成立に拠るところが大きい。なぜなら「十字架の神学」は、不幸や災厄に満ちたあらゆる歴史的経験・現実に対する宗教的かつ積極的な価値付けを、神の子イエスが経験した悲惨このうえない受難の十字架にこそ神の栄光と「救い」が顕れるという逆説--この逆説の真理はかの「山上の垂訓」に包含される精神によっても支持されるものである--のもとでなさしめるものであるからである。人間を真に打ちのめすものは、不幸や災厄そのものではなく、その原因が分からないことである。しかし、「十字架の神学」は、人々が経験している過酷な歴史的経験・現実をイエス=キリストの受難の十字架への道を重ね合せることにより、その歴史的経験・現実に宗教的かつ積極的かつ逆説的な意味付けをなさしめるものである。この「十字架の神学」への道は、既に原始キリスト教における福音書の成立の段階--より厳密に述べるのであれば、史的イエスにまつわる伝承成立の段階--において既に準備されていたものであった。永遠回帰の原初的楽園を捨てて歴史と進歩にとりつかれた人間にとっての真の宗教とはキリスト教である、というエリアーデの指摘が実に正鵠を得たものである。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9.3新共同訳)」というイエスの言葉は、原始キリスト教の災因論の根幹をなすものであると同時に、黙示文学だけでなく、歴史的現実における不幸や災厄に対しての意味付けを否定的なそれから積極的なそれへの転換をなさしめたという意味において、原始キリスト教が古代イスラエルの宗教的伝統における因果応報の教理のもとでの災因論の超克を果たしている事を象徴的に表現しているのである。