著者
十津 守宏 Morihiro TOZU
出版者
鈴鹿国際大学短期大学部図書委員会
雑誌
鈴鹿国際大学短期大学部紀要 (ISSN:13450085)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.7-17, 2003

This article is an analysis of the popular carton, 'Neon Genesis Evangelion', focussing on Apocalyptism and its dissolution. Certainly, this cartoon contains those motives which have been typical of apocalyptic stories. It is also certain that these descriptions of the 'end' of history Insinuate the contemporary setback of the idea of the ever progressing World. In this carton, however, it is Apocalyptism as such which comes to the end. Experiential reality will not foreshadow, as the destination of its inherent d evelopment, any apocalyptic Utopia. This is the very reason that Apocalyptism was required in the West in order to radically terminate the repetiton of sinful human behaviours. Such Apocalyptism, however, is difficult in taking deep root in Japan, where human life has been imbued with Oriental pantheism and the concept of erernally returning time. In this respect, 'Neon Genesis Evangelion' calls our serious attention, as it clearly shows the cultural difference between the West and the East in their apocalyptic imagination.
著者
十津 守宏 Morihiro TOZU
雑誌
鈴鹿短期大学紀要 = Journal of Suzuka Junior College (ISSN:13450085)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.13-18, 2008-01-01

This article is an analysis of the popular,`Gundam Seed',focusing on Apocalyptism.It is certain that these descriotions of the `end'of history Insinuate the contemporary setback of the idea of the ever progressing World.However such Apocalyptism is difficult in taking deep root in Japan,where human life has been imbued with Orientel pantheism and the erernally returning time.In this respect, `Gundam Seed'calls our serious attention,as it clearly shows the Japanese Escathology.
著者
十津 守宏 Morihiro TOZU 鈴鹿短期大学 Suzuka Junior College
雑誌
鈴鹿短期大学紀要 = Journal of Suzuka Junior College (ISSN:13450085)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.105-116, 2014-03-10

歴史的現実の中での「義人の受難」そしてそれに伴う「悪人の隆盛」は、有史以来の普遍的テーマである。旧約聖書における「ヨブ記」が到達した形而上学的な一つの回答--神の超越性の発見--は、人類の思想史の中での一つの頂点とも看做されうるものである。しかし、その回答が普遍性を持つことはなかった。むしろ、人々に受容されたのは、ユダヤ教後期の黙示文学が展開した現世と来世の二元論、時間的かつ彼岸的未来に投影された因果応報の教理の成就であった。原始キリスト教がその黙示文学の強い影響下で成立したことに議論の余地がない。しかし、原始キリスト教の担い手達が間近なものと感じ取り、そして希求していたこの世の終りは一向に到来する気配がなく、一方で黙示文学的希望と熱狂のもとで闘われたローマ帝国からのユダヤ民族の独立運動は惨澹たる結果を民にもたらし、ユダヤ民族は流浪の民となったのである。この期待とは相反する歴史的現実を経験しても、キリスト教がその命脈を保つことが出来た大きな要因はパウロの「十字架の神学」の成立に拠るところが大きい。なぜなら「十字架の神学」は、不幸や災厄に満ちたあらゆる歴史的経験・現実に対する宗教的かつ積極的な価値付けを、神の子イエスが経験した悲惨このうえない受難の十字架にこそ神の栄光と「救い」が顕れるという逆説--この逆説の真理はかの「山上の垂訓」に包含される精神によっても支持されるものである--のもとでなさしめるものであるからである。人間を真に打ちのめすものは、不幸や災厄そのものではなく、その原因が分からないことである。しかし、「十字架の神学」は、人々が経験している過酷な歴史的経験・現実をイエス=キリストの受難の十字架への道を重ね合せることにより、その歴史的経験・現実に宗教的かつ積極的かつ逆説的な意味付けをなさしめるものである。この「十字架の神学」への道は、既に原始キリスト教における福音書の成立の段階--より厳密に述べるのであれば、史的イエスにまつわる伝承成立の段階--において既に準備されていたものであった。永遠回帰の原初的楽園を捨てて歴史と進歩にとりつかれた人間にとっての真の宗教とはキリスト教である、というエリアーデの指摘が実に正鵠を得たものである。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9.3新共同訳)」というイエスの言葉は、原始キリスト教の災因論の根幹をなすものであると同時に、黙示文学だけでなく、歴史的現実における不幸や災厄に対しての意味付けを否定的なそれから積極的なそれへの転換をなさしめたという意味において、原始キリスト教が古代イスラエルの宗教的伝統における因果応報の教理のもとでの災因論の超克を果たしている事を象徴的に表現しているのである。
著者
十津 守宏 田中 雅章 Morihiro TOZU Masaaki TANAKA 鈴鹿短期大学 鈴鹿短期大学 Suzuka Junior College Suzuka Junior College
雑誌
鈴鹿短期大学紀要 = Journal of Suzuka Junior College (ISSN:13450085)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.173-178, 2013-03-01

最近、入学するゆとり世代の勉学姿勢にある変化を感じる。それは高等教育機関だからこそ受講できる難解な講義をできるだけ回避しようとする傾向である。つまり難解な授業内容を少しでも理解しようとする姿勢がかけているようにも思われたからだ。 そこで、本研究では宮崎アニメのジブリ作品を環境倫理教育教材として用いることを試みた。スタジオジブリの作品は単なる娯楽アニメではないと評価している。この作品は目的意識を持って視聴すれば宮崎が作品中で訴えているものが鮮明に見えてくる。それならばジブリ作品を環境学習教材として取り上げ、学生が作品中の意図を受取ることができるのかを試みた。 環境意識をどれだけ変化させたのかを測定するためにWeb アンケートを利用した。本稿ではゆとり世代のでも、アニメ教材によって環境意識の変化を述べる。