著者
野島 利彰
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.39-61, 1991-03
著者
野島 利彰
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.137-156, 1990-09
著者
樋口 靖
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.17-31, 1976-03
著者
野島 利彰
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.41-64, 1995-08
著者
野島 利彰
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.65-80, 1987-09
著者
市川 桃子
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.A1-A18, 1982-09
著者
水崎 野里子
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.73-93, 2000-08
著者
樋口 純明
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.59-71, 1983-03

《精神の昼の領域》が文明を牛耳っている現代においては,実証や裏付けという,客観的記録によって人の言動の価値が定められ,また,人の方も自分が加わっている客観的実在物たる体制や組織の意向に自分の意思のすべてを任せきることによって,主体的決断の重責から逃れた空白の安逸を楽しんでいる。他方,《精神の夜の領域》は《昼》の一元的な明るさ,健全な単純さを嗤いながら,夢想の海の中を遊戈しつつ社会的実効性に背を向け,蟄居して全能の主観に淫している。これは共に各領域の偏向著しい場合を述べたが,本来,《昼》は太陽が現出させているのであって,その暖かい光の恵みは生命維持の必要条件であり,人の心を自然の新鮮なオゾンで満たしてくれるはずのものである。また,《夜》に輝く月は,雪のごとく降り注ぐ月光によって,《昼》の景色を一変させ,その演出を通して人の感受性を富ましめてくれるものである。私は以下,精神世界を二元論的に構成する比喩,《昼》と《夜》とを,その比喩の中に象徴的に実在する天体,《太陽》と《月》とに還元することによって,この二元性の根源を問い易い形にした。そして,まず序論で,ドイツ語圏において同様な観点から展開されている二元論をフリードリヒ・シラー(1759-1805),カール・グスタフ・ユング(1875-1961)のもとに辿って,この二元性をそれぞれ異なる仕方において洞察した先達のいることの確認を試みた。さらに本論においては,エルンスト・クレッチュマー(1888-1964)のもとにその確認作業を続けたあと,ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の内に,この二元性の根源をただす問いに対する「答え」を探ってみる。そして,最後に《太陽》と《月》の二元論を総括することになろう。元来,この二元性は,文学作品におけるリアリズムとロマンチシズムの対置や,文学研究における実証主義とヘルメノイティックの対置とも完全に対応するものである。したがって,この二元性のあり方を文学的・心理学的・精神病理学的に探究した先達の論考を辿ったり,秘教的な著作の内にその「根源」を読み取らんとしたりする試みは,文学の本質をめぐる作業として無益なことではあるまい。
著者
河内 信弘
出版者
駒澤大学
雑誌
論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.73-88, 1975-03
著者
胡 玉華
出版者
駒澤大学外国語部
雑誌
駒沢大学外国語部論集 (ISSN:03899837)
巻号頁・発行日
no.55, pp.91-108, 2001-09

近年来、日本における中国語学習者の増加にともなって、夥しい種類の中国語教科書が次々に現れ、初級だけでも毎年30種類以上の新刊が出るほどである。それ自体は、多様で独創的な教材選択の範囲を大きく広げ、中国語教授者にとって喜ばしい現象であることを否定するつもりはない。しかしながら、他方、「その教育内容や教育過程についてはほとんど研究が行われず、教員の資質や教科書の内容に関して現状はまさに百花繚乱であり、いわば無政府状態である」という手厳しい指摘もあり、それは当を得た鋭い批判であると言える。そうした状態の中で、教育する側にとって、中国語の授業を如何に適切かつ効果的に行うかという課題の検討がいっそう重要になってきている。教育現象を心理学的に研究することを目標とする教育心理学(educational psychology)によれば、授業は、教師の教授活動と学生の学習活動との統一的な過程である。教授活動は、学生が一定の学習活動を遂行し得ること(課題の解決)を目指して行われるが、その解決する課題の内容によって、学習活動は二つのタイプに分けられる。一つは、それぞれの「課題」と「解答」を対にして学習するという「個別的学習」タイプである。例えば、歴史年号を学習する際に、「新中国の誕生は1949年だ」という一つの「課題」を学習すると、それ一つについては「解答」することができるようになる。しかし、「では、文化大革命は何年に始まったか」という別の「課題」には全く答えることができない。もう一つは、多くの「課題」に答えるために、それらの課題を全体として支配する「ルール」を学習するという「ルール学習」タイプである。例えば、数学・物理のさまざまな「法則」・「原理」・「公式」の学習が「ルール学習」にあたる。また、外国語の文法(例えば、語序の規則・動作の時制・態の表現方法など)はルール化することができるので、「ルール学習」を行うことが可能である。「ルール学習」の教授過程は、最も基本的で単純なパターンとして、特定のルール(rule)の例示と、そのルールの活用事例(example)の例示という2つのファクターによって構成される。例えば、中国語文法の例を取り上げると、ルール:中国語の動詞は目的語の前につくルールの事例:我(僕)/〓(君)/〓(愛する)我愛〓。(僕は君を愛している)このような「中国語の動詞は目的語の前につく」という「ルール」を覚えると、たくさんの中国語文が読め、書けるようになる。つまり、「個別的学習」に比べて、「ルール学習」は記憶の負担が少なく、未知の課題の予測、或いは解答も可能になるという大きな利点がある。しかし、中国語の文法がルール化を可能にする構造を持っているからといって、中国語文法の教授が「ルール学習」で必ずしも成功するとは限らない。文法事象をどのようにルール化するか、当該ルールを学習者に理解させるために複数の事例からどの事例を選択するか、ルールと事例をどのような配列で提示するか、ルールの例外例をどう扱うか、ルールを既有知識と結びつけられるかどうかなどの問題を解明しなければ、文法規則の学習過程はさしずめ「個別的学習」にとどまってしまうだろう。ここでは、「ルール学習」という教育心理学の視点に基づいて、近年出版された中国語教科書の幾つかを参照し、中国語文法教授の現状及びその問題点を分析し、文法教授における「ルール学習」の留意点を検討したい。