著者
阪野 祐介
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2006年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.10, 2006 (Released:2007-03-01)

_I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。 1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。 こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。 _II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。 公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。 _III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。 ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。 _IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
著者
藤村 健一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2006年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.16, 2006 (Released:2007-03-01)

京都をはじめとした国内の多くの観光地では,著名な仏教寺院が重要な観光資源となっている。こうした「観光寺院」は,現代の日本人にとって馴染み深いものであるにもかかわらず,人文地理学や観光学,宗教学では等閑視されてきた。そこで本発表では,観光寺院に付与された意味について予察的に考察する。第一に,現在の観光寺院に付与された意味が,主として「観光地」・「宗教空間」・「文化遺産」の3概念に集約できると仮定する。そして, 3概念の関係を既往研究に基づいて整理することにより,観光寺院の意味の構図を仮説的に提示する。第二に,この構図に基づき,観光寺院の意味をめぐる主体間の対立を,京都の文化観光施設税(文観税)・古都保存協力税(古都税)の紛争を事例として分析する。 上述の3概念のうち,観光とは一種の娯楽の販売・消費であり,観光地はそのための場所であるのに対して,宗教の目的は一般に利潤追求と相容れないとされており,宗教空間としての寺院は,観光地であることと潜在的に矛盾する。また,文化遺産ことに文化財に関しては行政が保護を担当するが,行政による宗教空間の保護は,潜在的には政教分離原則に抵触する恐れがある。このように,「宗教空間」-「観光地」,「宗教空間」-「文化遺産」の関係は対立の可能性を孕む。一方,「観光地」-「文化遺産」の間には相対的に親和性が認められる。確かに,観光客による文化財の毀損は跡を絶たないが,文化財は極力一般に公開されるべきものとされており,所有者である仏教教団でも拝観を制限することは稀である。また,寺院への観光は主に文化観光の一環として行われているため,観光寺院には文化遺産であることが求められる。 文観税・古都税紛争では,寺院に「文化観光財」・「文化財」という意味を付与し,その「観賞」行為への課税を試みる京都市側に対して,教団側は寺院や「拝観」行為の仏教的意味を強調し,課税を政教分離原則の違反と見なした。これは,「宗教空間」-「観光地」,「宗教空間」-「文化遺産」の対立の顕在化として理解できる。