- 著者
-
笹田 教彰
- 出版者
- 佛教大学
- 雑誌
- 仏教学部論集 (ISSN:2185419X)
- 巻号頁・発行日
- vol.98, pp.1-20, 2014-03-01
昭和五年(一九三〇)石川県永光寺から発見された十二巻本『正法眼蔵』は、各巻が緊密な関係をもって構成されており、七十五巻本とは明らかに編集態度を異にしている点が特色とされている。本稿は、七十五巻本ではほとんど言及されなかった「臨終」「臨命終時」等の用語が十二巻本に集中して用いられている点について、道元は当時の浄土教思想に基づく臨終正念重視の風潮を等閑視していたのでもなく、また自らの死を強く意識して命終の一瞬をことさら注視していたものでもないと見方から、同時代の臨終正念重視の思想的特色を踏まえ、道元の「臨終観」を明らかにするとともに、十二巻本編集における道元の意図や構想について私見を呈した。従来の研究では、臨終正念が重視されていた当時の浄土教思想を踏まえて論が構築されていたが、臨終正念への偏重という「こだわり」は、一面、因果の道理を否定するものであったという点、またそれは善知識の助けによって成就することができるという、その役割が異常なほど高められていた点を、十分に捉え切れていなかったといえよう。この二点に着目することによって、善知識の役割にまったく触れていない道元に「人身を失せんときに対する異常な関心」を見届けることは不可能であり、十二巻本全体が「因果をあきらめること」という思想で貫かれていることの意味が、より一層鮮明になってくると考えるのである。十二巻本の撰述に関しては、「撥無因果」を断善根と明示した如浄禅師の教えを記した『宝慶記』が読み返され、「深信因果」巻では徹底して因果を撥無することを戒めて「三時業」巻へ発展させたとみられており、昼夜無間断の積功累徳こそが如浄禅師への報恩行と考えられ、「十二巻本新草の具体的な動機となって、改めて「仏教とは何か」を説いておかねばならない」と道元は考えていたと推測されている。七十五巻本ではほとんど用いられることのなかった「断善根」「続善根」「積功累徳」が■繁に語られるのは、業法因果論を否定する邪見に落ちることなく、因果の道理や三時業の道理が、寸分違わず働き続けるということを徹底して信じ切ることを、どうしても言い残しておきたかったためであろう。