出版者
広島大学大学院文学研究科
雑誌
広島大学大学院文学研究科論集. 特輯号 (ISSN:13477013)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.1-73, 2012-12-25

本稿執筆の経緯と各論文の要旨2009年に筆者は学位論文をもとに本広島大学出版会より『黎初ヴェトナムの政治と社会』を上梓した。お世話になったヴェトナム本国諸機関や研究者数名に謹呈したところ、同書は日本語で書かれているため、「せめて一部でも内容を紹介して欲しい」との依頼を人文社会科学大学歴史学科より受けた。そこで、日本の歴史学の研究水準を紹介すべく、著作中のいくつかの章を選び、2011年12月19日より3日間にわたって大学院生、研究生を対象とした集中講義を行った。各講義論文はすべて八尾本人がヴェトナム語に翻訳したが、授業時間や聴講対象がヴェトナム人であることから、元論文にはない註を加えたり、逆に不要な部分を削ったりして長さを調節した。各論文の要旨及び原掲は以下の通りである。第1論文(上記書序章)「藍山起義と『藍山実録』編纂の系譜」ヴェトナムではドイモイ(刷新)政策の進展により、政治・経済状況が安定し、外侵への危機感も希薄化した結果、ひところの「民族解放史観」は影をひそめ、歴史上の英雄や史跡なども観光の目玉として注目をあびるようになってきている。15世紀初に黎朝を創設した黎利Le Loiもそうした英雄の一人である。明朝からの独立戦争を記した書として彼の自著とされる『藍山実録』がある。同書は17世紀後半に重刊版が出され、それが専ら研究では用いられてきたが、1971年に原本に近いとされる写本が発見され、重刊版と多くの相違点のあることが判明した。本論は15世紀初の原本作成から20世紀に至るまでの同書の改変を時系列に沿って概観し、そうした改変が行われた原因を考察する。そして結果として前近代の歴史編纂が現在の「公定史観」の形成に直接つながっていたことを論じ、同時に原史料保存の重要性、緊急性を訴えるものである。第2論文(上記書第6章第1節と第7章を合体)「黎朝前期安興県ハナム島における田地開拓-自願民による開拓形式-」黎朝は成立後、国家機構の再建、荒廃した国土の回復など多くの問題をかかえていた。もっとも人口が稠密で先進地帯である紅河平野においては、田地回復と同時に新規開拓の可能性が模索されたが、その試みは開拓主体によって3つ-官主体、有力者主体、一般民主体-に分けられるが、本論では、一般民が主体となって開拓がなされた事例を分析した。民生が安定してくるにつれ、人口増から土地不足が深刻化してくる。やむなく政権は「占射」「通告」という申告制度によって民の自発的農地開拓を奨励した。こうした事業の実態を伝える事例はごく僅かであるが、開拓から村落単位としての登記、課税方法の確定過程、そして中央官と地方官、それに開拓民との間で交わされた文書の内容を記した碑文史料の存在するクアンニン省ハナム島の事例を取り上げ、民による営為に対して、奨励はしつつも「隠田」などの不正行為を監視するため、国家側が中央から執拗に役人を派遣するなど、「完成された土地制度に基づく国家」とはほど遠い実態を示唆した。第3論文(上記書第9章を圧縮)「黎聖宗期の嘉興地方-盆地の社会-」本論では、小農経営が一般化しつつある紅河平野社会とは対照的に、人身的な支配が多分に残存する黎朝前期のヴェトナム西北地方の盆地社会に目を向けたものである。同地は形式的には黎朝の支配下にあるが、村落内部の政治に関与した形跡はない。しかし同地のムオン族首長(同時にムラの長)は黎朝の文書形式に則って「嘱書」(遺言書)を作成し、村落内部での独自の土地支配形態や人身支配を「成文法」化させ、固定させることに利用したのである。こうした異質の2つの社会を包摂するのが黎朝政権だったのだが、当の黎朝皇帝や開国の功臣たちも、もとはタインホアの小首長たちであり、彼らのもとの姿も、実はこうしたものであったに違いない。明の侵略さえなければ、あるいは明の支配が彼らの内部統治に干渉しなければ、彼らはこうした平野の政権から一定の「自治」を与えられた小首長であり続けたはずである。