著者
吉村 征洋
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.21, pp.67-83, 2014-01

本論文では、シェイクスピアの2 つの物語詩であるVenus and Adonis とThe Rape of Lucrece において、赤と白と戦争のイメジャリーが散見することを例証し、これらの共通点をエリザベス朝政治的コンテクストから考察すると、この2つの物語詩にはコード化されたメッセージが内在することを指摘している。2 つの物語詩では、情欲に溺れる為政者が共通して登場するが、これらの為政者たちを表象する色として「赤と白」が使われている。赤と白の色は、戦争に関する語句と密接に連関している。こうしたイメジャリーは、薔薇戦争を想起させる。ヴィーナス・ルクリースの赤と白の表象がエリザベス1 世表象と酷似している点、2 つの物語詩における情欲に溺れる為政者像とエリザベス朝晩年に恋愛ゲームにうつつをぬかしたエリザベス1 世との類似点、さらには薔薇戦争との連関を考察すると、シェイクスピアは2 つの物語詩における為政者の人物造型において、エリザベス1 世を意識して執筆したことが想像できる。結論としては、2 つの物語詩をエリザベス朝当時の政治的コンテクストから検証すると、反エリザベスイデオロギーを包含していると指摘している。
著者
Herke Michael
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.22, pp.81-100, 2015-01

スザンナ・ムーディは前作Roughing It in the Bush の続編としてLife in the Clearing versus the Bush を1853 年に執筆した。この作品は前作同様に素描集であるが、本作ではカナダの成長しつつあるオンタリオ州の町における生活に焦点が当てられている。本作は一方で19 世紀の植民地カナダの人々や場所を描写しているが、精読すると、願望充足という前作とのテーマの一貫性が明らかになる。若かった時に暮らしていたイングランドへの回帰が、彼女のカナダやイングランドについての解釈を特徴づけている。本作における語りには単なる街の生活描写以上のもの、すなわちミシェル・フーコーが論じた学校や精神病院や刑務所といった「支配の空間(spaces of domination)」のような文明化するテクノロジーとともにもたらされるユートピアへの処方が表されているのである。ムーディの語りによれば、これらの構造物のみが、ムーディ自身のように訓練された自制心による無限の規制のもとに生きる個人、完璧な社会の中へ統合され得る市民をつくり出すことができる。Life in the Clearing versus the Bush は結局のところ解答のないコメディであって、すべてのユートピアと同様に、どんなに良い意図が込められていようとも実現され得ないものである。それにもかかわらず、ムーディは喜劇的要素や喜劇的登場人物を用いており、本論文ではそれらが前述のテーマにどのように貢献しているか検討する。Susanna Moodie wrote Life in the Clearing versus the Bush in 1853 as a sequel toRoughing It in the Bush. Also a collection of sketches, the focus this time was onlife in the towns in the growing province of Ontario, Canada. While on one levelthe text does offer portraits of the people and places in 19th century colonialCanada, a closer reading reveals a thematic consistency of wish-fulfillment withits predecessor. Mrs. Moodie's quest to return to the England of her youth stillinforms her interpretations of both Canada and England. What emerges from thenarrative in Life in the Clearing versus the Bush is more than a description of citylife, but a prescription for a utopia to be brought about with civilizingtechnologies Michel Foucault calls 'spaces of domination': the school, theasylum, the prison. According to Moodie's narrative, only these constructs canreform citizens who can integrate into the perfect society, individuals like Moodieherself, who live under the indefinite discipline of a trained conscience. Moodieuses comic elements and characterizations in her sketches and this article will alsoexamine their contribution to the aforementioned theme.
著者
村上 司樹
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.22, pp.141-160, 2015-01

古典的通説ではカロリング期以降いわゆるグレゴリウス改革以前(10-11世紀半ば)のカタルーニャ(現スペイン北東部)は、ラテン・キリスト教世界全域でも教会腐敗が特に著しかった地域、旧態依然たる在地社会の典型とされてきた。教会史研究のみならず封建社会成立論や、その特異な史料状況とも複雑に絡まりあった伝統的理解は、しかし最近30 年間の研究の進展によって大幅に書き換えられている。それを後押ししたのは、現地カタルーニャにおける史料刊行と個別所見の蓄積であると同時に、研究のさらなる国際化にともなう視野の拡大および方法の多様化であった。筆者は以前本誌において、主として律修教会(修道院)に即しつつ、中世カタルーニャ教会史研究のこのような現状を概観した1。今回はもう一方の在俗教会(主に司教座教会)に焦点を当て、司教区単位で深化している最近30 年間の研究動向を整理するとともに、旧稿では保留にした領邦政治との関係や聖堂参事会改革をめぐる議論の革新にもふれたい。