- 著者
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竹村 則行
- 出版者
- 九州大学
- 雑誌
- 文學研究 (ISSN:03872823)
- 巻号頁・発行日
- vol.101, pp.63-76, 2004-03-31
建部綾足『本朝水滸伝』後編に登場する楊貴妃は、その全体の構成や他の人物設定と同様、何とも奇抜な設定で読者の目を奪う。それは、安禄山の乱の渦中、馬嵬の変を危うくのがれた楊貴妃が、遣唐使藤原清川の帰国に伴って、日本は九州筑紫(福岡・佐賀)に移り住み、作品の主題である道鏡打倒に絡み、一派の阿曽丸暗殺に加担して失敗するというものである。小稿は、中国や日本における楊貴妃故事の転変に関心を持つ筆者が、偶々居住する筑紫の現地から、『本朝水濤伝』と楊貴妃故事について考察しようとするものである。『本朝水滸伝』後編の五条中に描かれる楊貴妃故事について、小稿では、その殺害描写、日本の異文化に接した楊貴妃、そして、楊貴妃が移り住んだ筑紫と作者自身の筑紫旅行との関係等の三つの方面から考察を加える。まず、楊貴妃の殺害描写について、御車に侍った牛飼が貴妃を轢き殺そうとするその時に、叔父の楊蒙が貴妃の衣服のみを御車に轢かせて周囲を欺き、生身の楊貴妃を救出する場面が描かれる。『唐書』『通鑑』等の中国側史料には貴妃が馬嵬の変を生き延びたという記録はなく、楊蒙の存在も含めて、日本側の捏造と考えられる。(山口県油谷町の楊貴妃墓に纏わる貴妃東渡伝説も、日本の熱烈な楊貴妃ファンの仕業であろう。)次に、日本文化に接した楊貴妃が、女スパイになるべく、清川の周旋で日本語を特訓する場面があるが、そこに登場する唐詩や中国語には唐音の読み仮名が付いている。これは建部綾足が当時の唐話学ブームの中で理解していた中国音であると思われ、恐らくは福建語に近い中国南方音を反映したものと考えられる。また、筑紫に移り住んだ楊貴妃の一行は、小舟で唐津や箱崎、香椎を移動するが、この地理設定は、『本朝水滸伝』には珍しく矛盾や出鱈目が少ない。それは、建部綾足自身が三十二、三歳時に大阪から長崎へ船旅をした途次に、筑紫路を経由した体験(紀行「浦づたひ」「花がたみ」)がここに反映しているからであろう。こうして、奇想天外の出鱈目に溢れる『本朝水滸伝』ではあるが、嘘から出た真実、そこに描かれた楊貴妃故事を通して、江戸初期の中国学の実態や作者自身の筑紫旅行の反映等の真実を伺うことができるように筆者は考えるのである。