著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
高鶴 礼子 福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.173-184, 2012

近現代の川柳は文学としての研究・批評の対象とはなりがたいという認識が、残念なことに現状においては一般的である。が、近現代の川柳の中にそうした対象たりうる作品・作家が見当たらないのかといえば、けっしてそうではない。本稿は、そうした作家のひとりである中山秋夫を取り上げ、その存在を明らかにするとともに、川柳という表現行為の持つ意味と意義について考察しようとするものである。対象とする作家・中山秋夫が現状では無名であり、先行研究もない状態であることから、記述の縦軸にはその境涯を据えた。また、中山がハンセン病患者であったということから、横軸には、わが国におけるハンセン病者を取り巻く通時的状況を置いている。これは、中山の作品や生とは不可分なものである。 川柳の抄出は中山がただ二冊残した川柳集『父子独楽』『一代樹の四季』に拠った。一九二〇から二〇〇七年という中山の生きた時代は、日本という国が激変を内に含んだ時代でもある。家族との別離、瀬戸内の邑久光明園への強制隔離・収容、断種、結婚、療養所内での労働、病状の昂進、失明、ハンセン病違憲国賠訴訟原告団への参加から死にいたるまでの、揺れに揺れた生涯の中で、中山は川柳と出会い、川柳を掴み取り、川柳を携えていった。病により、突然、差別される側に立たされ、死が常態であるという壮絶な状態に置かれ続けた中山が、歩けもせず、見えもせず、鉛筆を手に取ることもできずといった状況の中で、荒れ、笑い、傷つき、怒り、和み、吠えながら刻み続けた川柳の言葉。それらが内包するものについて考えることは、文学の存在理由にも関わる根源的な問いを、考える者ひとりひとりが改めて突きつけられることでもある。人ひとりの人生に関われないで何の文学ぞ、という視点から、中山が積み重ねた自己実現の様相と川柳がそれに対して果たしえた役割を考えるとともに、中山の川柳が、ともすれば鈍感なマジョリティでいることに気づかないでいる私たちに、提起する問題についても考察する。