- 著者
-
藤澤啓子
赤林英夫#
中室牧子#
菅原ますみ
- 出版者
- 日本教育心理学会
- 雑誌
- 日本教育心理学会第60回総会
- 巻号頁・発行日
- 2018-08-31
企画趣旨 教育心理学は,「教育」という現象を,教育学的関心に基づく心理学,あるいは心理学的方法による教育学の視点から理解し,実践へと結びつける実証科学である(安藤, 2013)。一方,近年社会的な耳目を集めている教育経済学では,学力など広く「教育」に関わる現象を,経済学的理論から導かれる仮説を元に実証し,その成果を,教育政策の選択や制度設計に生かしつつある。 「教育」を同じく見つめ,同じ事象を検証するのであれば,そこから生み出される知見に大きな差異はないはずである。それにもかかわらず,異なる理論的背景や方法論が用いられるために,両学問分野の生産的な対話が阻まれてしまうことがある。 本シンポジウムでは,子育て方法や子どもの適応的な発達といった,教育心理学が従来十八番としてきたことにまで広がってきた,教育経済学の最新理論や研究動向を紹介する。それらに応える形で教育心理学の伝統的な方法論に基づく縦断研究の知見を提示する。両学問分野からの話題提供を踏まえ,教育心理学と教育経済学が同じ土俵に上がり,学問的対話を進め協働する可能性やそのための課題について議論する場としたい。話題提供経済学は子育てをどう見ているか:人間の発達の経済学赤林英夫 伝統的経済学では,教育は親や学校が行う投資行動と見なされる。そこでは,こどもは「時間」や「お金」などを投下され,「人的資本」という抽象的概念でくくられる学力・知識・非認知能力などが生産される工場のラインのような無生物的存在である。数学的には「教育生産関数」として,教育のアウトカムには,こどもの生来の資質に加え,学校や親の資源の投下量との安定的な関係が想定される。家庭教育や学校の選択が,親や子どもの資源量に依存すると考えると,親世代と子世代の経済社会状態の間には正の相関が生じることが理論的に導かれる。 このようなモデルは,経済学において理論・実証の両面で一定の成功を収めてきた。しかし,教育心理学・発達心理学からはどう見えるであろうか?人間の発達過程を極端に単純化し,表面的にしか見ていないと思われるのではないだろうか。そもそもこどもの発育は自律的な過程であるはずだ。馬を水辺に連れて行くことはできても,水を飲ませることはできない。親や園・学校が子どもに「強制的」「一方的」に「投資」することなど不可能であることは,子育ての経験があれば誰にでも分かる。それがあたかも可能であるかのような数学的記述が人的資本理論であり,教育生産関数であるから,心理学の世界では違和感が払拭できないのは当然であろう。 発達心理学においては,親とこどもの関わりあいや,こどもの行動に対する親の接し方(子育て方法)が,こどもの発育に強い影響を与えるとされているはずである。子育て方法とはそもそも何か,そのための資源とは何を指すのか,子育て方法はなぜこどもの発育に影響があるのか,親によって子育ての方法がなぜ異なるのか,それらの相互作用は,世代間の社会経済格差や教育格差の連鎖にどのような含意をもたらすのか。それを解く鍵は,子どもが自ら「水を飲む」主体であることを認識することにあるのは明かだ。しかしこれは非常に面倒なことである。親の一方的な投資であれば親の最適化問題の解を求めればよいが,子どもが自発的なプレーヤーであると,親子の相互作用を同時もしくは逐次的に考慮するゲーム理論的なモデルを必要とする。そして,通常観測される生産関数は,ゲームの解を反映した誘導型に該当するはずである。ゲームに複数の解があれば,安定的な生産関数の存在は否定されかねない。 こどもの発育過程を親子間の心理的関わりの結果と見なし,子育て方法の選択原理を理論的に解明し,観測される親子関係やこどもの発育への影響の解釈を試みるのが「こどもの発達の経済学」である。本稿では,理論的な立場からBeenstock (2012), Heckman and Mosso (2014)などを出発点としてサーベイを行う。最初に,伝統的理論としてBecker-Tomes (1979), Solon (2004)を紹介し,その後の展開として,Cunha and Heckman (2007), Akabayashi (2006), Lizzeri and Siniscalchi (2008), Doepke and Zilibotti (2017) などを紹介する。その上で,この分野の今後の発展の方向性について議論する。競争意欲やリスク態度は子どもの学力に影響を与えるか中室牧子 近年,多くの国で,数学の学力テストに男女差があることが報告されている。男子は女子よりも数学の学力テストの点数が高い傾向があり,過去の研究では,この男女差は,競争環境への選好の差によってもたらされているのではないかという指摘がある。ラボ実験を行った様々な研究が明らかにしたところでは,男性は女性に比べて競争を好み,競争的な環境のほうが高いパフォーマンスを発揮することが知られている。つまり,数学などの理数系の科目でよい点数を取ることや理数系の学科や学部への進学は競争が厳しいと考えられるので,競争的な環境を好まないとする女性が数学の点数が低くなったり,理数系への進学を望まないという可能性である。本論文では,NiederleとVesterlund (2007) に倣って,日本の首都圏にある自治体の全公立中学校 (6校,約800名)で,競争意欲,リスク態度,自信などの心理的特性を計測するラボ実験を実施した。また,それらを自治体から得られた学力テストの結果や進学の実績と突合することで,競争意欲,リスク態度,自信が数学の学力テストスコアに与える影響を分析した。ラボ実験によって測定された心理的な特性が,現実の世界における教育成果を予測するかどうかについては,経済学ではまだ十分な研究蓄積があるとはいえないが,進学については理系学部への進学実績の男女格差が競争意欲によって説明されることを明らかにした実証分析は出始めている。ただし,学力に与える影響はまだ十分に分析されていない。そこで,本研究では,競争意欲やリスク態度,自信に明確な男女差が存在し,それらが数学の学力テストに影響していることを明らかにした(ただし,数学のみで英語や国語への影響は観察されていない)。先行研究と同様に,競争意欲と自信は,過去の学力や保護者の社会経済的地位を制御した後でも数学の学力テストに正の相関があることが示されたが,リスク態度はその逆で,よりリスク回避的であれば数学の学力テストの点数が高くなることが示された。この結果は,これは競争意欲の男女差は数学の学力テストの男女差を広げるが,リスク態度の男女差は数学の男女差を狭めることに寄与していることを意味する。今回の発表では,経済学がどのようにラボ実験の中で競争意欲,リスク態度,自信などの心理的特性を計測しているか,そしてそれらの心理的特性と学力や学歴などの現実の教育成果との相関関係を分析しているかということを紹介することを通じて,教育経済学と教育心理学の接点を見出すことを試みる。家庭の経済的不利と学齢期の子どもの諸問題―0歳からの家庭追跡調査より―菅原ますみ 貧困を含む家庭の経済的不利が子どもの認知発達や社会・情動的発達にどのような影響を及ぼすのか,またそれがどのようなメカニズムを経て次世代の経済的不利に持ち越されうるのかは,ノーベル賞経済学者ジェームズ・J・ヘックマン (Heckman, 2013; 『幼児教育の経済学』2015, 東洋経済新報社) の “幼少期の貧困に起因する養育環境の劣化がのちの個人の人生に深く影響し,社会にとってその克服は大きな課題である”という指摘を受けて,心理学と経済学双方の領域から大きく注目される研究テーマとなった。英米の発達心理学においては貧困の影響研究は比較的長い歴史を有しているが,Annual Review of Psychology に関連研究を概観したHuston とBentley (2010)は,アメリカの家庭の低所得は生活財・教育財などの物質的な剥奪やひとり親家庭であること,親の学歴の低さ,少数民族や移民のグループに所属していることなど複数の逆境的な社会的状況と併存するリスクが高いことを指摘している。わが国においても,家庭の低収入は,こうした逆境的な社会的状況と相互作用しながら,親のストレスに由来する養育の質の低下や,家庭内外の教育財の調達困難,居住・近隣環境の劣化,子ども集団の中での社会的排除など,様々な側面での子どもの生活の良質さ (クオリティ・オブ・ライフ:QOL)の低下に関連し,時間の進行とともに子どもの低学力や問題行動の発現,進学・就業困難といったネガティブな結果につながりうると予想される。発達精神病理学・児童精神医学の領域では,家庭の貧困・低所得は,両親の精神障害,両親間の不和,不適切な養育,劣悪な学校・地域環境などの他の慢性的な逆境要因 (Chronic Adversities: CA, Friedman & Chase-Landsdale, 2005) の起点となりうる要因として重視してきており,海外では既に多くの実証的な縦断研究の知見に基づく影響メカニズムの理論化が模索されてきている。なかでもCongerらの家族研究グループでは,家庭の社会経済的変数の子どもの発達に及ぼす影響について,社会原因論(社会経済的要因の発達への影響を重視)における家族ストレスモデル (Family Stress Model) および家族投資モデル (Family Investment Model) と,社会的選択論 (パーソナリティや認知能力等の個人的特徴が社会経済的要因に与える影響を重視)を組み合わせ,多世代相互作用モデル (The Interactionist Model of Socioeconomic Influence on Child Development: IMSI, Martin et al。, 2010; Schofield et al, 2011) を提唱している。本報告では,こうした心理学における研究の流れを紹介するとともに,報告者が実施してきている首都圏1都市を対象とした0歳から中学生期までの経年の縦断データについて,教育経済学が近年注目してきている乳児期からの家庭の経済状況とそれに影響される親の養育や子どもの体験,そしてそれらが小学校期から中学校期の子どもの発達的結果 (outcome) にどう関連するか,そこにはどのような複数経路性 (trajectories) があるのか検討した結果について報告する。