著者
芸林 民夫
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学女子短期大学部紀要 (ISSN:02888211)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.1-13, 1994-09-28

日本では「遊び」にはスポーツ,観光,飲み食い等の道楽,また何も活動しないことなどの意味があるが,また「遊ばせ言葉」に見られるように,日本人にとって「遊ぶ」精神は特別なものでもある。人生に対し一歩離れて眺め,私心の無いゲームをやっているような涼しい態度をとる事で一番洗練された人になる。幾らか仏数的な発想だろうが,この様に自分の道を如何に冷静に辿るかは理想に近づく事になる。その「道」自体は「遊び」でも,「人生」でも,「哲学」でもある。華道,弓道,書道,柔道などなどは欧米の「遊び」にも入るが,欧米では,「趣味」であって,特に凝る人以外は哲学があるような物とは考えない。日本人にとっては「遊」であるから,その道を覚えるには練習することこそ大事である。練習も本番も同じく「道」であるが,西洋人は日本人の練習量に呆れるばかりである。「道」と言えば「武士道」が典型的なもので,武士がその道を忠実に歩くことは,日本人の心の理想を表現することだと言える。新渡戸稲造が「BUSHIDO」で取り上げた武士の切腹する場面においては,その人生観,死に面しての冷静さと「儀式」の正しい形式のこだわり方など,武土が自分の遊を「舞台」と考えていることに,人生の「ゲーム」という印象を強く受ける。それこそ、切腹遊ばされたと言うのが適当であろう。又,「儀式」は欧米人にとって面倒で,自由を奪うものとみえるが,日本人にとっては社会的な役割を果たす。日常生活に節目を付け,また経済的な意味はまったく無いが自分の社会の中の身分や地位を「儀式」によって確かめることで安心する。その反面で,日本人は日本社会の目に非常に敏感であって,国際的な場,例えばスポーツ競技などではプレッシャーがきつくて,失敗することが多いし,「見栄」を張って,それに振り回されている日本人は少なくない。
著者
内田 實
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学女子短期大学部紀要 (ISSN:02888211)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.21-29, 1989-02-28

日本における人口集中地区で10万人以上の都市は142あり,100万人以上の都市は11である。北海道は東京,横浜,大阪,名古屋に次ぐ第5位の札幌と,10〜30万人の6都市があるにすぎない。本州の都市の成立は近畿の古代都市を除けば,中世の城下町,港町に起源をもつ都市が多いのに対し,北海道の都市は,その発展過程において事情が著しく異なる。ここでは北海道総人口の27%を占める札幌市の成立過程において,計画的植民都市として建設された札幌が,現在のプランにならざるを得なかった社会的背景と,現市域に編入されている旧町村の開拓環境について考察した。明治初期の北海道の人口を洪武政夫明治8年版によってみると,人口1万人以上の都市80(全国)のうち北海道は函館と福山(現在の松前)2ヵ所のみで,総人口17万人のうち渡島・桧山・後志に76%が集中し,札幌は1,785人,同12年でも2,910人に止まる。札幌の都市プランからみると,明治2年北海道と改め,10月鍋島直正に代った東久世通禧が開拓使長官となって箱館へ到着,11月判宮島義勇は札幌の地へきて石狩指図によって本府敷地を定めた。その場所は旧札幌図の用水沿い銭函道の交点付近で,この用水は大友亀太郎(幕臣箱館奉行付)が,石狩開拓のため慶応2年伏籠川流域に元村を建設したときの用水で,御手作揚が康午1の村〜3の村の原形となる。開拓使の本庁作りは島の独走で中断をよぎなくし,同4年判官岩村により市街地割が継続された。大友堀の関門の常に市街地,北に官庁,その間に60間(実際は58間)の防火帯(現在の大通公園)を設け,本庁周辺の道路は20間,その他15間半,13間半,市街は方60間に11間道路をつけた。本庁の西側は公園と玄関からなり琴似村へ接続する。これを京都などの方格都市を範としたものとの説があるが,1町60間四方の区画は,殆んどの日本の都市を支配する地割で,京都の場合40丈となるから一致せず,道幅においても相違する。また新しいプランにも拘らず磁北から1度5分,真北から10度15分西寄する。この原因は大友堀とそれに併走する東側道路を基線としたことにあった。屯田兵村は明治8年琴似に始まり,8年山鼻,発寒,11年江別,18年野幌,20年新琴似,22年径路と,32年条令廃止まで24兵村が全道に設けられるが,その7兵村が札幌を囲繞する。山鼻兵村の道路は旧札幌区に接続するにも拘らず,札幌市街より5度6分傾けて4度45分西寄する。その背景には兵部省(薩摩・長州)と開拓使(佐賀)との軋轢が介在し,中央政庁の内部関係と同様な政争の愚が札幌の都市プランに反映したからに外ならない。現在の都市の道路・区画のあり方が,その時代という以上にその時点でのプランに反映していた植民地ならではの遺産であった。また御雇外国人による近代的な都市プランヘの影響などといわれるが,その痕跡もないこと,及び札幌に移住した人々の出身地の特長等についても若干付言した。
著者
大森 郁之助
出版者
札幌大学
雑誌
札幌大学女子短期大学部紀要 (ISSN:02888211)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.A1-A11, 1986-09-30