著者
坂本 光太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.139-154, 2021-03-31

ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b. 1934)は、作曲家、即興演奏者、トロンボーン奏者である。彼は、トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして、ベリオ、カーゲル、シュトックハウゼン、武満らの前衛作品を数多く初演し、また、作曲家としては、前衛音楽の演奏経験を生かした作品を創作するとともに、1970年頃以降、国家による人権侵害や移民を主題とした政治的、社会的作品を発表し続けている。しかしながら、前衛音楽史におけるグロボカールの重要性に反し、演奏会プログラムなどの短いプロフィールを除いて、日本語で書かれた彼の伝記はほとんど見つけることができない。また、欧文のものを見ても、これまでのところ最も総合的な研究であるBeck(2012)でのグロボカールの伝記的記述(独語)では2003年までの文献しか参照されていない。そのため、新しい3つのインタビュー Globokar(2006, 2008, 2014)を踏まえ、それを更新する必要性があるといえるだろう。本稿は、詳細な伝記的インタビューを含むGlobokar(1994)、長編インタビューのGlobokar(2008)、自身による伝記的情報を含む最新のインタビューの一つであるGlobokar(2014)を主要文献とし、グロボカールの発達上の多元性に注目しながら、作曲家としての方向性を明確に定めたとされる1970年代頃までの彼の前半生を明らかにすることを目的としている。本稿は、活動場所あるいは活動内容によって区分された7節からなる。「1. フランスの移民共同体での幼少~少年期(1934-1947):劇場での音楽体験」では、原点である移民としての出自、幼少期の音楽的経験と政治的衝突について、「2. リュブリャナ時代(1947-1955):ジャズ・トロンボーン奏者として」では、スロヴェニアに帰ったグロボカールが、社会主義国家の中でジャズ・トロンボーンを始め、プロフェッショナルな音楽家としてキャリアを開始するまでを、「3. 第一パリ時代(1955-1964):ジャズ、クラシック、スタジオ、キャバレー、そして前衛音楽」では、再びフランスに向かったグロボカールが、パリでクラシック、スタジオ、キャバレーなどで演奏の幅を広げ、人脈とスキルを拡充する中でさらには前衛音楽に接近し、その演奏と作曲を開始するまでを、「4. ベルリン・ニューヨーク時代(1964-1966):コンポーザー・パフォーマーとして」では、前衛音楽の面で決定的な影響を与えたベリオとの師弟関係と、グロボカールが作曲における演奏家の重要性を自覚し、コンポーザー・パフォーマーとして世に認められていく過程を、「5. ケルン時代(1967-1976):教育者、前衛音楽演奏者として」では、シュトックハウゼンやカーゲルとのドイツでの交流の中で、教育者としてのキャリア形成、ダルムシュタット夏季新音楽講習会への参加や、前衛音楽演奏家としてのさらなる跳躍を、「6. 『ニュー・フォニック・アート』の活動(1969-1982):即興演奏」では、主たる活動領域の一つである即興演奏の概要について、「7. 第二パリ時代(1973-79)とその後:IRCAMへの参加」では、彼がフランス、ドイツなどの各地域において強い影響力を持つに至ったことを、それぞれ記述した。自らに関して、どの国にも全く帰属意識を持っていないというグロボカールの言葉は、彼のナショナリティのみならず、彼を取り巻くあらゆる環境に当てはまるように思われる。上に見てきたように、移民労働者の家庭に生まれ、ロレーヌのテュクニュー(フランス)、リュブリャナ(ユーゴスラヴィア/スロヴェニア)、パリ(フランス)、ベルリン、ケルン(ドイツ)、ニューヨーク州(アメリカ)、フィレンツェ(イタリア)と欧米の各国を股にかけ、フランス語、スロヴェニア語、ドイツ語、英語を駆使し、演劇、ジャズ、クラシック、商業音楽、前衛音楽、即興演奏という様々な文化領域を横断しながら、即興演奏者、トロンボーン奏者、作曲家、指揮者、教育者として活動したグロボカールの前半生は、多元性に満ちている。本稿が、日本でのグロボカール作品受容のための一助となることを期待する。
著者
周 紀瑩
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.295-310, 2022-03-31

研究の背景日本と中国の初等教育では,音楽の学習に必要なものとして,古くから読譜を取り入れてきた共通の歴史がある。日中の両国において,読譜は,音楽活動を充実させる上で重要な役割を果たしており,読譜に関する内容の充実は,両国において古くて新しい課題である。日中両国の読譜に関する内容は,絵譜の使用に代表される共通の学習方法と,数字譜のように,中国の音楽文化に根ざした学習方法がある。したがって,日本と中国における読譜に関する内容を比較することは,双方の音楽教科書をはじめ,実際の読譜指導の改善・充実に向けた示唆を得ることが期待できる。研究の目的と方法本研究の目的は,日中両国の読譜に関する基本的な考え方,小学校音楽教科書における読譜に関する内容と方法を比較し,両国の読譜に関する現状と課題を明らかにする。そのために,本研究では,日本と中国の小学校音楽科教育課程における読譜の考え方を明らかにした上で,日中両国の小学校音楽教科書を対象とし,読譜に関する表記を丁寧に分析した。結論本論では,日本と中国の小学校音楽教育課程の基準と現行の小学校音楽教科書を研究対象に,両国の小学校音楽科における読譜に関する内容を比較して分析した。その結果,明らかになったのは次の点である。日本の学習指導要領では「相対的な音程感覚を育てるために,適宜,移動ド唱法を用いること。」,中国の音楽課程標準では「五線譜の指導には,首調唱名法を使うことを提唱する」のように,教育方針は異なるが,類似点がみられる。それは,日本と中国の小学校の音楽授業は,それぞれの楽譜の表記方法を用いて授業を行われているが,児童に相対的な音楽感覚を育成するために,両国とも移動ド唱法が使用されているという点である。また,日本では多くの学校で五線譜を用いて授業が行われており,器楽の学習内容以外は,全て階名を用いて授業を行う教師もみられる。さらに,特に地方の児童は,イ短調が分からないままに,中学校に進学してしまった児童も多いという状況がよくみられるという教師の証言もある。そのため,児童がハ長調の楽譜しか読めないので,移動ドとしての意味があまりないと推察される。一方,近年の中国では,数字譜から五線譜へ移行する傾向が強くなり,特に専門教育に向けての音楽教室では,五線譜で授業を行うようになってきている。それに伴い,五線譜教育を扱うことを望む声が社会的にも高まってきている。中国では,五線譜の場合,数字譜とは違い,固定ドで読むことが一般的になっている。したがって,数字譜の学習が五線譜につながらないという問題がみられる。以上のことにより,日本と中国の小学校音楽科における読譜の指導内容では,多方面から検討していく必要があると思う。そのため,今後は,日本と中国の小学校音楽科教育における読譜に関する指導法について,実際の指導場面の検討などを通して考察を深めていきたい。
著者
渡邉 玲子
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.255-268, 2023-03-31

本研究は、セノオ楽譜に含まれるフルート・レパートリーを考察したものである。これまで近現代の洋楽受容におけるフルートに関する先行研究は主として(1)演奏者、(2)日本人作曲家による作品、(3)教則本の出版、(4)楽器の輸入状況および製造会社の4つの方面から行われてきた。こうした角度から日本のフルート史について解明されつつあるものの、演奏者を育てる媒体としての楽譜に主眼を置いた研究は見当たらない。そこで、本稿では近現代の洋楽受容の中で最も人口に膾炙した楽譜として知られているセノオ楽譜を研究対象とすることで、国内の楽譜出版における最初期のフルート・レパートリーの考察を行った。研究対象のセノオ楽譜は、大正5(1916)年から昭和13(1938)年にかけて妹尾幸陽(1891-1961)が発行人を務める東京のセノオ音楽出版社から出版されたピース楽譜である。主として歌とピアノ、ヴァイオリンとピアノの作品が収録されており、その総数は800点を超える。セノオ楽譜に焦点をあてた先行研究は充実しているものの、フルートの関わる作品が存在している事実はこれまで解明されてこなかった。そこで、本稿では以下の方法で調査を行った。まず、セノオ楽譜において出版点数の多い上位2つの「セノオ楽譜〔声楽譜〕」と「セノオバイオリン楽譜」シリーズに焦点を絞り、本学図書館と東京藝術大学附属図書館、東京藝術大学音楽総合研究センターの3つの機関において計319点の楽譜を確認したところ、フルートが含まれる楽曲が7点見つかった。これらは内容から「フルート・オブリガート作品」と「フルート代用作品」の2つに分類することができた。前者に該当するグノーの《夜の調べ》は、セノオ楽譜において最も重版数が多く、演奏記録からも当時人気の高い作品であったことが窺える。《ミネトンカの湖畔》の重版数は3版に留まるものの、日本人歌手による録音も確認できている。どちらの楽曲もオブリガート・パートは技術的に難しくないが、表現の面で難しい部分が見受けられた。続いて後者に該当するのは、ショパンの《ポロネーズ『軍隊』》、《幻想即興樂中の歌調》、《ベルセーズ》の3曲と、チャイコフスキーの《怪談曲》、《流浪樂師の歌》の2曲である。ショパンの作品は《ノクターン》を中心にフルートとピアノの編成によって演奏頻度が高く、対してチャイコフスキーの作品はフルート・アンサンブルのレパートリーとして大変好まれている。どちらもフルーティストにとって馴染み深い作曲家だが、セノオ楽譜に収められた作品はいずれも現在演奏機会に恵まれたものとはいえない。そして楽曲の内容は、音域や奏法の面からフルートの現実的な奏法に寄り添っていないものも含まれており、技術的には易しいものから高難度も作品まで含まれていたことが分かった。これらの調査から、セノオ楽譜は多様な難易度のレパートリーを提供することでプロとアマチュアのどちらかに偏るのではなく、幅広い立場の人々が演奏できることを目指していた楽譜シリーズだと言えるだろう。また、最も重版数の多い楽譜にフルートがオブリガートとして関わっていたという事実から、「フルート・オブリガート作品」は日本人がフルートのイメージを形成する上で大切な役割を担っていたと推察できる。
著者
佐藤 康太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.1-16, 2023-03-31

メンデルスゾーンの《演奏会用小品第2番ニ短調》作品114にはメンデルスゾーン本人によるものではないオーケストラ伴奏稿が存在する。その編曲者に関して、初演者の1人であり成立過程に密接に関与したミュンヒェンのクラリネット奏者カール・ベアマンではなく、同姓同名の伯父であるベルリンのファゴット奏者ではないかという可能性が、Riedelによって提案されていた。本論文は、候補となる2人のカール・ベアマンのうち、編曲者はミュンヒェンのカールである可能性が高いことを史料の情報を精査することで示すものである。まずオーケストラ伴奏稿唯一の楽譜史料であるミュンヒェンの手稿総譜が、Riedelの想定する自筆の作業用総譜ではなく、あくまで別の史料から書き写されたものであることを、特に第3楽章の修正痕から明らかにする。この箇所ではバスパートのみを1小節ずらして書いてしまったものを後から修正しているが、これは編曲するときには起こりにくく、楽譜を筆写するときに容易に起こるものである。続いて、このミュンヒェンの史料が、誰によって書かれたものかを考察する。Riedelは、この史料の筆跡がミュンヒェンのカールによるものではないという点から、書き手としてベルリンのカールを想定した。しかし筆者がこの史料を、ベルリンの確実性の高い史料と比較した結果、書き手はミュンヒェンのカールの父であるハインリヒ・ベアマンである可能性が非常に高いことが明らかになった。中でも、イタリア語の序数secondoをIImoと誤記している点は、この2つの史料に固有の特徴である。また本史料に使われているのがミュンヒェン近郊の紙工房のものであること、そして本史料がミュンヒェン宮廷楽団のコレクションであったことも、書き手がハインリヒであることを支持する。もしベルリンのカールが書き手であるとしたら、同じ筆跡による複数のハインリヒ・ベアマンの作品が同コレクションに含まれていることの説明がつかない。史料の書き手がベルリンのカールではない以上、編曲者としても彼を想定する必然性はない。筆者はさらに、オーケストラ伴奏稿の第1楽章のカデンツァが、ミュンヒェンのカールが所持していた筆写譜に基づく初版譜のそれと明確な共通性を示すことを指摘し、編曲者としてもミュンヒェンのカールを想定すべきという結論に達した。なぜハインリヒが息子の楽譜を書き写す必要があったのかは確かに疑問ではあるが、それだけを理由に編曲者としてベルリンのカールを想定することは、史料そのものから読み取ることのできる情報に反する。最後に筆者は、現存史料の関係性を樹形図として示した。第2楽章のカデンツァの違いから、オーケストラ伴奏稿のもととなった筆写譜と、初版譜のもとになった筆写譜は――両方ともベアマン親子が所持していたはずだが――異なるものであった可能性が高い。
著者
坂本 光太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.125-140, 2020-03-31

《エシャンジュ Échanges》(1973 / 1985)は、ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b. 1934)自身のトロンボーン奏者、即興演奏者としての経験を積極的に使用した金管楽器ソロ作品であり、本人が演奏することを前提として作曲された。「この記譜法はパズルに等しい」という本人の言及からも伺えるように、本楽曲の記譜をそのまま演奏することは困難を極める。本稿の目的は、1973年版と1985年版の2種類の楽譜、1978年と1992年の自作自演録音をそれぞれ比較し、グロボカールの作曲者と演奏者の両面を検討することによって、作曲者本人ではない奏者による《エシャンジュ》演奏実践の可能性を呈示することである。楽譜の分析として、1973年版と1985年版の比較を行った。前者には即興演奏こそ明確に認められていないものの、形式的構造などの様々な実践的アイデアを見いだすことができ、その実演が想定されていることが伺える。それに対し、後者の記譜にはより強固に「音色の研究」という実験精神が前面に押し出され、より理念的であるが、一方でこの作品の即興演奏が認められている。自作自演録音の分析から、部分的に楽譜から抜粋して演奏する部分が存在しつつも、記譜と演奏実践に大きな乖離があるということで明らかになった。いずれの録音も、演奏全体は即興的でありながら、1973年版の楽譜と同じように、形式的構造で統一感を保っている。また、グロボカールは「音色の研究」のために、楽譜に書かれていない様々な工夫を行い、多彩な音色やそれに伴う楽想を実現している。以上二つの分析から、《エシャンジュ》は指定されたプリパレーションを用いた音色の研究のための即興的パフォーマンスであるといえる。楽譜は、具体的な演奏内容が示してあるものというよりは、物理的なセッティング(プリパレーション)の交換による即興的パフォーマンスのための「指示書のようなもの」であると考えたほうがよいだろう。演奏実践において重要なことは、音楽的な強い推進力と音の連続性を持って、全体としてのまとまり・形式感・統一感を保ちながら、様々な工夫をもって音色を追求することであり、それは記譜されたシンボルを正確に再現することに優先する。一方で、記譜されたシンボルは完全に無視されるものではなく、演奏者は記譜から全体の構成――例えば1978年の録音のABAのような形式――の着想を得ることできるだろう。本楽曲の演奏は、楽曲全体の音響自体がノイズであるがゆえに漫然としやすい。しかしそれゆえに様々な個別の音響をまとめ、一つの楽曲に統一する構成が必要とされるのであるのである。
著者
坂本 光太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.177-193, 2019-03-29

ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b.1934)はフランス生まれのスロベニア人作曲家、トロンボーン奏者、即興演奏家である。彼の代表作と目される事も多い金管楽器ソロ作品、《レス・アス・エクス・アンス・ピレ Res/As/Ex/Ins-pirer》(1973)は、「身体性」というイメージで漠然と語られこそすれ、今まで詳細に分析・検討されることはほとんどなかった。本稿は、グロボカールの作曲の師であり、《セクエンツァ第5番 Sequenza V》(1966)を共同で作ったルチアーノ・ベリオ Luciano Berio(1925-2003)の影響を指摘しながらこの楽曲の作品を詳細に分析し、その数的な構造性と美学を明らかにすることを目的とする。まずグロボカールと、ベリオの《セクエンツァ第5番》の関係について触れた後に、その影響を踏まえながら、6つの観点(1.特殊奏法の使用法と2.楽曲を構成する10のセクションの「小節」数の枠組み、3.奏法のモード的な配置方法、4.音列、5.ダイナミクス、6.音声学的な要素)から、それぞれの数的な構造性を分析した。その結果、《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》においてグロボカールは、ベリオの《セクエンツァ第5番》から、音声学的要素、音色の拡大(種々の特殊奏法の使用)、身体性の導入などの点において大いに影響を受けながらも、それらを徹底的に拡大し、さらに体系化・組織化したこと、そしてその体系化・組織化には、意図的とも言える欠落を伴っているということが明らかになった。ベリオの楽曲では数回用いられるに過ぎなかった吸気による奏法を、楽曲の根幹に関わるコンセプトとして用い、演奏者に限界までの身体的負担を強いる事によって、楽曲を、演奏そのものが崩壊していくというプロセスに変えてしまったことは、Beck(2014)やグリフィス(1981)も指摘しているように、この楽曲に独自の意味を持たせている。すなわち、「演奏者の身体と楽器は、正確に音を出すための装置である」という規範を反転させ、生身の人間の身体が関わる時の、システムの否応なしの崩壊を現出しているのである。そして、楽曲中の各パラメーターに現れる数的な構造の中の意図された欠落は、自壊に至る身体のプロセスと共に、「完全な数的構造」=「体系化・組織化」という規範から、音楽そして身体の逸脱(解放)を重要な美的契機として呈示している。