著者
井内 敏夫
出版者
早稲田大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

初期中世ポーランドの国制・社会制度についての見方は、1960-70年代に開始されるK・ブチェクとK・モゼレフスキの大論争を通じて、大きく塗り替えられた。二人の基本的な視点はよく似ており、論争を通してブチェク=モゼレフスキ理論と呼び得るような史観が形成され、その到達点がモゼレフスキ著、chlopi wmonarchii wczesnopiastowskiej,1987といえる。これに対する批判の代表が、S・ガウラス著、O ksztalt zjednoczonego Krokestwa,1966とJ・マトゥシェフスキ著、Vicinia id est...,1991である。モゼレフスキ理論の方法は遡及にある。ポーランドでは13世紀に幾千通のインムニテート文書が現れるが、そこで読み取り得る構図を12世紀の少数の文書と年代記、ならびにゲルマンや周辺スラヴの部族期の史料を参考にしながら、インムニによって崩れていく古い体制の要素と新しく誕生する要素を選り分けていく。彼によれば、前者が公の権利体制、後者が土地領主制ということになる。つまり、公の権利体制とは、君主としての公に象徴される国家に農民と戦士が総服従の状態にある制度であり、わが国の公民制に似ている。この初期国家は、地方行政機構を整え、部族期の一般自由民から分化した農民を様々な義務を持つグループに分けて、食料貢租や役務だけでなく、手工業製品、サーヴィスなどを徴収し、自足体制を築き上げた。しかし、その一方で、国家として機能していくためには、農民に部族時代の一般自由民としての基本的な権利を認め、またオポレと呼ばれる古来からの隣保共同体の協力を必要とした。それゆえ、農民から土地への権利や移動の自由を奪い、土地領主制と農奴制へと転換するにはほぼ200年に及ぶ時間を必要とした。このようなモゼレフスキ理論に対し、ガウラスは、10世紀末から12世紀末まで変化のない体制というのはありえないとし、マトゥシェフスキはモゼレフスキ理論の根幹の一つであるオポレ組織の存在を否定する。私には今後、史料の検討が必要となる。

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