著者
伊勢田 哲治 Iseda Tetsuji
出版者
応用倫理学研究会
雑誌
応用倫理学研究
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-17, 2006

功利主義者たちは戦争の問題について何を言ってきただろうか、そして彼らの議論から我々は何を学ぶことができるであろうか。歴史を振り返るならば功利主義の戦争論としてはベンサムやシジウィックの著作があり、近年においてもR.M.ヘア、リチャード・ブラント、ジョナサン・グラバー、ピーター・シンガーらがそれぞれ数本の論文を発表している。本論文では、そうした文献の中でも、特に現代の著作を紹介・検討することを通じて、戦争倫理における功利主義的思考法の利点と欠点について考える。戦争と倫理の関わりについては、大きくわけて、戦争を始めるのが正当化されるのはどういう場合なのか、あるいはそもそも正当化される戦争などないのか、をめぐる論争と、戦争の中ではどういう行為が許されてどういう行為が戦争といえどもゆるされないのか、を巡る論争がある。本論文では、まず、正戦論についての功利主義者たちの議論を紹介し、次に戦争の規則についての彼らの議論を紹介する。そののちに、戦争倫理学における功利主義的思考の利点、正戦論と戦争の規則を明確に区分することの意味、個々の戦争について功利主義者が発言する際に気をつけるべきことなどについて論じる。
著者
柏葉 武秀
出版者
応用倫理学研究会
雑誌
応用倫理学研究
巻号頁・発行日
vol.2, pp.135-144, 2005

さまざまな国際環境条約に明記されている「予防原則」は、2003年から2004年にわが国の環境省でも研究会が開かれた事実に顕著に示されるように、現在ますます注目を集めている。先進的な紹介者である大竹によれば、予防原則とは「潜在的なリスクが存在するというしかるべき理由があり、しかしまだ科学的にその証拠が提示されない段階であっても、そのリスクを評価して予防的な対策を探ること」と定義される(大竹・東 2005:18)。応用倫理学的な観点から捉えるならば、予防原則は環境倫理と科学技術倫理を横断するアプローチであるといえよう。 本稿の目的は、F・エヴァルドの予防原則に関する独特の議論を「悪しき霊の再来:予防の哲学の素描」(Ewald 1997)に即して紹介・論評することにある1。エヴァルドは、いまやわれわれは社会的義務と安全の政治哲学に関して、パラダイム転換に直面しているという。19世紀のパラダイムは責任であり、それは20世紀を迎えて連帯のパラダイムに取って代わられた。連帯のパラダイムは福祉国家に対応するものであったが、20世紀後半に入るとこのパラダイムの基礎が揺らぎ、新たなパラダイムが必要となる。それはいまだ名称をもたないのだが、エヴァルドは新たなパラダイムを表現する候補として予防原則を挙げている。 このようなエヴァルドの予防原則論は、フーコー流の「社会史の考古学」ともいうべき歴史認識に導かれたきわめて独創的なものではある。だが、エヴァルドはクセジュ文庫の『予防原則』(Ewald et al. 2001)執筆者のひとりでもあり、フランス予防原則研究の潮流を代表してもいる。したがって、本稿はエヴァルド一人の見解を紹介するのみならず、フランスでの予防原則研究一般に貢献することをも目指している。1節から3節までは、論文の節分けどおりにエヴァルドの議論を要約、紹介する。そして最後に、エヴァルドの予防原則論を同じフランスの論者の論考とつきあわせつつ、論評してみたい。
著者
伊勢田 哲治 Iseda Tetsuji
出版者
応用倫理学研究会
雑誌
応用倫理学研究
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-17, 2006 (Released:2006-08-10)

功利主義者たちは戦争の問題について何を言ってきただろうか、そして彼らの議論から我々は何を学ぶことができるであろうか。歴史を振り返るならば功利主義の戦争論としてはベンサムやシジウィックの著作があり、近年においてもR.M.ヘア、リチャード・ブラント、ジョナサン・グラバー、ピーター・シンガーらがそれぞれ数本の論文を発表している。本論文では、そうした文献の中でも、特に現代の著作を紹介・検討することを通じて、戦争倫理における功利主義的思考法の利点と欠点について考える。 戦争と倫理の関わりについては、大きくわけて、戦争を始めるのが正当化されるのはどういう場合なのか、あるいはそもそも正当化される戦争などないのか、をめぐる論争と、戦争の中ではどういう行為が許されてどういう行為が戦争といえどもゆるされないのか、を巡る論争がある。本論文では、まず、正戦論についての功利主義者たちの議論を紹介し、次に戦争の規則についての彼らの議論を紹介する。そののちに、戦争倫理学における功利主義的思考の利点、正戦論と戦争の規則を明確に区分することの意味、個々の戦争について功利主義者が発言する際に気をつけるべきことなどについて論じる。
著者
伊勢田 哲治 Iseda Tetsuji
出版者
応用倫理学研究会
雑誌
応用倫理学研究
巻号頁・発行日
no.3, pp.1-17, 2006

功利主義者たちは戦争の問題について何を言ってきただろうか、そして彼らの議論から我々は何を学ぶことができるであろうか。歴史を振り返るならば功利主義の戦争論としてはベンサムやシジウィックの著作があり、近年においてもR.M.ヘア、リチャード・ブラント、ジョナサン・グラバー、ピーター・シンガーらがそれぞれ数本の論文を発表している。本論文では、そうした文献の中でも、特に現代の著作を紹介・検討することを通じて、戦争倫理における功利主義的思考法の利点と欠点について考える。戦争と倫理の関わりについては、大きくわけて、戦争を始めるのが正当化されるのはどういう場合なのか、あるいはそもそも正当化される戦争などないのか、をめぐる論争と、戦争の中ではどういう行為が許されてどういう行為が戦争といえどもゆるされないのか、を巡る論争がある。本論文では、まず、正戦論についての功利主義者たちの議論を紹介し、次に戦争の規則についての彼らの議論を紹介する。そののちに、戦争倫理学における功利主義的思考の利点、正戦論と戦争の規則を明確に区分することの意味、個々の戦争について功利主義者が発言する際に気をつけるべきことなどについて論じる。
著者
柏葉 武秀
出版者
応用倫理学研究会
雑誌
応用倫理学研究
巻号頁・発行日
vol.2, pp.135-144, 2005

さまざまな国際環境条約に明記されている「予防原則」は、2003年から2004年にわが国の環境省でも研究会が開かれた事実に顕著に示されるように、現在ますます注目を集めている。先進的な紹介者である大竹によれば、予防原則とは「潜在的なリスクが存在するというしかるべき理由があり、しかしまだ科学的にその証拠が提示されない段階であっても、そのリスクを評価して予防的な対策を探ること」と定義される(大竹・東 2005:18)。応用倫理学的な観点から捉えるならば、予防原則は環境倫理と科学技術倫理を横断するアプローチであるといえよう。本稿の目的は、F・エヴァルドの予防原則に関する独特の議論を「悪しき霊の再来:予防の哲学の素描」(Ewald 1997)に即して紹介・論評することにある1。エヴァルドは、いまやわれわれは社会的義務と安全の政治哲学に関して、パラダイム転換に直面しているという。19世紀のパラダイムは責任であり、それは20世紀を迎えて連帯のパラダイムに取って代わられた。連帯のパラダイムは福祉国家に対応するものであったが、20世紀後半に入るとこのパラダイムの基礎が揺らぎ、新たなパラダイムが必要となる。それはいまだ名称をもたないのだが、エヴァルドは新たなパラダイムを表現する候補として予防原則を挙げている。このようなエヴァルドの予防原則論は、フーコー流の「社会史の考古学」ともいうべき歴史認識に導かれたきわめて独創的なものではある。だが、エヴァルドはクセジュ文庫の『予防原則』(Ewald et al. 2001)執筆者のひとりでもあり、フランス予防原則研究の潮流を代表してもいる。したがって、本稿はエヴァルド一人の見解を紹介するのみならず、フランスでの予防原則研究一般に貢献することをも目指している。1節から3節までは、論文の節分けどおりにエヴァルドの議論を要約、紹介する。そして最後に、エヴァルドの予防原則論を同じフランスの論者の論考とつきあわせつつ、論評してみたい。